浜離宮恩賜庭園の歴史(年表)

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浜離宮恩賜庭園はいつ頃から当地にあるのでしょうか?

知りたくありんせんかぃ?

以下では浜離宮恩賜庭園の歩みと年表をご紹介しています。

浜離宮恩賜庭園の所有者の変遷

  • 徳川家康公(江戸幕府)の直轄地 → 松平家※草創→ 将軍家→ 朝廷→ 軍務官→ 外国官→ 東京府→ 宮内省→ 東京市・東京都(浜離宮恩賜庭園) ※現在

浜離宮恩賜庭園の名称の変遷

  • 浜屋敷 → 浜御殿 → 浜離宮 → 浜離宮恩賜庭園

浜離宮恩賜庭園の利用用途の変遷

  • 邸宅 → 庭園 → 海軍基地 → 接待所 → 公園・史跡

浜離宮恩賜庭園の橋の数と位置の変遷

現在の浜離宮恩賜庭園の虎口に架橋される橋の数は2本。築地側の大手門と、汐留側の中の御門の2つです。

実は現今に至るまで浜離宮庭園に架橋される橋の位置や本数は幾度も変わっています。

  • 作庭当初:2ヶ所→ 宝永期:4ヶ所→ 明和期:2ヶ所→以降2ヶ所

浜離宮恩賜庭園の歴史(年表)

徳川家康時代(江戸時代初期)

浜離宮恩賜庭園の場所は、江戸時代(1603年〜1654年)の間に造られた埋立地であり、かつては海だった場所です。

埋め立てられた理由は江戸の人口急増により、吐き出されたゴミ処理の場所として充てがわれたためだと伝えられています。

⬆️ 浜離宮庭園のあたりは1880年以前は海! 画像引用先:https://www.ndl.go.jp/

これは家康公が発布した汐留の「天下普請」の一環で埋立地とされたためであり、以降、3代将軍家光公の御代まで続けられることになりんす。

埋立が進むに比例して、この埋立地に大名屋敷や武家屋敷が建てられていくことになり、汐留は新橋や銀座、 築地と並ぶほどの盛況を極めることになりんすよ。

徳川家綱時代(4代目将軍/1651年〜1680年)

埋立られた後は将軍家の鷹狩場として利用されていましたが、1654年(承応3年)に松平綱重(3代目家光公の三男/4代将軍徳川家綱の弟)の下屋敷が造営されることとなり、茶園、火薬所、庭園が新たに整備されるなど大幅な改修が行われています。

⬆️鷹狩場だった頃の浜御殿の様子。雑草に覆われている。

改修後、「甲府浜屋敷(甲府藩下屋敷)」や「海手屋敷」と呼ばれており、正式にはこれが浜離宮の草創になりんす。


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徳川家宣時代(6代目将軍/1709年〜1712年)

この後、松平綱重の子・綱豊が6代将軍徳川家宣となった際に「西丸御屋敷」と改称され、さらにその後、「浜御殿」と改称されています。

⬆️江戸時代後期(1800年代)の古地図「濱御殿」が現在の浜離宮。「紀伊殿」が芝離宮。 画像引用先:https://www.ndl.go.jp/

 

1729年には象が飼われていた?!

浜離宮では1729年にベトナムから日本に来た象が飼育されていたことがありんす。象は長崎から大坂・京都と移送され天皇や有力者に謁見し、江戸に入った後は時の将軍・吉宗公の命令により、濱御殿(現在の浜離宮庭園)の中で飼育されることになりんす。

画像引用先:https://ja.wikipedia.org/

当時の濱御殿は吉宗公の直轄に置かれ、製糖・製塩、鍛冶、火術・大砲術、水質改善などの実学実験場としても機能していたようです。その一環で象の飼育が開始されています。

象を飼育していた象舎は現在の花木園の中、売店&休憩所付近に「象の飼育場所跡」などと書かれた案内板が立てられています。

徳川家斉時代(6代目将軍/1787年〜1837年)

家斉公の御代になると園内各所に茶屋や腰掛けが作られたり、鴨場も拡充し、増設もされています。

天明年間以降は、天災や飢饉が続いたため、非常事態に備えるために籾の備蓄を図っています。ちなみにこの籾蔵は現在のボタン園の場所に建てられていましたが現在は太平洋戦争の東京大空襲により焼失しています。

天保の大飢饉の折は、諸物価が高騰し、米価が下がらなかったために、その救済政策として浜御殿の掘さらいを命じ、その代価として人夫に賃金を支払っています。

1853年(嘉永6年)

ペリーが浦賀に来航す。

このとき「黒船」という西洋の巨大な船を見た人々は慌てふためき、幕府も急を要する自体としてペリー退去後、すみやかに浜御殿に高松藩と鉄砲方を常駐させ防備にあたらせています。護岸には24斤カノン砲5挺、榴弾砲3挺が配備されています。

この他、現在の汐留駅の地に砲術の訓練所が置かれ、教官として江川英龍(えがわ ひでたつ)が招聘されまする。

一説によれば、現今に見られる「気をつけ」「右向け右」「回れ右」の掛け声はこのとき、江川英龍が考案したとされています。

1866年(慶応2年)

浜御殿が廃止され、新たに海軍所が設置される。

1867年(慶応3年)

築地にあった軍艦操練所が浜御殿内へ移転してくる運びと相成りまする。

1869年(明治2年)

外国人接待所として石造り洋館である延遼館(えんりょうかん)が完成。

1879年(明治12年)

明治天皇に米国前大統領であるグラントが謁見す。米国の大統領が来日するのは初めてとのことで、この浜離宮をグラント大統領(夫妻)に宿舎として提供し、浜離宮内で会見が行われる。

この会見は明治天皇がグラント夫妻が宿泊する浜離宮を逆に訪問するという異例の形式で執り行われた。

1890年(明治23年)

延遼館が老朽化のために取り壊される。

1923年(大正12年)

関東大震災により甚大な被害を受ける。

1945年(昭和20年)

東京大空襲により、園内の建物が焼失。東京都に下賜される。

1946年(昭和21年)

都立庭園として開園す。

1952年(昭和27年)

文化財保護法により、旧浜離宮庭園として特別名勝・特別史跡に指定される。

平成時代

2018年

2018年秋に「東京150年祭」というイベントの一環で夜間入園を実施しています。

このときは園内にて大規模なプロジェクションマッピングが行われたようですが、東京全体が対象となるような大イベントでも開催されないかぎり、浜離宮においてのライトアップイベントというのは今後、行われないように思えます。

2019年

2019年4月にも「花紅柳緑@浜離宮恩賜庭園」というイベントが飲料メーカーの「レッドブル」主催により行われています。


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浜離宮恩賜庭園のあゆみ(年表)

年号 できごと
1603年〜1654年(江戸時代前期) 浜離宮の土台となる埋立地が造成される。
1654年(承応3年) 松平綱重(3代目家光公の三男/4代将軍徳川家綱の弟)の下屋敷が造営される。
1707年(宝永4年) 6代目将軍・徳川家宣が中島の御茶屋を造営す。
1709年(宝永6年) 濱御殿奉行という奉行職が設置されることになり、初代奉行に「永井伊豆守直敬」が任命される。
1724年(享保9年) 中島の茶屋が火災により焼失す。(但し、確たる証拠なし)
1729年(享保14年) ベトナムから象が渡来。以後、濱御殿に象舎が建てられ飼育される。
1788年(天明8年) 中島の御茶屋が再建される。(11代目将軍・家斉公の御代)
1853年(嘉永6年) 沿岸防備のために園内に大砲5門が設置される。
1866年(慶応2年)11月 奉行職が廃止され、新たに海軍奉行が置かれる。浜御殿は海軍所となる。
1869年(明治2年) 外国人接待所「延遼館」が竣工。延遼館は明治維新後も鹿鳴館が完成するまでは迎賓館として使用される。
1870年(明治3年) 宮内省の管轄となり「離宮」と改称される。明治天皇も度々、足を運ばれるようになる。
1879年(明治12年) ドイツの皇太子フリードリヒが訪問。アメリカ大統領のユリシーズ・S・グラントも延遼館に1か月滞在し、中島の御茶屋で明治天皇との謁見が行わる。
1889年(明治22年) 延遼館が取り壊される。
1923年(大正12年) 関東大震災と東京大空襲(1945年)で、大手門や複数の御茶屋や樹木が焼失す。庭園全体的に大きく損傷す。
1945年(昭和20年)11月3日 GHQの要求により東京都に下賜される。
1946年(昭和21年)4月1日 都立庭園として開園。
1952年(昭和27年) 「旧浜離宮庭園」として特別史跡・特別名勝の指定を受ける。
1972年(昭和47年) 他の都立公園とともに無料化される。(後に再有料化)
1983年(昭和58年) 中島の御茶屋の復元工事が完了す。
2000年代前半 対岸の旧汐留貨物ターミナルが再開発され汐留の高層ビル群が林立す。
2010年(平成22年)12月 松の御茶屋の復元工事が完了す。
2015年(平成27年)5月 燕の御茶屋の復元工事が完了す。
2018年(平成30年)4月 鷹の御茶屋の復元工事が完了す。
2018年(平成30年) 園内にてライトアップイベントが開催される。
2019年(平成31年) 園内にてライトアップイベントが開催される。

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