靖国神社「大燈籠」

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靖国神社「大燈籠」

大きさ(高さ)

  • 約13m
素材

  • 花崗岩(北木石)

靖国神社には多数の燈籠が奉納されていますが、こちらのページでは、第二鳥居の手前左右にある2基(1対)の大燈籠をご紹介します。

靖国神社「大燈籠」の歴史(由来)

第二鳥居前の2基の大燈籠は、日中戦争勃発2年前の1935年(昭和10年)、富國徴兵保険相互会社(現・富国生命保険相互会社、略称フコク生命)から奉納されたものです。

終戦後、レリーフに描かれた場面はどれも戦争や軍隊を称賛するような内容であったため、GHQ統治下で撤去されそうになったものの、レリーフ部分を隠す工事を施したおかげで残されました。

2011年(平成23年)の東日本大震災で燈籠の上部が揺れ、一部が破損しましたが、翌年には免震補強が施され、現在では震度7の地震にも耐えられるといいます。




 富國徴兵保険相互会社とは

富國徴兵保険相互会社は、1923年(大正12年)創業の保険会社です。
戦前は子息が徴兵された際に保険金が出る「徴兵保険」を扱う会社でしたが、戦後は生命保険会社になりました。
戦前、日本では男性が満20歳(1943年以降は19歳)になると、徴兵検査を受けて結果に応じて徴兵されていました。
初めのうちは一家の大黒柱や長子などの兵役は免除されていましたが、それでも男子を取られるとなると、兵役に就いている本人のための費用や家庭に残される者のための出費など家計にとっては打撃になる場合もあったため、男子が子どものうちに保険に入り、大人になって徴兵されたら受け取れるような仕組みとなっていました。
日本の徴兵保険は日清戦争の時に始まり、日露戦争の頃から、広く普及していきました。

靖国神社「大燈籠」の特徴と見どころ

大燈籠は、岡山県の「北木石(きたぎいし)」という花崗岩(かこうがん)で作られています。

靖国神社では、駐車場入口の石鳥居とその前の狛犬、大村益次郎像の台座にも北木石が使用されています。

高さ13mのこの大燈籠は、花崗岩製の燈籠としては日本最大です。

採掘・加工され、組み上げられるのを待つ状態となった北木石は、瀬戸内海から東京・月島まで、はるばる船で運ばれて来ました。

大燈籠の火口の部分は格子状に透かしが入り、参道正面側の1面には菊の御紋があしらわれています。

大燈籠の菊御紋

基壇には、縦97㎝×横136㎝の大きなレリーフが8面ずつ入っています。

レリーフには、社殿に向かって左側が陸軍、右側が海軍の、日清戦争から満州事変までの主な戦闘場面などが各7面ずつ描かれており、残りの部分は献納者などが記されています。

大燈籠の基壇部分

レリーフ画は、帝国美術院(日本芸術院の前身)院長正木直彦氏の監修で、左右それぞれ2人ずつの彫刻家が制作を担当しました。

献納者やレリーフの制作者が記された部分

靖国神社「大燈籠」全レリーフ画を画像付きで解説!

左の燈籠(陸軍)

①「日清戦争 広島大本営」畑正吉作

1894年(明治27年)の日清戦争では、大日本帝国軍の大本営(最高統帥機関)が、広島城内に設置されました。

広島大本営(写真右側)。奥に広島城天守閣が見えます。

②「北清事変 天津城の攻撃」畑正吉作

北清事変(義和団の乱)は日清戦争後の1900年に清各地で行われた排外運動で、外国人やキリスト教会が被害にあったため、日本を含む8か国の連合軍が出動して鎮圧しました。

天津城では連合軍と清朝の正規軍などが激しくぶつかり、連合軍が圧勝しました。

③「日露戦争 奉天入城式」斎藤素巌作

1905年(明治38年)の奉天会戦(ほうてんかいせん)は日露戦争最後にして非常に大規模な会戦でした。

日本は奉天を制圧しましたがこの時点では勝敗はつかず、日露戦争の決着は5月の日本海海戦を待つことになりました。

④「第一次世界大戦 装甲列車の戦闘」斎藤素巌作

装甲列車(そうこうれっしゃ)とは、武装を施した列車や鉄道車両のことです。

特に、第一次世界大戦の戦場となったヨーロッパでは、鉄道網が発達していたためよく使われた有力な兵器で、盾代わりになる「装甲」を取り付けた機関車で砲塔やロケット発射器などを搭載した貨車を牽引するものが主流でした。




⑤「台湾鎮定 明治四十一年 警官隊の戦闘」畑正吉作

日清戦争の講和条約「下関条約」により、台湾は日本に割譲されましたが、上陸した日本軍に対して清国の残兵らが抵抗し、乙未戦争(いつびせんそう)と呼ばれる戦闘になりました。

最終的には日本軍が平定し、清側が一時的に作り上げた台湾民主国政権とその軍は崩壊しましたが、戦闘は日本側の当初の予想よりも長引き、双方に甚大な被害が出ました。

なお、乙未戦争後には台湾平定宣言が出されているため、日本では一般的に、「台湾平定」「台湾征討」などと呼ばれます。

⑥「上海事変 爆弾三勇士」斎藤素巌作

上海事変(第一次)は、1932年(昭和7年)、満州事変に対する世界の注目をそらし、中国の抗日運動勢力を弾圧するため、日本の軍部が上海で起こした日中両軍の衝突事件です。

一時上海を占拠しましたが、アメリカやイギリスの介入で失敗に終わりました。

爆弾三勇士

爆弾三勇士(肉弾三勇士とも)とは、鉄条網などで固く守られた敵陣に、火のついた破壊筒(バンガロール爆薬筒)を持って突っ込み、敵弾に倒れながらも突入をあきらめず、最終的には自らの破壊筒で自爆した3人の一等兵のことです。

靖国神社の遊就館には、3人の様子を描いたレリーフや、軍服の破片が展示されています。

爆弾三勇士:
独立工兵第18大隊(久留米)の江下武二(えした たけじ)、北川丞(きたがわ すすむ)、作江伊之助(さくえ いのすけ)。いずれも一等兵(当時)。

⑦「満州事変 熱河長城攻撃」畑正吉作

熱河(ねっか)作戦とは、満州事変の最中の日本軍(関東軍)による中国熱河省・河北省への侵攻作戦です。

1933年2月、日本側は熱河省も満州国の一部と主張して制圧に向け侵攻を開始し、その後南下して長城線(万里の長城)まで達しました。

その後の日中停戦会議で締結された塘沽協定(タンクーきょうてい)により、一連の満州事変の衝突は停止され、中国国民党政府は日本が建国した「満州国」との間の長城線の国境を、事実上容認しました。

右の燈籠(海軍)

 

①「日清戦争 黄海海戦」吉田久継作

黄海海戦(こうかいかいせん)は、日清戦争中で最大の海戦です。

相当な被害を受けながらも勝利したこの海戦により、日本は黄海で自由に行動できる権利(制海権)を確保しました。

なお、日露戦争中にも、黄海海戦と呼ばれる海戦が行われています。

黄海とは:
朝鮮半島と中国大陸に囲まれた海。

②「日露戦争 第二回旅順港閉塞の広瀬中佐」小倉右一郎作

第二回旅順港閉塞作戦(りょじゅんこうへいそくさくせん)とは、日露戦争中に行われた旅順港に対する閉塞作戦です。

閉塞作戦とは大型船舶を港の入口に沈没させ、他の船舶を閉じ込めるというものです。

日露戦争中、旅順では第一次から第三次まで閉塞作戦が実施されましたが、いずれも失敗または中止となっています。

広瀬中佐(広瀬武夫)

広瀬武夫(ひろせたけお)少佐(後に中佐)は閉塞船「福井丸」の指揮官でした。

旅順港で敵の魚雷を受け撤退する際、一度は救命ボートに乗り移りましたが、船を自爆させる爆薬に火をつけるために船内にいた部下の杉野孫七(すぎのまごしち)上等兵曹(死後昇進して兵曹長)がいないことに気づきます。

そこで、沈みゆく船に戻って三度も探しましたが見つからず、やむを得ず再び救命ボートで沖に漕ぎ出そうとしたとき、頭部に砲弾を受けて戦死ししました。

広瀬少佐はこの時満35歳で、死後、中佐に特別昇進しています。

その後、広瀬中佐は日本初の「軍神(ぐんしん)」となり、出身地の大分県竹田市には広瀬中佐を祭神とする広瀬神社が創建されました。

靖国神社の遊就館には、かつて神田満世橋にあった広瀬・杉野両氏の銅像の模型や、広瀬中佐の手紙などが残されています。

万世橋駅前の古写真(絵葉書)に見える広瀬中佐の銅像

また、広瀬中佐が砲弾を受けた際、近くにいた兵のそばを飛び散った肉片がかすめたといい、その跡が残った帽子も奉納されています。(不定期公開)

軍神とは:
勇敢に戦い、武勲を立てて戦死した者を神格化してたたえたもの。
広瀬中佐以降、既にご紹介した「爆弾三勇士」や、真珠湾攻撃に参加して帰還しなかった海軍大尉(死後昇進して中佐)9名、陸軍を代表するパイロット(戦闘機操縦者)だった加藤建夫(かとうたてお)中佐(死後昇進して少将)などが軍神とされました。




③「日露戦争 日本海海戦戦艦三笠艦橋の東郷元帥」小倉右一郎作

日本海海戦戦艦は、1905年(明治38年)、ロシア軍の太平洋艦隊(バルチック艦隊)を日本海で破った、日露戦争最大規模の海戦です。

レリーフと同じ場面が描かれた絵画
東郷元帥(東郷平八郎)

連合艦隊司令長官として旗艦「三笠」に乗った東郷平八郎(当時大将)の大胆な戦略は、「トウゴウ・ターン」と呼ばれて有名になりました。

日本海海戦での圧倒的な勝利により、東郷元帥は国内外で称えられ、世界三大提督の1人にも数えられます。

死後は東京都渋谷区の東郷神社を始め、各地の神社に祭神として祀られました。

東郷平八郎の生涯と東郷神社については、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。

 東京原宿・東郷神社の「歴史(年表)・境内見どころ・アクセス」など

④「第一次世界大戦 地中海遠征の特務艦隊」吉田久継作

第一次世界大戦末期、ドイツによる潜水艦攻撃で連合軍の輸送船団に被害が出ていたため、日英同盟を結んでいたイギリスから日本へ、護衛部隊の派遣が打診されました。

そこで特設されたのが特務戦隊で、全部で3つ組織されましたが、そのうち第二特務戦隊が地中海へ出向きました。

マルタを拠点に、地中海を縦断する航路で船団を護衛するこの任務は危険を伴うものであり、1年半の派遣期間中に80名近い死者を出しました。

一方で、不慣れな潜水艦相手の作戦ながら、英軍と緊密に連携し懸命に任務を遂行した、佐藤皐蔵(さとう こうぞう)司令官率いる日本海軍の働きぶりは、連合国各国から高く評価され、日本の国際的な地位を高めることに貢献しました。

⑤「上海事変 上海付近の空中戦」小倉右一郎作

既にご紹介した第一次上海事変では、1932年(昭和7年)、海軍の「加賀航空隊(飛行隊)」が、上海付近を偵察中、敵機と交戦しました。

これが、海軍の空母にとって史上初の実践であり、初めて1機の撃墜を記録した空戦となりました。

⑥「上海事変勃発 海軍陸戦隊」吉田久継作

海軍陸戦隊は、日本海軍の陸上戦闘部隊で、もともとは臨時のものでした。

第一次上海事変では上海陸戦隊が編成され、約1000名が駐留し、大規模な戦闘にも加わりました。

以降、上海陸戦隊(上海海軍特別陸戦隊)は、海軍の正式な常設部隊となりました。

⑦「救護 日本赤十字社救護看護婦の活動」小倉右一郎作

日本の従軍看護制度は1887年(明治20年)頃始まり、日清戦争で初めて、日本赤十字社(日赤)看護婦が陸海軍の病院で仕事に就きました。

日露戦争では2000名以上の看護婦が従軍し、その後の満州事変、日中戦争、太平洋戦争でも多くの従軍看護婦が活躍しました。

靖国神社では、看護婦として従軍し、外地・内地で戦没した女性たちも、祭神として合祀しています。

靖国神社「大燈籠」の場所

大燈籠は、第二鳥居の手前、参道の左右にあります。

向かって左の燈籠に陸軍のレリーフ、右の燈籠に海軍のレリーフがあります。

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