属性不詳のパワースポット『丸山古墳(芝公園)』を観光!【都内最大の前方後円墳】

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あまり目立ちませんが、芝公園のテニスコートや野球場の前には、うっそうとした森林に覆われた小高い丘があります。

実はこの丘の頂には増上寺にて奉斎されている2代目将軍「秀忠公」とその嫁「お江の方」の御霊屋があったことはあまり知られていません。

そしてさらになんと!その前身はというと前方後円墳という古代人の巨大な陵墓であったというから驚きです。

現在では「芝丸山古墳」と呼ばれ親しまれていますが、江戸時代には秀忠公の御霊屋および増上寺自体が江戸城の裏鬼門封じの鎮守と言われ、この場所は太古からのパワーが蓄積された都内屈指のパワースポットとも囁かれています。

以下ではこの芝丸山古墳の観光・見どころについて述べています。

芝丸山古墳【東京都指定史跡】

規模(大きさ)
  • 墳丘長(全長):112m(案内板では106メートル前後)
  • 標高:約16m
  • 前方部前端幅:約40m
  • 後円部直径:約65m
  • くびれ部幅:約22m
円山古墳を真上から見た地図

 

画像引用先:http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy

 




古墳の外観など

⬆️後円墳部分

⬆️後円墳部分(山頂から下を見下ろした景色)

⬆️くびれ部分(稲荷神社のあるあたり)

⬆️稲荷神社の左側あたりから前方墳部分⬆️前方部分への出入口となる階段

芝丸山古墳の歴史

この芝丸山古墳は1979年(昭和54年)3月31日に東京都指定史跡の指定を受けた都内最大の大きさを誇る前方後円墳です。

芝丸山古墳が作られた年代

現在までの学術調査によれば、この芝丸山古墳の特徴として、前方部が狭く、高さが低い形状をしていることから、5世紀頃に当地に築造されたとみられています。

また、この当時の古墳にしては最大級の大きさを誇ることから、この古墳は当地における有力者のものである可能性が考えられています。

外観を見るかぎり、ただの小山に見えますが、標高16mの山頂に上がると円形の広場になっており、これが古墳の後方墳の丸い部分であることが実感できます。

なお、古墳の前方部は南々西に向けて造られています。

埋葬された人物はどんな人物?

1893年(明治26年)に自然人類学者坪井正五郎が、当古墳の盛り上がりに違和感を感じ発掘調査を実施したところ、なんと!埴輪片や須恵器などの遺物が出土したようです。

この事実を以ってこの丘陵が古代の古墳であったことが判明し、出土した埴輪片や須恵器などの分析結果から5世紀に築造されたことが明らかされています。

この調査で判明したことは、この古墳には埋葬施設がなく、したがって埋葬された人物も不詳ということになりますが、当古墳の規模からしてかつて周辺に存在した水田地帯や海上交通、南北の陸路を支配していた南武蔵有数の族長の墓だったと考えられています。

この当時の武蔵(この当時は「无射志(むざし)」と表記)と言えばヤマト王権の支配がそれほど及ばず、山賊集団の族長クラスが自身の縄張りを主張して小競り合いを繰り広げていたことが明らかにされていますが、当地を支配していた人物の1人に武蔵国造の一族である「笠原 小杵(かさはら の おき)」という人物が挙げられています。

東南斜面には貝塚がある!

丸山古墳の前方部分となる東南の斜面には、縄文時代中期〜後期と思われる貝塚も発見されています。 

貝塚が見つかったことにより、およそ3500年〜4000年前、この丸山古墳周辺に集落が存在していたことになりんす。

それだけではなく、この貝塚からは真牡蠣やハイガイ、ハマグリなどの海産系の貝殻が出土していることから、縄文時代はこの芝公園のあたりが海岸線であったことを物語っています。

確かに太閤秀吉の御代、家康公が三河(みかわ/現在の愛知県東半部)からこの江戸に転封されていますが、当初、江戸城のすぐ前は「日比谷入江」という湾があったとされ、その上、周りは河川が多かったことから江戸城の拡張工事および城下町の整備をする際、まず、海川の埋立工事に労を費やしたと言われています。

この江戸城からこの貝塚まで日比谷入江の海岸線であったと考えるとイメージがつきやすいのではないでしょうか。

また、当古墳の周辺付近からは7世紀頃に作られたとみられている円墳も見つかっており、金環などの副葬品が出土しているようです。

貝塚に設置されている看板の内容

この丸山貝塚は明治時代から知られていましたが、長い間、正式な調査は行われず、貝塚の範囲や形成時期、貝塚を構成する貝種などは分かっていませんでした。

平成8年(1996年)、公園内で行われた工事の際、良好な貝層が発見されたことにより、翌年、範囲などの確認調査が行われました。

その結果、丸山古墳が築造された台地の裾の緩やかな傾斜地に真牡蠣を主体とする貝塚が形成されていたことが明らかになりました。

土器(ドキっ♡)などの遺物が少ないことがこの貝塚の特徴でもありますが、わずかに出土した土器片から貝塚の形成時期は縄文時代中期末から後期である可能性が高いと考えられます。




江戸時代になると削られた!

江戸時代に入ってから古墳頂部や後円部西側が大きく削り取られ、空き地になっていたようです。

下掲の写真は増上寺に収蔵されている江戸中期の古地図です。

いかがですか?

左上の五重塔の周囲には空き地もしくは広場になっており、空き地に沿うように赤羽川(現在の古川)の流路が見えます。

これが江戸時代後期になると、下掲の古地図に掲載されているように大きな通り(道路)や増上寺の塔頭と思われる寺院が建てられています。

タップすると大きくなりんす画像引用先:妙定院パンフレットより

いかがですか?

この古地図は1860年頃(江戸時代後期)の古地図ですが、はたして、どこが削り取られた部分かお分かりになりんすか?

削り取られた部分は五重塔が描かれている直線上になっている部分です。この古地図を見れば当時は大きな通りになっていることが分かりんす。(赤の矢印のあたり)

現在、この削られた部分は石垣になっており、その下には「都道319号環状三号線」が通っていることから、この大きな通りが都道319号環状三号線の前身となる通り(道路)であることが理解できます。

以来、現在まで江戸期に開削された姿を留めたままになりますが、築造当初の前方後円墳としての外観は失われていることになります。

では、実際に開削された部分を見てみましょう。

‥と言うことで、まずは下掲の写真をご覧ください。

⬆️急斜面になっている。削られたことを物語る‥

いかがですか?

これは上述した削り取られた部分から下を見下ろした景色です。「環状3号線(都道319号線)」と「首都高環状線の芝公園ランプ(降車口)」が見えます。

⬆️現在では削り取られた部分が道路になっている。

それでは今度は逆に、首都高の降車口のあたりから見上げる形で削り取られた部分を見てみましょう。

⬆️首都高の芝公園出口の前から見た芝丸山古墳。削り取られた部分は石垣になっている。

いかがですか?

石垣になっているのが分かりますが、現在では落石しないように石と石の間にコンクリートで補強されている様子がうかがえます。

ただ、開削した当時も石垣ようなものがあったのではないでしょうか。

かつてこの丸山古墳の山頂に建てられた2代目将軍秀忠公の台徳院霊廟「奥院・宝塔」は、秀忠公の逝去後となる1632年(寛永9年)から造営工事が行われていますが、その際、相模から伊豆の間の地域で切り出された安山岩を運び出して使用ています。

つまり、同様の石材がこの石垣にも使用されていたとすれば、現在でも造営当初の石材がそのまま残っているかもしれません。

江戸時代は2代将軍・秀忠公とお江の方のお墓だった!?

冒頭でもご紹介したように江戸時代の丸山古墳の頂には、徳川幕府2代目将軍「秀忠公」のお骨が納められた宝塔(御霊屋)があったと考えられています。

秀忠公のお墓は、現在のプリンスタワーがそびえ立つ場所一帯とその手前の芝公園を含めた壮大な規模を誇り、かつては「台徳院霊廟(たいとくいんれいびょう)」と呼ばれていました。

画像引用先:https://ja.wikipedia.org/

しかし残念なことに太平洋戦争の戦災により、伽藍のほぼすべてが焼亡に至り、かろうじて惣門と他、丁子門、御成門、勅額門の合計4つの門だけが現存しているだけになります。

⬆️旧・台徳院霊廟「惣門」【重要文化財】

なお、丁子門、御成門、勅額門は現在、埼玉県所沢市上山口に位置する「狭山山不動寺」境内へ移築されています。




芝丸山古墳の観光(見どころ)・歩き方

芝丸山古墳の全体地図

芝丸山古墳にある著名なもの
  • 展望台
  • 伊能忠敬記念碑
  • 大野伴睦句碑
  • 稲荷神社
  • 銀世界と呼ばれた梅林(梅園)
  • 芝東照宮

以下ではこれら芝丸山古墳の各スポットの詳細をご紹介していきます。

芝丸山公園の山頂

標高約16mの山頂は円形の広場になっており、ここが前方後円墳の後方部分であることが実感できます。

ちなみに前方後円墳は丸くなっている円形部分の方が後方になります。

この円形部分には、展望台、伊能忠敬記念碑、程よくデッカい石コロなどがあります。

展望台と円形広場

⬆️円形広場

⬆️展望台

展望台からは、後述の「銀世界」と呼ばれる梅林や港区役所周辺の景色が程よく一望できます。

それとこの展望台には腰を下ろせる石造りのベンチが設置されています。自販機こそありませんが、ここで飲み物でも飲みながら小休憩することもできんす。

ちょっと面白い‥というか、不思議しぎしぎ摩訶不思議なのが展望台の御垣(鉄柵)に疎ら状に設置された石積みの石柱の上部の石版です。

この石版には樹木とその下で仲良くお手ェ手ェをつなぐ男女の子供?‥が彫り込まれたデザインの石版が据えられています。

⬆️なぜこのデザインが採用された?‥と思わせる。古墳のイメージとまったくマッチしていないので逆に不気味。。

程よくデッカい石コロ

また、後述の「伊能忠敬記念碑」の前には、程よくデッカい石コロが転がっていますが、この石コロ、ただの石コロではなく、何やら文字が彫られています。

右端部分が風化してよく見えないのですが、ここには「瓢形大古墳(ひょうたんがただいこふん)」と書かれています。

確かに前方後円墳は真上から見れば瓢箪(ひょうたん)の形をしています。

⬆️古い年代の石コロころコロどこいった?‥と思われる。




伊能忠敬記念碑


かつて当地には1889年(明治22年)に建てられたとされる「伊能忠敬測地遺功表」なる高さ8.58mの青銅製の碑があったのですが、これが太平洋戦争の戦災により消失したため、この石碑が1965年5月にその代わりとして建てられています。

伊能忠敬と言えば現代でも通用するほどの精巧緻密な日本地図を最初に作図した人物として有名ですが、学校の授業では触りだけ知る程度であり、その素性のすべてが明らかにされる機会はあまりありません。

伊能忠敬は上総国山辺郡(現在の千葉県)小関村(こぜきむら/現在の九十九里浜町)の地主・小関五郎左衛門家にて生を得ます。幼名は三治郎。

忠敬は、この小金持ちの小関家でのちの地図作成のための算盤や世渡りできる教養を身につけたと考えられています。小金持ち=前歯だけ金歯。中金持ち=前歯奥歯シマウマ模様に金歯。大金持ち=全歯金歯。..なんの話や

伊能家を継いだのが1762年(宝暦12年)12月8日。この当時、伊能家は酒造一家でしたが伊能家の当主が逝去し、その妻タミを娶る形で伊能家に婿入りし、伊能家当主の座に就いています。

このタミとの結婚を機に将軍付の儒学者「林 鳳谷 (はやし ほうこく)」から「忠敬」という名前を贈られています。

伊能忠敬が地図の作図を試みた理由

伊能忠敬が地図の作図を試みた理由は、当時、忠敬が天文学を学んでいた事もあり、正確な緯度を知りたかったからです。

もう1つは、寛政暦を作暦したことで知られる自らの師であり幕府天文方の高橋至時から「江戸から蝦夷地(北海道)までの距離を測量すれば正確な緯度が計算できる」と告げられたこともあります。

蝦夷へ出発した年月日

忠敬はこの当時、江戸に別邸(自宅)を構えており、寛政12年(1800年)閏4月19日にこの江戸の自宅を出ますが、蝦夷までの測量の出発地点となったのが、この芝公園近くの「高輪の大木戸」になります。

高輪の大木戸が測量の出発点として選ばれた理由は、かつてKoko!(訳:ココ)グぅぁ〜、各街道が合流する江戸の玄関口だったからです。

現在でもこの場所は「高輪大木戸跡(たかなわおおきどあと)」という名称の史跡として残されています。正式な住所は「東京都港区高輪二丁目19番地」。

⬆️噂の史跡・高輪大木戸跡….ウワサなん?

つまり、この芝公園の付近から蝦夷までの測量の旅に出発していることになりんす。

パーティー(随従者)は魔法使い、バトマス、賢‥いやいやいや、なんでやねん 息子の秀蔵を含めた内弟子3人、それに下人2人‥の合計6人パーティーだったようです。忠敬、時に55歳。

なお、忠敬はこの時の測量結果が好評を得て幕府のお目にかかり、以来、幕府直々の辞令を受けて9回にも及ぶ測量の旅に出ることになります。(生涯通算10回)

忠敬が地図(大日本沿海輿地全図)の完成までにかけた年月

1800年(寛政12年)〜1816年(文化13年)までの足かけ約17年間。

この17年もの歳月をかけて完成させた地図が日本史上、もっとも正確に作図された地図になりんす。

碑文の内容

忠敬先生は1745年(延享2年)上總國に生れて下總國佐原の伊能家を嗣ぎ、村を治めて後50歳の時江戸に出て高橋至時のもとで天文暦數の學を究めた。
先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって續けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至つた。

その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海與地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測量局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである東京地學協會はその功績を顯彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦戰中に失われるに至った。仍つて今回各方面の協賛を得てこの碑を再建した次第である

1965年5月
社団法人 東京地學協會
會長 細川護立




大野伴睦句碑

上記、展望台広場から降っていくと、「虎の石像」が視界に入ってきます。

一見するとなんでこんな鬱蒼とした古墳の頂に似つかわしくない虎の像があるんだ?‥とか、思っちやぃやすが、意外にもこの像は句碑であり、正式には「大野伴睦句碑」と呼ぶそうです。

「大野伴睦」とは、自民党副総裁を務めた著名政治家でありながら、俳人でもあり、調理師会の名誉会長を務めた人物でもありんす。

本像は、この大野伴睦の功績を讃え、昭和38年6月調理師法施工5周年を記念して贈呈された石像になるようです。

碑文

鐘がなる春のあけぼのヽ増上寺

鳩山薫(文の揮毫者)

虎の像が置かれている理由

しかし、故人の功績を讃えた像に虎の像を用いる理由がイマイチ腑に落ちないのですが、理由を調べると、‥『のぉあ〜んだ そんな事だったのか』‥などと案外アッサリと分かりました。

なんでも、この大野伴睦という人物は自身が寅年生まれであったことから虎の置物をこよなく愛し、虎の置物を収集する趣味があったようです。

この事実は、彼のお墓を見れば一目瞭然ですが、池上本門寺にある大野伴睦の墓にはなんと!この芝丸山古墳の虎の像と構図がソックリくりクリな虎の像が置かれています。

ということは本像も大野氏のコレクション‥?のうちの1つ?

ちなみにこの大野氏、俳人としてもかなりの有名人だったようで、「万木(ばんぼく)」という俳号まで持っているとかで、”観音の慈顔尊し春の雨”という句碑が古刹・長谷寺(鎌倉)の境内に置かれているほどです。

円山稲荷神社(圓山随身稲荷大明神)

芝丸山古墳のクビレ部分には円山稲荷という神社がありんすが、正式名を「円山随身稲荷大明神」と言います。

小ぢんまりとしてあまり目立たない神社ですが、江戸時代前期に当地に鎮座しており、約400年近い歴史を有する神社です。

当神社もパワースポットと囁かれており、理由は江戸城の裏鬼門を封じる増上寺のさらに裏鬼門を封じるための鎮守社とされているからです。

「随身稲荷」の名前の由来や円山随身稲荷大明神の詳細については下記ページにてご紹介しています。

「丸山古跡」と書かれた石碑??

上記、円山稲荷の社殿の付近には「丸山古跡」と彫られたかなり年季の入った石碑が置かれています。

当地がかつて丸山古跡と呼ばれていたことが分かります。

戦没者の供養塔

上記、円山稲荷を正面に向かい見て左脇には、戦没者の供養塔らしきものが建てられています。

⬆️「軍中戦死」や「浄土」の文字が見える




丸山古墳出土品

第1号の出土品は現在、明治大学考古学博物館に所蔵されています。

明治大学考古学博物館公式HP

URL:https://www.meiji.ac.jp/museum/

明治大学考古学博物館の場所とアクセス方法

住所:東京都千代田区神田駿河台1-1 アカデミーコモン地階
電話:03-3296-4448
FAX:03-3296-4365
※日曜日・祝祭日・大学の定める休日は博物館事務室が閉室<

開館時間

10:00~17:00(入館は16:30まで)

※博物館図書室は16:30まで
※ミュージアムショップM2は月曜日~金曜日が16:30まで(土曜日12:45まで)

休館日

夏季休業(8月10日~16日)冬季休業(12月26日~1月7日)
※臨時休館あり

アクセス方法

明治大学博物館来館案内御茶ノ水駅(JR中央線・総武線)/御茶ノ水橋口徒歩5分
御茶ノ水駅(東京メトロ丸の内線)徒歩8分
新御茶ノ水駅(東京メトロ千代田線)/B1出口徒歩8分
神保町駅(都営新宿線・三田線、東京メトロ半蔵門線)/A5出口徒歩10分

芝丸山古墳には梅林(梅園)があった!

なんでもこの芝公園・丸山古墳の入口付近、ちょうど都営地下鉄三田線「芝公園駅」の裏側あたり一帯は、江戸時代、「梅屋敷銀世界」と呼ばれた梅園(梅林)が広がる、ひときわ華やいだ場所だったようです。

この梅林の梅は枝振りの良さが自慢のようで、もとは新宿角筈(現在の西新宿)にあったのですが、明治41年~42年頃に現在地へ数本、移植され、その子株が増殖して再び梅林を形作ったことから現在でも「銀世界」と呼ばれています。

銀世界と呼ばれた由来は、江戸時代の新宿角筈には上野国館林藩「秋元家」の下屋敷があり、その庭には枝ぶりの見事な白梅の梅林があったことから「銀世界」と呼ばれていたそうです。見頃になるときまって屋敷の周りに大勢の人だかりができたとか。

「銀世界」とは通常は雪が一面に降り積もっている様子を表した言葉でありんすが、白梅が一面に咲き乱れる様相を降り積もった雪のように捉え、銀世界と例えたのでしょう。

⬆️「銀世界」と彫られた石コロが置かれている

 

⬆️夏(7月)に撮影した梅林。花弁は無いが枝ぶりの良さはなんとな〜く分かる‥気がする。..ホンマかぃ

なお、現在でもこの銀世界は芝公園の白梅として定評があり、毎年、2月中旬頃になると見頃を迎え、それはそれはうつむいた君のアヒル唇の下唇ようにセクシーな花弁をチラつかせます。ウフぅん




⬆️見頃時期の銀世界(芝公園梅林)の様子

⬆️梅林入口にはコンクリートの橋が架橋されている

⬆️おやおや右を見れば人工の川が‥。ビオトープ?

⬆️現在は水が流れていないので枯れているが梅の見頃時期になると水が貯められるのだろうか‥

そのほかの芝公園の観光・見どころ

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