【年中公開】増上寺・徳川将軍家墓所の拝観時間・料金(割引)・内部の様子(宝塔一覧配置図)を解説!

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芝増上寺の目玉となる見どころの1つがこの徳川将軍家墓所です。

東京都内には他に上野の寛永寺が徳川将軍家の菩提寺となっており、歴代将軍の墓所がありんすが、増上寺はそのうちの1つです。

以下では増上寺の徳川将軍家墓所の拝観時間・料金(割引)や見どころについてご紹介しています。

徳川将軍家墓所の内部の様子

この墓所には現在、以下の歴代将軍およびその正室のお骨が奉安され、その上に合計8基の宝塔が築かれています。

  1. 崇源院(2代目秀忠夫人)宝塔(石造)
  2. 文昭院(6代目家宣)宝塔(銅造)
  3. 有章院(7代目家継)宝塔(石造)
  4. 月光院(家継母)宝塔(石造)※合祀塔
  5. 惇信院(9代目家重)宝塔(石造)
  6. 慎徳院(12代目家慶)宝塔(石造)
  7. 昭徳院(14代目家茂)宝塔(石造)
  8. 静寛院宮(家茂夫人)宝塔(銅造)




台徳院および崇源院(2代目秀忠夫人)宝塔(石造)

秀忠公は1579年(天正7年)に江戸幕府の創始者である徳川家康公の第三子としてこの世に生を得て、1605年(慶長10年)に2代目将軍に就任しています。

1632年(寛永9年)1月24日に逝去。享年54歳。逝去後、本人の遺言により質素な葬儀が営まれ、すみやかに台徳院に埋葬されます。

台徳院霊廟は当時の最高技術をもった職人を招聘し、最高水準の技術を要して造営されています。その完成度は他に例を見ないほどものであったとされ、後に造営されることになる日光東照宮のプロトタイプになったとも言われます。

しかしながら、台徳院霊廟は太平洋戦争の空襲にてわずかな遺構を残すのみで灰燼に帰し、宝塔も木造であったことから焼失しています。

現在のこの宝塔はかつては秀忠公の正室である江姫(崇源院)の墳墓の上に建てられていたものであり、すなわち崇源院の墳墓だったのですが、昭和の改葬後に台徳院(2代目秀忠公)が合葬され、現今に見られるような夫婦合葬のお熱ぅ〜ぃ形式になっています。チュっ

⬆️秀忠さんの宝塔にせまる!ズームUP!

石灯籠の文字

台徳院殿 尊前
寛永九年 壬申 七月十四日
従四位下侍従板倉周防守源重宗

台徳院殿 尊前
寛永九年七月十四日
酒井讃岐守源朝臣忠勝

文昭院(6代目家宣)宝塔(銅造)

1662年(寛文2年)、家光公の三男である綱重の子としてこの世に生を得て、1709年(宝永6年)に6代目将軍に就任しています。

新井白石らを重用し、正徳の治(しょうとくのち)を制定し、生類憐れみの令を廃止しますが、将軍としての在位わずか3年目にして病床に伏し、1712(正徳2年)に51歳にてこの世を去っています。

昭和の改葬後は天英院(家宣公の正室)が合葬されています。

⬆️家宣さんの宝塔にせまる!ズームUP!




石灯籠の文字

文昭院殿 尊前
正徳二壬辰年十月十四日 
従五位本多弾正少弼姓藤原忠晴?

文昭院殿 尊前
正徳二壬辰年十月十四日
従五位下遠江守平姓北條氏氏朝

文昭院殿 尊前
正徳二壬辰年十月十四日
奥州若城平城
従五位下内藤右京亮藤原義稠

有章院(7代目家継)宝塔(石造)

家宣公の第三子として1709年(宝永6年)にこの世に生を得ます。父親の早世のため、わずか3歳で7代将軍に就任。しかしながら元来、病弱であったため、1716(正徳6年)に逝去。享年なんと8歳。

石灯籠の刻銘

有章院殿 尊前
正徳六壬申年四月晦日
従五位下備後守源朝臣細川利永

有章院殿 尊前
正徳六年丙申年四月晦日
従五位下 源 ・・・種?

合祀塔(月光院輝子・宝塔)

昭和の改葬以後、この合祀塔には以下の人物が埋葬されています。

  • 家光公第三子(家宣公の実父)綱重
  • 家光公の側室5代将軍綱吉公の生母・桂昌院
  • 11代家斉公の正室・広大院
  • 家宣公の側室・月光院(家継の母ジャ)など北御霊屋で奉斎されていた歴代将軍の夫人や子女が多数

以上のような人物たちが埋葬されています。

なお、この合祀塔の宝塔は月光院輝子の墳墓に建てられていた宝塔をそのまま移築したものです。

惇信院(9代目家重)宝塔(石造)

1711年(正徳元年)8代将軍吉宗公の長男としてこの世に生を得ますが、生まれもっても病弱のため1760年(宝暦10年)49歳で将軍職を譲り、51歳で逝去しています。

石灯籠と刻銘

淳信院殿 尊前
寳歴十一辛巳六月十二日
京極内膳源高英

慎徳院(12代目家慶)宝塔(石造)

1793年(寛政5年)に家斉公の第二子としてこの世に生を得て、1837年(天保8年)に12代目将軍に就任。逼迫した幕府の財政難を改善するために天保の改革を画策しますが、成果虚しく、1853年(嘉永6年)に逝去しています。

昭徳院(14代目家茂)宝塔(石造)

家茂公は1846年(弘化3年)紀伊徳川家の斉順(なりゆき)の第2子としてこの世に生を得ています。

1558年(安政5年)に14代将軍に就任し、下記、皇女・和宮を嫁(正室)に迎えています。

しかし薩長を中心とした尊王攘夷派の動きが活発になる最中、長州征伐のため、およそ10万もの軍勢を率いて江戸を発ちますが、出征途中となる大阪城で病床に伏し、そのまま帰らぬ人となってしまいます。享年21歳。

静寛院宮(皇女・和宮※家茂の嫁ハン)宝塔(銅造)

皇女・和宮は公武合体の象徴として、家茂公に嫁いだ皇族の女性です。当時の世風は日本の王権をめぐって天皇家と幕府が分裂状態にあり、諸外国との外交を意のままに操りたい幕府は天皇家と幕府との公武合体を思いつきます。

公とはマユ半にトンガリ帽をド頭に乗せた麻呂、すなわち公家を意味し、武は武家を意味します。すなわち遠回しに天皇家(朝廷)と幕府(徳川将軍家)のことを指します。

天皇家(朝廷)は当初、この結婚に難色を示していましたが、攘夷という大きな目的のために半ば折れる形で幕府と歩調を合わせるということで意見がまとまり、120代天皇である仁孝天皇の第8皇女「和宮親子(内親王)」を江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室に降嫁させます。

しかし結婚後、意外にも意外!なんとぉ!ご両人は周りから手本にされるほどのオシドリ夫婦として仲睦まじかったそうです。

家茂公は半ば将軍家の掟を破って生涯側室を持たず一途に和宮を愛し、一方の和宮も度々、戦地へ赴く夫のために無事の帰還を祈りながら御百度参りを幾度となくしたと伝えられています。




その他、墓所内に設置されているものなど

明治時代の増上寺御霊屋地図

旧増上寺御霊屋

徳川将軍家墓所の敷地内MAP「宝塔配置図」

画像引用先:増上寺パンフレット

かつては三解脱門を向かい見て左側のプリンスタワーおよびプリンス芝公園の敷地と、向かい見て右側に広がるプリンスホテルの敷地すべてが増上寺の境内地でした。

それぞれの敷地には下記の将軍および正室の宝塔とそれを奉安するための霊廟があったのです。

  • 北御霊屋(プリンスタワー・プリンス芝公園と丸山古墳):台徳院(2代目秀忠公)の巨大な霊廟
  • 南御霊屋(プリンスホテル東京の敷地):文昭院(家宣公)と惇信院(家重公)有章院(家継公)昭徳院(家茂公)静寛院宮…etc

これら代々の将軍のご遺骸は逝去後、荼毘(火葬)に付されず、すみやかに石棺の中に収められ、つまりは土葬にされていたというから驚きです。

双方の霊廟は江戸時代を代表する職人たちの協演により、当時の最先端の技術を駆使して造営されており、家康公の御霊が奉斎される日光東照宮を凌ぐ規模のものであったと伝えられています。

徳川将軍家霊廟の歴史

徳川将軍の霊廟は空襲で焼失

しかしながら、1945年(昭和20年)3月10日に北御霊屋、同年5月25日には南御霊屋が太平洋戦争の東京大空襲により、直撃に近い形で被災し、各々の霊廟は灰燼に帰し、ほぼ焼け野原状態になっています。

いずれの霊廟も戦前は国宝指定を受けるものでしたが、空襲により国宝指定から除外されていますが、もしこれらの霊廟が仮に現存したのであれば日光とならび世界遺産に登録されていたのは疑いようのない事実だったでしょう。

ほぼ焼け野原状態となった双方の霊廟ですが、石棺は地中に埋まっていたことから空襲の被害を受けるがことなく、1958年(昭和33年)に文化財保護委員会が中心となった内部調査が実施された折、土葬にされていた事実が明らかになっています。

現在までの記録では、1958年(昭和33年)に引き上げられた遺骨は荼毘にふされ、その後、現今の徳川将軍家墓所の宝塔の下に改葬されたという運びになっています。

すなわち、これらの宝塔の下には歴代将軍およびその正室の御遺骨が本当に埋葬されていることになります。内部に入れられたら、1度でいいので、ぜひ、静かに合掌してご冥福をお祈りください。

徳川将軍家墓所のその他の見どころ

徳川将軍家墓所「鋳抜門(旧文昭院霊廟奥院中門)」

この鋳抜門は、かつて文昭院殿霊廟の宝塔前に建てられていた中門になりんす。

日光東照宮にもこれと構図が同じような鋳抜門がありんすが、東照宮の方は左右の扉に花柄の装飾が1つずつと、密教法具の輪宝(りんぽう)4つずつ据えられています。

この他にも、「蜃(しん)」という伝説上の生き物の銅像が門の左右両脇に据えられています。

増上寺の鋳抜門は徳川家の家紋となる三つ葉葵紋が5つ配されており、門の両脇には昇り竜と下り龍の鋳抜が据えられています。




鋳抜門の表側の装飾

⬆️左右両脇に昇り・下り龍が見える

⬆️中央の桟唐戸(さんらど)には徳川家の家紋が5つ施されている ..カモぉ〜ン

⬆️昇り竜UP(裏側)

⬆️降り龍UP(裏側)

鋳抜門の裏側の装飾

⬆️裏側の左右両脇に昇り・下り龍が見える

⬆️中央の桟唐戸には徳川家の波紋の装飾が施されている ..ハモぉ〜ン

⬆️昇り竜UP(裏側)

⬆️降り龍UP(裏側)

この昇り下り龍の意匠を見るだけでも並の職人ではないことが分かる。いったい何者の仕業だ。今日もどこかでデビルマン〜♪

⬆️横から見た鋳抜門。屋根上鬼板のガメゴンが天を仰ぎながら雄叫びをあげている。

鋳抜門の名前の由来や日光東照宮の鋳抜門については下記ページをご参照ください。




徳川将軍家墓所拝観受付

入館料金
  • 一般500円(税込)
  • 中高生:無料
  • 小学生以下:無料
割引

徳川将軍家墓所拝観とのセット券:1,000円(200円お得!)
※宝物展示室の入館料金は700円
※障害者割引、団体割引はなし

入館可能時間
  • 平日/10:00~15:00(最終入場14:45)
  • 土日祝日/10:00~16:00(最終入場15:45)
休館日

火曜日 ※火曜日が祝日の場合は入場可能

拝観特典
  • 戦前の霊廟の白黒古写真ポストカード10枚
  • 由緒書き1枚

⬆️将軍家墓所を拝観すると漏れなくポストカードと由緒書きが進呈される

⬆️増上寺の戦前の古地図も入っている

徳川将軍家霊廟では入場受付では御朱印がもらえる!

徳川将軍家墓所拝観受付では、拝観受付のほか、期間限定で授与される徳川将軍家墓所の特別御朱印(書き置きタイプ)の授与を行なっています。

徳川将軍家墓所の御朱印については下記ページをご覧ください。うきゃ

ボランティアによる説明もある!

土日祝日は、港区観光ボランティアによる案内説明が無料で聴けます。

四菩薩像

  • 造立年:1258年(正嘉2年)
  • 作者:不明

あまり目立ちませんが、拝観受付の脇には4躯の石像が置かれています。

正面右から‥

  • 普賢菩薩(辰年守り本尊)
  • 地蔵菩薩(子育地蔵)
  • 虚空蔵菩薩(丑寅守り本尊)
  • 文殊菩薩(卯年守り本尊)
四菩薩像の歴史・由緒

実はこの石像四菩薩像と呼ばれ、ちょっとした由緒をもつ石像になりんす。

この四菩薩像は、もともと現在地の北西、ちょうど東京タワーの足元となる地蔵山という小高い丘陵地帯に安置されたいた菩薩さまたちです。

かつては安国殿の前で奉安される西向観音の西向きに対して、東向きに祀られていたそうです。

徳川将軍家墓所の場所と行き方

境内、本堂(大殿)を向かい見て右脇には「安国殿」がありんすが、安国殿の右脇に下掲写真のような「徳川将軍家墓所公開」とデカデカと書かれた冠木門が見える

⬆️噂の冠木門

冠木門をググり抜けると、さらに噂の千躰子育地蔵が視界に入る。

⬆️さらに噂の千躰子育地蔵

⬆️突如、反対を向いてパシャり!と一枚!

さらに噂の千躰子育地蔵を横目にして通り過ぎるように歩いていくと‥!墓所の門となる鋳抜門が見える。

⬆️鋳抜門の正面。後方に東京タワーが見える

鋳抜門を正面に見て右脇には「拝観受付」がある。

なお、注意点としては鋳抜門をクグって墓所の中に入れるワケではない。鋳抜門は現在は外観を見学するだけの展示物であり、厳密には鋳抜門を正面に見て左脇、ちょうど拝観受付の奥に出入口が用意されている。

⬆️拝観受付。写真は墓所の出入口から振り返ってパシャり!激写したところ。奥に見える石像は四菩薩像。

⬆️墓所の出入口。狭い。ノッポは頭上のコンクリに注意。何も考えずにそのまま直進すれば確実にデコに直撃する

その他の増上寺の観光・境内見どころ

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