靖国神社の戦争博物館「遊就館」前庭の見どころ(特攻勇士の像・母の像など)

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靖国神社の戦争博物館「遊就館」前庭の見どころ(特攻勇士の像・母の像など)

こちらのページでは、靖国神社・遊就館の前庭部分にある慰霊像や慰霊碑についてご紹介します。

遊就館内部の展示と併せて、ぜひご覧ください。

遊就館入口前(特攻勇士の像など)

まずは、遊就館の入口付近をご紹介します。

特攻勇士の像

奉納年

  • 1999年(平成11年)
制作者

  • 原型:北村西望、拡大制作:石黒光二

こちらの像は、1999年(平成11年)、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会により奉納されました。

像の原型は、遊就館内で展示されている「海軍飛行予備学生之像」です。

長崎県出身の彫刻家・北村西望(きたむらせいぼう)は、東京美術学校(現東京芸術大学)教授の時、海軍飛行予備学生を志願し、特攻隊員として大空に散っていった教え子への哀悼と鎮魂の祈りを込めて、像を製作しました。

その像を原型とし、弟子の石黒光二が拡大制作したのがこちらの「特攻勇士の像」です。

像の傍らには、「陸軍航空西尾少佐以下一三四四名」に始まり、「計五ハ四三名の陸海軍人は敢然として敵艦船等に突入散花され今日の平和と繁栄の我が日本の礎となられた」などと刻まれた「特攻勇士を讃える」という題の石碑もあります。

なお、北村西望の代表作としては、長崎平和公園の「平和祈念像」や、国会議事堂1階の「板垣退助立像」などがあります。

青銅八十封度陸用加農砲

  • 口径:250㎜
  • 全長:3,830㎜

特攻勇士の像の隣には、江戸時代末期の1854年(安政元年)、湯島馬場大筒鋳立場で鋳造され、品川台場に据え付けられていた青銅八十封度(ポンド)陸用加農(かのう/カノン)砲があります。

前年の黒船来航を受け、日本(江戸幕府)は異国船の襲来に備える必要に迫られていました。

遊就館入口前のしゃちほこ

遊就館(新館)の入口前に新しく設置された特大サイズのしゃちほこは、前橋陸軍予備士官学校 相馬原会から奉納されたものです。

旧館の入口前と靖國会館の入口前にも、1985年(昭和60年)に、同会から奉納されたしゃちほこが1対ずつ奉納されています。

遊就館旧館前①(パール博士の顕彰碑など)

遊就館旧館の入口の向かって左手前から靖國会館までの間には、いくつかの顕彰碑や像が設置されています。

遊就館の入口に近い方から順番にご紹介します。

青銅百五十封度陸用加農砲

  • 口径:290㎜
  • 全長:4,220㎜

遊就館旧館入口の向かって左手前には、「青銅百五十封度陸用加農砲」が展示されています。

1849年(嘉永2年)に薩摩藩で鋳造され、大坂の天保山砲台に設置されていたもので、1868年(明治元年)に大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)が砲身に施條(しじょう)を施しました。

施條とは

弾丸の直進性を高めるため、銃砲身内に施すらせん状の溝

護国海防艦顕彰碑

旧日本海軍における海防艦の定義は時期により異なりますが、基本的には沿岸警備、海峡警備、輸送船団護衛などのために用いられた艦艇を指します。

太平洋戦争中、日本海軍では、航空母艦や輸送艦などの建造に注力していたため護衛艦艇は後回しにされ、その結果、小規模な造船所でも製造できる小型で簡易な仕様の海防艦が170隻ほど建造されました。

そして、戦場への物資の輸送を妨害しようとする連合国軍の潜水艦や航空機から輸送船を守るため奮闘することになりますが、構造が粗末で兵器も足りず、さらに低速力であるなど、性能面で圧倒的に劣る日本の海防艦は、各地で過酷な戦いを強いられました。

終戦までに、完成した海防艦の4割ほどが沈められ、1万人以上の乗船員が亡くなったとされています。

結果的に、日本の海上輸送はほとんど壊滅状態となり、戦地の物資不足はさらに深刻となりました。

このように海に散った海防艦やその乗組員の霊をなぐさめるために設置されたのが、こちらの護国海防艦顕彰碑です。

背面の壁には、海防戦の名称がずらりと刻まれています。

「石垣」「淡路」「生野」など、固有の名称があるものもありますが、大部分は「第〇号海防艦」となっています。

石碑の手前には日本を中心に据えた世界地図があり、海防艦が沈没した場所には赤い印がつけられています。

石碑前の世界地図に見える赤い印

なお、靖国神社では毎年5月5日に海防艦慰霊祭が行われていましたが、主催する水交会(すいこうかい)会員の減少や出席する戦友、遺族の方々の高齢化などにより、2019年(令和元年)の慰霊祭をもって終了となっています。

パール博士の顕彰碑

奉納年

  • 2005年(平成17年)

ラダ・ビノード・パール博士は、1946年(昭和21年)の極東国際軍事裁判(東京裁判)でインド代表判事を務め、裁判官の中でたった1人、裁判の違法性を指摘し、被告全員を無罪とする個別意見書(パール判決)を提出しました。

こちらの顕彰碑は、そんなパール博士の勇気を称え、功績を語り継ぐため、2005年(平成17年)、崇敬者により建てられました。

高さ2.1m、幅1.8mある大きな碑には、パール博士の上半身を写した陶板の隣に、「パール判決」に意義などが記されています。


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遊就館旧館前②(母の像など)

母の像

奉納年

  • 1974年(昭和49年)
制作者

  • 宮本隆

パール博士の顕彰碑の隣には、戦争で夫を失いながらも、3人の子どもたちを抱えて力強く生きた母の姿を表わした「母の像」があります。

1974年(昭和49年)、幾多の苦難を乗り越え、自分たちを育て上げてくれた母を称えるため、感謝の気持ちを込めて、日本遺族会青年部より奉納されました。

碑文として、以下の一文が刻まれています。

「強く きびしく やさしかった母 おかげで私がある お母さんありがとう 私たちの悲しみがくりかえされることのないように」

ビルマ戦域の遺品展示

「母の像」の向かって左隣には、ビルマ(現ミャンマー)から回収された旧日本軍の軍人たちの遺品を展示するスペースがあります。

防毒面、弾薬、電池、鉄帽、印鑑、万年筆、眼鏡、階級章、髭剃り、砲弾の断片などや、蹄鉄(ていてつ)など軍馬の遺品、現地の砂などが展示され、太平洋戦争中最も無謀と言われた「インパール作戦」の記憶を今に伝えています。

インパール作戦とは

インパール作戦は、「援蒋ルート」と呼ばれた連合国軍の輸送ルートの遮断を目的に行われた、1944年(昭和19年)3月に始まる日本軍のインド進攻作戦です。

日本軍は当時占領していたビルマ防衛のため、インドに駐留するイギリス軍の拠点だったインパールの攻略を狙いましたが、食料や装備の補給が決定的に足りなかったことなどから作戦は失敗し、日本軍は大敗、撤退中も過酷な環境の中脱落する者が続出し、戦死者は約3万人に上ったほか、飢えやマラリア、赤痢などにより約4万人の傷病者を出しました。

永久奉仕記念碑

ビルマ戦域の遺品展示の隣には、「靖國奉仕会」によって設置された「永久奉仕記念碑」があります。

遊就館前植え込み付近の動物像(軍犬・軍馬・軍鳩)

遊就館の目の前の植え込み付近には、犬、馬、鳩の像が建っています。

どのような由来のある像なのでしょうか?

軍犬慰霊像

奉納年

  • 1992年(昭和33年)
制作者

  • 市橋敏夫

日本では、第一次世界大戦以降、ジャーマンシェパードが移入されるようになり、軍犬(軍用犬)が本格的に導入されました。

軍犬は、伝令、警戒、捜索、運搬、襲撃などに活躍した忠実な働き手であり、兵士たちにとっては戦友でした。

しかし、太平洋戦争では連合軍側の軍用犬戦術がはるかに長けていたことや、兵器の近代化が進んでいたことなどから日本の軍犬の活躍の場は減っていき、また、戦況が悪化する中、戦地では兵士たちの食料とするために屠殺されたりもしました。

戦場に送られた軍犬は1万頭ほどと言われますが、生き残って終戦を迎えた犬も復員輸送艦(復員船)に乗せてもらえず、結局、1頭も生還しませんでした。

そんな軍犬の功績を忘れぬよう、元関東軍軍犬育成所員らから、こちらのシェパードの像が奉納されました。

1992年(平成4年)3月20日の「動物愛護の日」でした。

関東軍軍犬育成所とは

関東軍軍犬育成所は、旧日本陸軍の軍犬の研究所の1つで、中国の東北地方にありました。

多くの隊員とシェパードたちが訓練にあたり、実戦配備された犬もいましたが、終戦を迎えると軍犬育成所は破棄され、将兵(育成所員)はシベリアに抑留され、その他の軍属は待機して帰国を待つことになりました。

そして犬たちは、中国軍によって接収されました。

1948年(昭和23年)に育成所員たちは帰国を果たし、その後、戦地にて命を落とした犬たちの慰霊のため、慰霊碑設置運動を始め、その運動の一環で、靖国神社にもこの「軍犬慰霊像」が設置されることになったのです。

戦歿馬慰霊像

奉納年

  • 1958年(昭和33年)
制作者

  • 伊藤國男

戦場で命を落とした軍馬(ぐんば)は、太平洋戦争の間だけでも20万頭に上ると言われ、軍犬同様、ほとんど生還していません。

日本は開国と共に、諸外国の体格が良く優秀な軍馬と騎兵隊を目にし、自らも騎兵隊の組織を志し、日露戦争後には本格的に、国を挙げて軍馬の改良・生産に取り組みました。

日中戦争開戦以降は軍馬の需要が一気に増え、遊就館でも紹介されている「バロン西」こと西竹一大佐(当時陸軍騎兵少佐)も、二度のオリンピック出場後は北海道の軍馬補充部十勝支部で馬の育成指導にあたりました。

太平洋戦争中、全部隊を自動車化・機械化していた米軍に対し、経済的・技術的問題から騎兵隊が主力だった日本陸軍では、戦争が長引くにつれ軍馬が不足し、民間の農家の馬まで買い上げらえ、出征するという状況でした。

さらに戦地では、食料不足や、馬を扱う隊員の教育不足、熱帯ジャングルでの過酷な任務、輸送中の事故などにより、馬たちは次々と命を落としました。

こちらの実物大軍馬の慰霊像は、そんな軍馬たちの霊をなぐさめ、功績を称えるため奉納されました。

戦歿馬慰霊像設置の経緯

戦歿馬慰霊像の制作者は、馬像制作の大家・伊藤國男です。

生涯にわたり馬像をてがけた伊藤は、戦没馬の鎮魂のため私財を投入してこの像を制作・奉納しましたが、台座までは経済的な理由から台座までは造れず、像の設置は保留になっていました。

それを知った元オリンピック総合馬術選手で皇居内の乗馬クラブの教官だった城戸俊三(きどしゅんぞう)の呼びかけで1957年(昭和32年)に結成された「戦歿馬慰霊像奉献協賛会」の協力により、台座も無事に造られ、翌年4月7の「愛馬の日」、晴れて建立除幕式が行われました。

台座正面の「戦没馬慰霊」の文字は明治天皇の第七皇女・成久王妃房子内親王(なるひさおうひ ふさこないしんのう)の筆によるものです。

鳩魂塔

犬や馬だけでなく、軍鳩(ぐんきゅう)と呼ばれた鳩たちも、伝書鳩として活躍しました。

こちらは、その鳩たちの霊をなぐさめるため、また、世界平和を祈念するために造られた、「鳩と地球儀」という題の像です。

1929年(昭和4年)、中野の陸軍電信隊内に置かれた鳩のブロンズ像がルーツとなっています。

中野のブロンズ像は1939年(昭和14年)に上野動物園に移転され、その後、1982年(昭和57年)遊就館前に復元奉納されたということですが、上野にあった像が正確に復元されているのかどうかや、移設の経緯はよくわかっていません。

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