浜離宮恩賜庭園はいつ頃から当地にあるのでしょうか?
知りたくありやせんかぃ?
以下では浜離宮恩賜庭園の歩みと年表をご紹介しています。
項・一覧
浜離宮恩賜庭園の歴史(年表)
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浜離宮庭園の歴史(年表) | ||
年号 | 月日 | 事項 |
1603年〜1654年(江戸時代前期) |
浜離宮の土台となる埋立地が造成される。
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1654年(承応3年) | 8月 |
松平左馬頭綱重が4代目将軍・家綱から15000坪の土地を拝領す。海を埋め立てて邸地とす。
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1661年(寛文1年)閏8月
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綱重、甲府宰相となり、邸地は甲府宰相浜屋敷または海手屋敷と称される29535坪を加増される
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同4年 |
29535坪を加増される
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同9年 | 11月29日 |
浜屋敷の邸館、庭園完成。御作事奉行、友町武兵衛、玄斎に褒賞を与える
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1704年(宝永元年) | 12月5日 |
綱重の子・綱豊(家宣)が5代目将軍綱吉の用紙となり、江戸城西の丸に入る。これ以後は将軍家の別邸となり、初めは西の丸御用屋敷、改めて浜御殿と称す
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同4年 |
浜御殿の大修理が行われる。中島茶屋、海手茶屋、清水茶屋、観音堂、庚申堂、大手門、大手門橋などはこのときに造営された。
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浜御殿預かりの職が置かれる
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同6年 | 4月27日 |
浜御殿奉行を置き、永井伊豆守直敬を任ぜられる。オホ
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5月1日 |
家宣、6代目将軍となる。
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9月5日 |
将軍としての家宣、初めて浜御殿にて遊興に耽る
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1707年(宝永4年) |
6代目将軍・徳川家宣が中島の御茶屋を造営す。
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1709年(宝永6年) |
濱御殿奉行という奉行職が設置されることになり、初代奉行に「永井伊豆守直敬」が任命される。
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1716年(享保元年) | 8月 |
吉宗公8代目将軍に就任す。浜御殿の経営方針を改変し、実用的利用を図る
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同2年 | 2月25日 |
石垣から二町の海域禁漁区とし、水連が実施される。
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同4年 | 9月 |
浜御殿の人員が大幅削減される。
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同5年 | 5月12日 |
馬場にて旗本の武士の乗馬を検分する旨が通達される。
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同6年 | 閏7月26日 |
門の開門、通行、番人、清掃などについて定める。
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同9年 | 2月30日 |
山下門加賀町から発した大火により浜御殿類焼す。
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浜離宮庭園の歴史(年表) | ||
年号 | 月日 | 事項 |
同12年 | 3月 |
甘庶(かんしゃ)の栽培が開始される。
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7月 |
大泉水の水質悪化防止のため通水路工事を施工す。
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同14年 | 5月25日 |
ベトナムから渡来した像が到着す。ほどなく園内にて飼育が開始される。
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9月 |
オランダ人ケーゼルが宿泊す。西洋騎馬術の上覧が行われる。
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4月15日 |
目白台からの出火により類焼。
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同17年 |
寿光院、蓮浄院、法心院の三尼の居館を建築す。
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1776年(宝永5年) | 7月4日 |
三尼の居館から出火により焼失す。
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同7年 | 4月15日 |
三尼の居館跡に新銭座鴨場が設けられる。
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1787年(天明7年) | 3月 |
家斉第11代将軍に就任す。
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1788年(天明8年) |
中島の御茶屋が再建される。(11代目将軍・家斉公の御代)
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1791年(寛政3年) | 4月 |
庚申堂鴨場が設けられる。
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10月 |
御亭山腰掛けが設けられる。
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同4年 | 9月 |
台風による高潮の被害
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同8年 | 1月 |
お伝い橋に藤柵新設
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1853年(嘉永6年) |
護岸の上に沿岸砲5門が設置される。
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安政元年 | 10月11日 |
13代家定が沿岸砲の実射演習を上覧す。
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1866年(慶応2年) | 9月6日 |
14代家茂が大坂城で没す。その棺が海路にて帰還す。
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11月 |
浜御殿奉行を廃し、海軍奉行を置く。以後、海軍所と称す。
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石室の着工 | ||
明治元年(1868年) | 1月12日 |
前年10月24日に15代目将軍を辞した慶喜が海路にて東帰。浜御殿へ上陸す。
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8月 |
浜御殿の土地すべてが皇室が収公される。軍務官、外国官の所管となる。この年、不用とみなされた旧来の建物が撤廃される。
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閏11月12日 |
明治天皇が行幸される。
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11月17日 |
東京府の所管となる。
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浜離宮庭園の歴史(年表) | ||
年号 | 月日 | 事項 |
1879年(明治2年) | 5月10日 |
石室が竣工される(7月に”延遼館”と命名される)外国官が所管す。
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この年、不用とみなされた旧来の建物が取り壊される。
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明治3年 | 10月23日 |
宮内省の所管に移管される。名称が「浜離宮」と改称される。(延遼館を除く)
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明治7年 | 12月 |
この年より華族・高官に拝観を許す。
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明治12年 |
ジョサイア・コンドル設計により延遼館が改修される。
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7月 |
米国前大統領グラント将軍が国賓として延遼館に1ヶ月滞在す。
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8月10日 |
グラント将軍、明治天皇と中島茶屋にて会見す。この年から大正5年まで観桜会場に指定される。
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明治16年 |
この年から大正5年まで観桜会場に指定される。
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1884年(明治16年) |
延遼館が外務省から宮内省に移管される。
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明治17年 |
延遼館の裏庭にて初の天覧相撲が開催された。
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明治22年 | 12月 |
老朽化に伴い、延遼館が取り壊される
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明治39年 | 9月22日 |
境界を調査し、これまでに芝区に属していたのを京橋区に編入す。
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1921年(大正10年)
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魚市場用地として払い下げ問題が発生す。有識者の運動により中止される。
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大正12年 | 9月1日 |
関東大震災が発生す。旧大手門、大手門橋、汐見茶屋が焼亡す。
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1944年(昭和19年) | 11月29日 |
空襲により罹災す。中島茶屋、鷹の茶屋、松の茶屋、燕の茶屋、籾倉などが焼亡す。
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昭和20年 | 11月8日 |
東京都に下賜される。
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昭和21年 | 4月1日 |
庭園が公開される(無料の記帳式)
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6月1日 |
有料制になる。普通20銭、団体10銭
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昭和22年 | 5月16日 |
G・H・Q命令で19日以降、米軍の練兵場として使用されることになる
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昭和23年 | 4月10日 |
テニスコート5面が完成す。開場式が執り行われる。
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7月 |
旧官舎の修理に着手。集会場(芳梅亭)として仮使用が開始される(翌年4月16日工事完了し正式使用が開始される。
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12月8日 |
文部省告示第98号により名勝および史跡に指定される。
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昭和24年 | 5月 |
三重県安乗崎から我が国最古の木造洋式灯台(明治6年建設)が浜離宮に移設される。(昭和30年10月横浜港に移転)
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昭和26年 |
梅樹100本あまりを植えて梅林が造られる。
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浜離宮庭園の歴史(年表) | ||
年号 | 月日 | 事項 |
昭和27年 | 6月 |
園内を20m道路を貫通させる第18号道路計画問題が企画される。3年間の努力の後、園内貫通を防ぐことに成功す。
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2月22日 |
文化財保護委員会告示第29号により特別名勝および特別史跡に指定される。
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昭和28年 | 3月9日 |
元船蔵跡に船舶発着所を設置することを東京都観光協会に打診し、許可が下りる。
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昭和29年 | 12月31日 |
お伝い橋、延長128mが213万円で復旧される。
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昭和34年 |
管理事務所が改築される。
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昭和40年 |
八ツ橋(海手伝い橋)が復旧される。これにてすべての橋の復旧工事が完了す。
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昭和41年 |
失対詰所跡に休憩所とその庭が設けられる。
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昭和47年 | 4月1日 |
無料公開制となる。
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昭和51年 | 2月20日 |
「庭園の管理のあり方」について東京都公園審議会に諮問す。
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昭和53年 | 2月22日 |
東京都公園審議会にて審議
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昭和54年 | 4月1日 |
浜離宮、ふたたび有料制になる
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昭和58年 | 3月末日 |
「庭園のあり方」答申に基づきテニスコートが廃止される。
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9月末日 |
中島の茶屋の復元が完成す。
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10月14日 |
中島の茶屋のテープカットが執り行われる。
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10月20日 |
中島の茶屋の供用が開始される。
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2000年代前半(平成)
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対岸の旧汐留貨物ターミナルが再開発され汐留の高層ビル群が林立した。
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2010年(平成22年)12月 | 12月 |
松の御茶屋の復元工事が完了す。
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2015年(平成27年)5月 | 5月 |
燕の御茶屋の復元工事が完了す。
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2018年(平成30年) | 4月 |
鷹の御茶屋の復元工事が完了す。
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浜離宮恩賜庭園の所有者の変遷
- 徳川家康公(江戸幕府)の直轄地 → 松平家※草創→ 将軍家→ 朝廷→ 軍務官→ 外国官→ 東京府→ 宮内省→ 東京市・東京都(浜離宮恩賜庭園) ※現在
浜離宮恩賜庭園の名称の変遷
- 浜屋敷 → 浜御殿 → 浜離宮 → 浜離宮恩賜庭園
浜離宮恩賜庭園の利用用途の変遷
- 邸宅 → 庭園 → 海軍基地 → 接待所 → 公園・史跡
浜離宮恩賜庭園の橋の数と位置の変遷
現在の浜離宮恩賜庭園の虎口に架橋される橋の数は2本。築地側の大手門と、汐留側の中の御門の2つです。実は現今に至るまで浜離宮庭園に架橋される橋の位置や本数は幾度も変わっています。
- 作庭当初:2ヶ所→ 宝永期:4ヶ所→ 明和期:2ヶ所→以降2ヶ所
浜離宮恩賜庭園の歴史の歩み
徳川家康時代(江戸時代初期)
浜離宮恩賜庭園の場所は、江戸時代(1603年〜1654年)の間に造られた埋立地であり、かつては海だった場所です。埋め立てられた理由は江戸の人口急増により、吐き出されたゴミ処理の場所として充てがわれたためだと伝えられています。 ⬆️ 浜離宮庭園のあたりは1880年以前は海! 画像引用先:https://www.ndl.go.jp/
これは家康公が発布した汐留の「天下普請」の一環で埋立地とされたためであり、以降、3代将軍家光公の御代まで続けられることになりまする。
埋立が進むに比例して、この埋立地に大名屋敷や武家屋敷が建てられていくことになり、汐留は新橋や銀座、 築地と並ぶほどの盛況を極めることになりまするよ。
徳川家綱時代(4代目将軍/1651年〜1680年)
埋立られた後は将軍家の鷹狩場として利用されていましたが、1654年(承応3年)に松平綱重(3代目家光公の三男/4代将軍徳川家綱の弟)の下屋敷が造営されることとなり、茶園、火薬所、庭園が新たに整備されるなど大幅な改修が行われています。
改修後、「甲府浜屋敷(甲府藩下屋敷)」や「海手屋敷」と呼ばれており、正式にはこれが浜離宮の草創になりまする。
徳川家宣時代(6代目将軍/1709年〜1712年)
この後、松平綱重の子・綱豊が6代将軍徳川家宣となった際に「西丸御屋敷」と改称され、さらにその後、「浜御殿」と改称されています。
⬆️江戸時代後期(1800年代)の古地図「濱御殿」が現在の浜離宮。「紀伊殿」が芝離宮。 画像引用先:https://www.ndl.go.jp/
1729年には象が飼われていた?!
浜離宮では1729年にベトナムから日本に来た象が飼育されていたことがありんす。象は長崎から大坂・京都と移送され天皇や有力者に謁見し、江戸に入った後は時の将軍・吉宗公の命令により、濱御殿(現在の浜離宮庭園)の中で飼育されることになりんす。
画像引用先:https://ja.wikipedia.org/
当時の濱御殿は吉宗公の直轄に置かれ、製糖・製塩、鍛冶、火術・大砲術、水質改善などの実学実験場としても機能していたようです。その一環で象の飼育が開始されています。象を飼育していた象舎は現在の花木園の中、売店&休憩所付近に「象の飼育場所跡」などと書かれた案内板が立てられています。
徳川家斉時代(6代目将軍/1787 年〜1837年)
家斉公の御代になると園内各所に茶屋や腰掛けが作られたり、鴨場も拡充し、増設もされています。
天明年間以降は、天災や飢饉が続いたため、非常事態に備えるために籾の備蓄を図っています。ちなみにこの籾蔵は現在のボタン園の場所に建てられていましたが現在は太平洋戦争の東京大空襲により焼失しています。
天保の大飢饉の折は、諸物価が高騰し、米価が下がらなかったために、その救済政策として浜御殿の掘さらいを命じ、その代価として人夫に賃金を支払っています。
1853年(嘉永6年)
ペリーが浦賀に来航す。このとき「黒船」という西洋の巨大な船を見た人々は慌てふためき、幕府も急を要する自体としてペリー退去後、すみやかに浜御殿に高松藩と鉄砲方を常駐させ防備にあたらせています。
護岸には24斤カノン砲5挺、榴弾砲3挺が配備されています。この他、現在の汐留駅の地に砲術の訓練所が置かれ、教官として江川英龍(えがわ ひでたつ)が招聘されまする。
一説によれば、現今に見られる「気をつけ」「右向け右」「回れ右」の掛け声はこのとき、江川英龍が考案したとされています。
1866年(慶応2年)
浜御殿が廃止され、新たに海軍所が設置される。1867年(慶応3年)築地にあった軍艦操練所が浜御殿内へ移転してくる運びと相成りまする。
1869年(明治2年)
外国人接待所として石造り洋館である延遼館(えんりょうかん)が完成。⬆️往時の延遼館
1879年(明治12年)明治天皇に米国前大統領であるグラントが謁見す。米国の大統領が来日するのは初めてとのことで、この浜離宮をグラント大統領(夫妻)に宿舎として提供し、浜離宮内で会見が行われる。
この会見は明治天皇がグラント夫妻が宿泊する浜離宮を逆に訪問するという異例の形式で執り行われた。
1890年(明治23年)
延遼館が老朽化のために取り壊される。1923年(大正12年)関東大震災により甚大な被害を受ける。
1945年(昭和20年)
東京大空襲により、園内の建物が焼失。東京都に下賜される。
1946年(昭和21年)
都立庭園として開園す。
1952年(昭和27年)
文化財保護法により、旧浜離宮庭園として特別名勝・特別史跡に指定される。
平成時代2018年
2018年秋に「東京150年祭」というイベントの一環で夜間入園を実施しています。このときは園内にて大規模なプロジェクションマッピングが行われたようですが、東京全体が対象となるような大イベントでも開催されないかぎり、浜離宮においてのライトアップイベントというのは今後、行われないように思えます。
2019年
2019年4月にも「花紅柳緑@浜離宮恩賜庭園」というイベントが飲料メーカーの「レッドブル」主催により行われています。