芝・増上寺前にある無料入園できる日本庭園「松原の復元」とは?

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「松原の復元」とは?

芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原と呼ばれています。

増上寺手前の松原の歴史

増上寺三解脱門の前にある芝公園には、江戸時代には松並木があったのです。

この松並木は人の手により植樹されたと伝えられており、現在では以下の2つの説が残されています。

  1. 1640年(寛永17年)のこと、増上寺27世大僧正・南誉(なんよ)上人の御代の時、幕命によって増上寺・三門の左右に松を植樹したという説。
  2. もう1つは、青山家藩士の手により、植樹された松並木とされ、往時は「百本松原」と称された。

歴史の変遷の中で松並木は失われた

その後、この松並木は次のような理由によって失われ、代わりに楠(くすのき)が植樹されています。

  • 災変により失われた
  • 枯死した

また、この場所には並木の他に番所も設けられ、番所跡としても伝えられています。

現在の番所跡には鍵の形をした通路跡と見られる石組みだけが残されています。




令和3年あたりからほぼ復元された?

この場所は芝公園でも東京都の所管とする所であり、都は災変によって失われたこの場所の旧観を偲び、モニュメントや歴史を記載した看板を建てたり、黒松を植樹していました。

正直、令和2年に来訪したときにはまだ、何があるのかがよく分からないほどでした。

しかしながら、令和3年に入ってからオリンピック(東京五輪)の影響もあってか松原の復元工事が急速に進められ、現在ではプチ日本庭園が復元されています。




「松原の復元」に建てられている看板の内容

芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原と呼ばれています。
それは、寛永十七年(一六四〇)増上寺二十世大僧正 南誉(なんよ)上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百本松原と称したことによるとも伝えられています。
松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変りました。
ここは江戸時代の番所跡伝えられ、土るいにはさまれた通路がカギ形をしています。
都は園地改修にあたり原形を残すとともに往年の松原を偲ぶものとして黒松を植え、月見をイメージしたモニュメントを設置しました。

昭和六十二年二月  東京都

月見をイメージしたモニュメント

令和2年7月頃の松原の様子

月見をイメージしたモニュメント

⬆️これか?月見?ヒョウの顔に見える

かつて松原にあったとされる番所の門を再現?

上記、看板の内容にある「土塁に挟まれた通路がカギ形をしています。」の意味がよく分からないのですが、当地はかつて土塁に挟まれたカギ形の通路があり、この通路の内側に番所が建っていたようです。

その番所の門を復元したものがこの門になるとのこと。

ただ、戦災で燃えた門がこれと類似した門であったのかは分からないとのこと。

石製の橋の高欄?

当敷地(芝公園)を管理している東京都へ聞いたところ、この物体の由緒は不明とのこと。太平洋戦争の空襲で確たる証拠を示す資料が残っておらず、現在、調査中とのこと。

芝公園は2020年で150周年を迎えるとのことだが、この物体がいつ頃から当地にあるのかが、よく分からないとのこと。

由緒ある物体なのは確かなようであり、都および港区も現在、この物体を簡単に当地から動かせないとのこと。

ゆえにこのようにして置き去りにされたままになっている。

松原の復元は2020年オリンピック開催に向けてさらに整備が進められていたが、開催延期になったため計画は頓挫。このため、しばしこの謎の物体も謎の物体としての姿をとどめることになる。→令和3年になってから再開。

ただ、見た目からして石橋の高欄(こうらん/手すり)部分に、ほぼ間違いがないかと思われる。




江戸時代後期の松原の様子(地図)

江戸時代の松原の場所も現在地とほぼ同じ場所にあったことが分かる。

なお、往時の松原の様相は、安藤広重 作「名所江戸百景 (江戸百景餘興) 芝神明増上寺/安政5年」にも描かれています。

画像引用先:https://www.ndl.go.jp

この絵図によれば、確かに松林があるの見えます。

松原の復元の場所(地図)

  • 所在地:東京都港区芝公園1丁目4

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