現在の増上寺境内は縦長状に長い形状をしていますが、その境内の片隅に小ぢんまりとした境内地を持つ「西向観音」が鎮座しています。
多くの参拝者は西向観音の境内敷地にある風車が付けられた幾多のお地蔵さんに目がいくあまり、この西向観音はスルーされがちですが、なんと!この観音様は『江戸三十三観音霊場の第21番札所』の指定を受けるほどの由緒をもちます。
そして「江戸三十三観音霊場」ということは札所の御朱印があるわけですが、この西向観音でも、モチのロン!江戸三十三観音霊場の御朱印を授与されています。
以下では、この西向観音の御朱印の種類や初穂料(値段)、授与場所(受付時間)と併せて混雑具合について書き述べています。
項・一覧
西向観音の御朱印は1種類のみ!
ここでちょぃと大変失礼なのかもしれませんが、この観音様の御尊容(像容)は風化していることから一見すると怖そうに見えるのですが、ジぃ〜っと見ていると不思議しぎしぎ摩訶不思議なほど、なんとぉぅ!だんだんと愛嬌と親しみが湧いてきます。
いかがですか?
あなたの瞳にはどのように映り込みますか?
風食作用により、お顔が崩れているように見えるため怖そうに見えますが、ジぃ〜っとよく見れば、ほら、どこか笑っているように見やせんかぃ?
そこでこの西向観音の名前を愛称と敬称とそして‥温泉のようにグッと込み上げてくる熱き思いを込めて「ニッシー」と呼び慣わしてみましょうか。AAA??
‥こホンっ!
で、このニッシーこと西向観音では、以下のような「江戸三十三観音霊場・第21番札所」の御朱印を拝受することできます。
- お布施(値段):300円
- 授与場所:手前の増上寺 安国殿
ニッシーこと西向観音の御朱印の授与場所と授与時間(受付時間)
授与場所(地図)
ニッシーこと西向観音の御朱印は、当観音の手前に見える増上寺 安国殿の内部にて授与されています。
安国殿は増上寺のメインとなる御朱印授与所です。「御朱印所」と大きく書かれた看板が表示されていますので、目立つことからすぐに分かります。
安国殿の場所(地図)
⬆️安国殿の内部と授与所の場所(内部は原則写真撮影禁止)※写真はお借りしたものです。
なお、この安国殿ではニッシーこと西向聖観世音以外にも、自寺の御朱印も授与されています。
ニッシーの御朱印を含めて増上寺で拝受できる御朱印一覧については下記ページをご覧ください。
授与時間(受付時間)
- 9時~17時まで
現在はコロナ渦の影響で上記、時間帯になっていることもあり得ますので、御朱印を拝受される際は適宜、ご確認ください。
ちなみに御朱印の授与時間は全国の寺社の平均を見ていると16時か17時までがほとんどです。
”西向”の意味・由来
なんでもこの堂で祀られている聖観世音菩薩さんは、どの方向へ向けても一夜にして西を向いてしまうことから古来、西向が付され「西向聖観世音菩薩」と呼ばれています。
徳川将軍家の菩提寺となった増上寺は庶民には近寄りがたいものがあったのですが、本像と手前の安国殿に安置される黒本尊は、現在に至るまで多大な崇敬がよせられ続けています。ウフ
西向観音の歴史・由緒
この西向観音は鎌倉時代、現在の東京タワーの脚元もしくは三康図書館のあたりにあった観音山に、北条時頼公が辻堂を建てて西へ向けて安置したのが創祀とされます。
辻堂の内部には石造りの聖観音像を祀り、前を通る鎌倉街道(現:六本木方面)の鎮守として、街道へ向けて安置したとされています。
また、この辻堂の手前には「地蔵山」という小高い丘陵が広がり、(現在の正則中学校のあたり)この地蔵山に祀られていた四菩薩像と併せて街道を見下ろし挟む込むように鎮座していたと伝えられています。
すなわち、1598年(慶長3年)に増上寺が現在地に引っ越してくる前から当地に存在した御堂になりんす。
西向観音が現在地に移築されたのが、1975年(昭和50年)のこと。この年、増上寺では浄土宗開宗800年記念の境内整備事業が執り行われており、この一環で安国殿の前に聖観音像を遷座し、1980年(昭和55年)1月に観音堂が無事、落慶を迎えています。
古来、子育て安産のご利益があるとされる!
上記、ニッシーの御本尊である「石造り聖観世音菩薩」は古来、子育て安産のほか、開運のご利益があるとされ、現在に至っても子供の成長や健康、そして開運を願う人々で賑わいをみせます。
特に江戸三十三観音霊場21番札所の指定を受けていることからも巡拝者が絶えず、かつては境内地に2本の榎の大木が立っていたことから「縁結び榎」と呼ばれ、特にお熱ぅ〜ぃ♡HOTな良縁を求める若年層の参拝者が多かったと云われます。
ニッシー(西向観音)の境内見どころ
本堂の外観
ニッシーの境内にある堂宇は御本尊である観音像が安置される。小ぢんまりとした境内の建物はこの本堂のみ。
扁額
⬆️増上寺84代明譽(法主)が揮毫したと思われる「西向観音」の扁額
銅造聖観音立像
寺号が刻まれた石柱
境内入口の石柱には「西向観音」と刻み込まれていますが、よく見ると「橘 右近 謹書」という文字が彫り込まれています。
「橘 右近」とは、人物のことであり、「謹書(きんしょ)」とは「つつしんで書く」などの意味合いになりんす。
すなわち、「橘 右近」という人物がこの文字を揮毫したことになりんす。 ⬆️正面からのアングル。左下に「橘右近謹書」の刻銘みえる
橘右近とは?
「橘右近」とは明治時代を代表する落語家であり書家です。東京芝浜松町出身で橘流寄席文字の家元です。
と、いうことは上掲、写真の字体は寄席文字になりんすが、寄席文字とは、「よせもじ」と読み、落語を披露する会場(寄席)の入口などに掲げる看板文字のことです。この寄席文字は代々、橘家が継承したことから別名で「橘流」とも呼ばれます。
橘右近は1903年(明治36年)11月18日にこの世に生を得て、1995年(平成7年)7月3日に没していることから、この間に造立して、増上寺へ奉納した石看板ということになりんす。
なお、このシリーズの文字は他に芝居文字・相撲字などがありんすが、これらは江戸時代に生み出された文字であり、俗に江戸文字とも言われんす。”言われんす”は無理があったか
入口の門と赤提灯
この赤提灯の文字を見れば分かりますが、「西」の字体に独特のクセがあることから、これを揮毫したのは上記、橘右近と思われます。
千躰子育地蔵
西向観音の境内にある大きな見どころとして、無数のお地蔵さんが隙間なく軒を連ねるようにして祀られています。
これらのお地蔵さんは総称で「千躰子育地蔵」と書き、「せんたいこそだてじぞうぼさつ」と読みます。
- 大法要:例年4月の第3日曜日(千駄子育地蔵尊大法要)
- 盆踊り:7月最終週の金曜日・土曜日
千躰子育地蔵尊の歴史と建立理由
上述、西向観音に由来し、子供の無事な成長と健康を祈願して1975年(昭和50年)から崇敬者により、順次奉納されているお地蔵さんになりんす。
現在では「千躰」の名前の通り、千体近くのお地蔵さんが連なるように奉納されている様子がうかがえます。ウフ
奉納は主に増上寺ひまわり講の方々中心となって、子や孫の無事の成長を祈念して、増上寺へ建てたお地蔵さんになるようです。
それぞれのお地蔵さんには、まるで自らの子供に着せるかのようにド頭には寒さや雨風をしのぐ赤いニット帽、体躯にも寒さ直射日光、雨風を保護するためのやヨダレ掛けが奉納され、さらに子供がキャっキャっキャっ‥と喜ぶ 悪魔? 風車の弥七が、あイヤイヤ風車!!が、お地蔵様に奉納されています。弥七‥水戸黄門?
⬆️正面からは見えないが地蔵像の裏側には奉納者の名前が書かれている
注意
地蔵菩薩には触れないでください。
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