【月影庭園と阿弥陀三尊像が有名】妙定院(東京都港区)の歴史・由来や境内の様子・見どころを解説!

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芝公園と赤羽川(現・古川)に囲まれた境内地に鎮座する妙定院は、江戸時代中期に建立された徳川家将軍家ゆかりの寺院ですが、あまりその存在を知らない方も多いのではないでしょうか。

境内は広いとは言い切れないものがありんすが、新造された法然堂の奥には「月影園」と称する君のテカったホッペのように月夜に眺めるとそれはそれは実にテカテカとした美しくキュートな庭園があります。どんな庭園やねん

また、小ぢんまりとした境内地には、戦災を逃れた創建時より伝来する土蔵2棟と、その土蔵の中には当院に伝わる奈良時代よりの様々な寺宝も収蔵されています。

以下ではこの魅力満載な東京都港区・妙定院の歴史・由来や境内の様子・見どころをご紹介しています。




妙定院の境内見どころ

災除地蔵尊(さいじょじぞうそん)

あまり聞かない名前のお地蔵さんですが、江戸時代には「江戸南方四十八所地蔵尊参(えどみなみのかたしじゅうはっしょじぞうそんまいり)」の第27番に列せられたほどの地蔵尊でした。

当地蔵尊は、妙定院境内地に鎮座するお地蔵さんですが、現在では境内地から直接、行くことができず、赤羽橋交差点から妙定院への道すがら参拝することができます。

かつては境内の地蔵堂に祭祀されており、身の丈・丈六(1丈6尺/=約4.85m)もの木造の大像だったようですが、残念ながら太平洋戦争の東京大空襲にて焼失しています。

したがって現今に見られる本像は大戦後に唯一、残った前・木造像の守護札版木をもとに石造りで再造されたものであり、現在の場所に移されてきたことになりんす。

  • 災除地蔵のご利益:災除、安全、延命、子育

⬆️迫ってみた!

⬆️毛がある!!! 磯野カツオ

災除地蔵尊ではお守り・お札を授与している!

なんと!この災除地蔵尊ではオリジナルのお守り&お札を授与されています。詳細は上述、妙定院の寺務所までお尋ねください。

注意点

お供え物はカラスが食い散らかすとのことで、しないで欲しいとのことです。お供え物を供えてもお参りが終われば持ち帰ってください。とのことです。きゃきゃ

災除地蔵尊の場所(地図)

本堂

  • 造営年:1763年(宝暦13年)11月
  • 再建年:戦後まもなく/2008年(※現在の本堂)
  • 建築様式:寄棟造り
  • 材質:木造/総ヒノキ造り

本堂は1763年(宝暦13年)11月、当時、増上寺46世住職であった定月大僧正が、1761年(宝暦11年)に逝去した徳川9代将軍家重公の御中陰の尊牌(白木の位牌)」を守り奉安するために、寺社建立が厳禁とされた当時、官許を経て家重公の霊牌所として質素な堂宇を建立します。

これが妙定院の誕生であり、これが現今に見られる本堂の前身です。

定月大僧正は1766年(明和3年)11月に増上寺住職の座を退いた後、麻布一本松の隠居所へ移りますが、9代目将軍家茂公、10代目将軍家治公の帰依篤く、隠居後となる1771年(明和8年)になると江戸城本丸大奥老女の方々の配慮により、惇信院殿霊廟御念持仏が寄進され、これを前述の堂宇へ移します。これにより、晴れて定月大僧正は妙定院開山となり‥ます。

その後、10代目将軍の家治公(浚明院/しゅんめいいん)の尊牌も安置されることとなり、いよいよ妙定院の礎がここに築かれることになりんす。

‥‥。(負けた)

創建当初と同じ場所・同じ向きに再建される!

本堂は太平洋戦争の東京大空襲により被災し、灰燼に帰しますが、檀徒や地域の協力により、戦後まもなく再建されることになります。これが現在の1つ前の本堂です。

現在の本堂は2006年に法然上人800年御遠忌を迎えるに際して、新造された本堂になりんす。

再建工事の際も、以前の堂舎とソックリそのままに寄棟造りを基本とし、増上の方向を向いていたことや、耐震面、それから鎮静効果・精神を落ち着かせる温かみのある臭いを放つヒノキ材を使用して再建(新造)されています。

釘を1本も使用していない!

妙定院の本堂の造りの最大のコダワリは、なんとぉぅっ!釘が1本も使用されていないという点です。木材と木材をつなぎ合わせる接合方法には、継手(つぎて)と仕口(しぐち)を巧みに用いた技法で組み上げられています。

継手と仕口とは分かりやすくいうとテトリスのようにブロックをはめ込んで行くようなイメージです。

接合部と接合部がキッチリと合わさらないとならないので、かなりの技術が必要になりんすが、イメージとしてはブロックの先を矢印マークのように加工するので、接合部と接合部がガッチリとくっ付きます。

現代の建築方法では、釘やビスなどが使用されている例が散見されますが、金物による接合を行うと金物に結露が発生し、やがて金物が腐食。その腐食は接合している木材の方にまで影響を及ぼし、やがて木材をも腐らせます。

釘を使用しない建築方法は手間と費用がかかりますが、本来、木材が持つ特性を活かしたような組み上げ方を行えば、弾力性ひいては耐震性が備わり、何十年何百年と長持ちさせることもできます。

阿弥陀三尊坐像

  • 造立年:鎌倉時代初期
  • 作者:(伝)快慶作

本堂内陣の須弥壇の上には鎌楽時代を代表する仏師である安阿弥(快慶)作と伝わる阿弥陀三尊坐像が安置されています。

徳川幕府9代目将軍家重公尊前灯籠

1761年に奉納されたとされる灯籠。

⬆️宝暦11年(1761年)の文字が見える。惇信院は家重公の法名。

⬆️後五位下‥‥の先が風蝕により見えない。惜しい。

仏足石

 

本堂の手前には「仏足石」が置かれていますが、これは定月大僧正100回忌年となる1870年に造立されたものです。

仏足石とは、釈尊(お釈迦様)の足の裏とされ、摩訶不思議な模様が描かれています。なんでもこの足の裏を撫でることによって足の痛みがやわらぐなどと云われます。

⬆️浄土宗の経典の内容が刻み込まれている

仏足石に書かれた刻文(一部抜粋)

無量寿経云

「天下和順/てんげわじゅん 日月清明/にちがっしょうみょう 風雨以時/ふうういじ 災さい厲󠄂不起/れいふき」

「国豊民安/こくぶみんなん 兵戈無用/ひょうがむゆう 崇徳興仁/しゅうとくこうにん 務修礼譲/むしゅらいじょう」

これは浄土宗の「祝聖文(しゅくしょうもん)」と呼ばれるもので、修正会などで偈文(げもん/仏の教えや徳を韻文形式で述べるもの)で唱えるものでありんす。




圓光東漸大師霊場(円光大師東都25カ所霊場)第壹番(第一番)の石碑

⬆️今では使用されない昔の字体で彫られている。

円光大師とは、法然上人のことです。法然上人没後、486年目となる1697年(元禄10年)に東山天皇より贈られた大師号になりんす。

法然上人にはいくつか名前があり、東漸大師(とうぜんだいし)とも呼ばれます。

東漸大師は1711年(宝永8年)の「法然500回遠忌」を記念して「中御門天皇(なかみかど)」から贈られた大師号になりんす。

⬆️右側面には南方廿七番(27番)「勝軍地蔵尊」の文字が見える

石柱の刻字の「南方廿七番」とは、「江戸南方四十八地蔵霊場」のことであり、当院は27番札所の指定受けています。

冒頭でも述べたように、かつて境内には地蔵堂が建っていたとされ、この地蔵堂には木造・寄木造の丈六(像高約4.85m)の金箔塗りのどデカイ地蔵坐像が安置されていたと伝えられています。

おそらくこの地蔵こそが徳川家康公が篤く信仰したとされる勝軍地蔵だったのではないかと推察されます。

勝軍地蔵と言えば付近に位置する(東京港区)愛宕神社のかつての御本尊(主祭神)になりんす。

熊野堂【登録有形文化財】

  • 造営年:1796年(寛政8年)
  • 再建年:2006年
  • 建築様式(造り):土蔵平屋建、寄棟造、妻入
  • 屋根の造り:瓦葺
  • 建築面積:23㎡
  • 登録有形文化財指定年月日:2001年11月20日
  • 発願者:妙定院住職第2世「仰願上人」

熊野堂と書いて「くまのどう」と読みます。熊野堂は妙定院境内において後述の浄土蔵と合わせて戦災の難を逃れた貴重な建造物です。

堂から棟札が見つかっており、2世仰願上人の発願であることが明らかにされています。

2006年に解体修理が実施され、修理に際して境内南奥より現在地に移築されています。

現在の建築工法では再現できない意匠とされ、高い評価を受けています。

熊野堂の内部

土蔵なので小判ザックザク♪お宝ワンサカ♪‥などのイメージありんすが、当建造物は堂舎になりますので、内部には熊野三社大権現を御本尊として奉安しています。

内部は前方1間半が外陣に相当し、奥1間が内陣に定められ、仏壇が設けられています。

このような土蔵を活用した小堂は江戸時代後期に見られる特徴となるものでありんす。

熊野堂の特別一般公開日

この熊野堂は平時は閉扉されており、内部拝観は叶いませんが、年に1回の東京文化財ウィークの時にのみ開扉され、内部が特別一般公開されます。

東京文化財ウィークの詳細については後述しています。

浄土蔵(上土蔵)【登録有形文化財】

  • 造営年:1811年(文化8年)
  • 再建年:2006年
  • 建築様式(造り):土蔵平屋2階建、切妻造、妻入
  • 屋根の造り:桟瓦葺
  • 建築面積:29㎡
  • 登録有形文化財指定年月日:2001年11月20日
  • 発願者:妙定院住職第4世「(實譽)宝観上人」

浄土蔵は1811年(文化8年)当院の第4世「宝観上人」の発願により建立されたと伝えられていますが、これは蔵から見つかった棟札に「上棟、第4世 宝観上人」などの文字が書かれていたことが証拠となっています。

内部には江戸城本丸大奥より寄進された秘仏など、当院に伝わる収蔵品の数々が収納されています。

熊野堂と同様、2006年に解体修理が実施され、修理に際して境内南奥より現在地に移築されています。また名前が上土蔵(かみどぞう)から→浄土蔵へと改名されています。

浄土蔵も戦災の難を逃れ、創建当時の江戸中期の土蔵の建築様式を伝える建造物として、平成13年に国の登録有形文化財の指定を受けています。

熊野堂と同様に江戸後期の土蔵の様式を色濃く伝える建造物として、現在の建築工法では再現できない意匠と高く評価されたことから、国の登録有形文化財の指定を受けています。

浄土蔵の特別一般公開日

浄土蔵も熊野堂と同様にに平時は閉扉されており、内部拝観は叶いませんが、年に1回の東京文化財ウィークの時にのみ開扉され、内部が特別一般公開されます。

東京文化財ウィークは文化の日(11月初週)を挟んだ前後約一週間の期間で開催される東京都教育庁が主催するイベントです。

東京文化財ウィークについての詳細は下記、東京都教育庁の公式HPをご確認ください。




経蔵の宝珠

  • 創建年:1782年(天明2年/江戸時代中期)
  • 建築様式(造り):宝形造り、正面庇附属

妙定院には創建以来、受け継がれる「明蔵」と呼ばれる経典がありんすが、この経典は1782年(天明2年)に経蔵が建立されて以来、永く保管されてきたものになりんす。

しかしながら、1967年(昭和42年)に前面の道路拡張工事に際し、屋根上の路盤の宝珠のみを残して解体されています。

内部に収蔵されいた一切経をはじめとしたお宝たちは、現在は最新空調管理技術が整備された境内書院内にて保管されています。

なお、屋根上の宝珠は現在、「宝珠之塔」に祀られています。

法然堂

法然堂は寺務所の手前にある。とてもお堂には見えないが、正面奥の須弥壇には法然上人坐像が安置されている。 

法然堂に入ったところ

正面に「南無阿弥陀佛」の掛け軸が見える。

右側に見える部屋が上述の法然堂。

増上寺第82世性誉大僧正が揮毫した「南無阿弥陀佛」の掛け軸。

寺務所

上述した寺務所では御朱印の授与やお守りの授与のほか、お墓や法要の申し込みなどを受付ています。

月影園へ通じる廊下

この廊下の先にはイベントや講義などが行われる多目的ホールがありますが、その先には上述した月影園という庭園がありんす。

それにしても舌でペロペロしても死ぬことがなさそうなほど、細菌類が全滅してそうなキレイな廊下意味よぅ分からんわ

月影園

妙定院の寺務所がある法然堂の奥には「月影園」と称する庭園があります。

この月影庭園は初代・定月上人が創建した頃に築庭された築山式庭園であり、こよなく愛したと伝えられています。

定月上人は、この庭園内を念仏経行(ねんぶつきんひん/一定の場所を往復する)しながら散策をしたと云われており、後に「月影園」と命名されています。

「経行」とは主に座禅を営む禅宗で多用される修法であり、本意は眠気を払ったり、足のシビレを取り除くために行われるものです。

なんでも創建当初より、当地には築山なるものがあったとされ、これに選び抜いた庭石を置き、木々を植栽することによって他では見られない、独特の趣が感じられる庭園を創出しています。

この月影園のモチーフとなったのが、「阿弥陀二十五菩薩来迎図」とされ、この来迎図の様相を表現した観賞式庭園こそが、この月影園になるとのことです。

三尊石を頂点とした石で創造した築山と、杉苔を植えた平庭は、彼岸(ひがん/仏の世界)と此岸(しがん/現世のこと)という仏教の教理を表しています。

現在では、海外使節などを招いて園遊会の場として利用されたりもするようです。

法然上人が月影園にちなんだ詠んだ句

月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ

法然上人 作




その他の境内見どころ

境内入ってすぐ右脇の地蔵群

如意輪観音の石仏

無残にも上部が削り取られていますが、肘をついて膝をあげているポージングは、如意輪観音がとる輪王座(りんのうざ)そのもの。

⬆️「享保四年亥天八月十日」「天保八丙年八月十日」の文字が見える。

  • 享保4年=1719年

達磨大師?の石仏?

タガネのような刃先の細い工具を用いて彫刻されているように思われる。ここに描かれている人物は、‥う〜ん。ハゲちゃビン+眉長+袈裟を着用していることから‥、達磨大師?

周囲が削れていることから、何かの一部を担っていたと推察されるが、‥なんだろう。灯籠か?

宇宙人からの贈り物?「六角形の石仏?」

パッと見たところ、石灯籠の基壇と基礎部分とその上に竿部分があり、竿の上が無いようにも見える。

竿の部分に何か文字が見える。

⬆️竿?の部分を拡大してみた

名もなきお地蔵さん

当初から当院にあったものだろうか。戦後、付近に転がっていたのを見かねて当院へ奉納する形で祀ったような気もする。

なんじゃゴるるるりゃ?!これも宇宙人からの贈り‥まさか!!『宇宙人のタマゴか!!』

⬆️地球外生命体の可能性がある!至急、ウルトラ地球防衛軍による調査が必要だ!…買ったらめちゃ高そぅ

練塀と回向柱?

練塀は1779年(安永8年)の築造ですが、当初、現在地になかったもので移築されています。

長野 善光寺の回向柱を彷彿とさせる。




かなり年季の入った灯籠

⬆️火袋の側面に石仏が彫られているのが見える。

墓地入口に建つ「初代・定月大僧正と妙定院歴代承上人の供養塔」

⬆️妙定院歴代座主の供養碑(左)/定月大僧正の供養碑(右)

墓地内の地蔵軍団

⬆️墓地には一般の墓地もあり、さらに諸所に上掲、写真のような地蔵さまが軒を連ねるように置かれている。

その他の妙定院の文化財・寺宝など

以下、一部、画像引用先:港区立郷土資料館

法然上人伝絵詞【東京都港区指定文化財】

巻数

9巻(絵画)

港区指定文化財指定年月日

1984年(昭和60年)10月15日

サイズ(大きさ)

縦: 各32.5cm

横:巻一738.6cm 巻二1161.5cm 巻三1446.9cm 巻四831.7cm 巻五1061.2cm 巻六1149.2cm 巻七1368.4cm 巻八1084.8cm 巻九1035.7cm

善光寺式阿弥陀三尊立像【東京都港区指定文化財】

造立年

不明(推定:安土桃山時代〜江戸初期)

港区指定文化財指定年月日

1983年(昭和61年)10月20日

この善光寺式阿弥陀三尊像は港区指定文化財の指定を受けることから、妙定院境内入口の柱看板に下記のような説明書きがありんす。

入口看板の説明

中尊は細面の長身に作られ、著しい伏目の面相は親しみやすく、江戸時代の作風を表しているのに比べ、両脇侍は肩を張った体躯と丸みのある頭部が形姿を整えており、制作年代は両脇侍がやや先行するものと思われます。

このように本三尊像は一具同作とは認めがたいものですが、善光寺式三尊像の遺制をよく伝えた作例として、また三尊が均衡を得た構成を示している作例としても貴重。

琴棋書画図屏風【東京都港区指定文化財】

枚数

六曲一双(絵画)

サイズ(大きさ)

左・右隻とも 縦158.9cm 横349.4cm

港区指定文化財指定年月日

1983年(昭和61年)10月20日

作者

狩野探雪(1655〜1714)

この琴棋書画図屏風も港区指定文化財の指定を受けることから、善光寺式阿弥陀三尊像と同様に妙定院境内入口となる山門前の柱看板に説明書きがありんす。

入口看板の説明

本図は父・探幽の画風を忠実に祖述したものであり、いかにも御用絵師らしい筆による謹厳な画面が作り上げられています。

江戸初期における武家好みのアカデミックな狩野派様式を知るための貴重な作品です。




絹本着色出山釈迦図 円山応挙筆

枚数

1幅(絵画)

サイズ(大きさ)

左・右隻とも 縦158.9cm 横349.4cm

港区指定文化財指定年月日

1984年(昭和60年)10月15日

作者

狩野探雪(1655〜1714)

この作品は現在、非公開。

絹本着色当麻曼荼羅図

躯数

3躯(彫刻)

像高(大きさ)

左脇侍30.7cm、中尊が41.4cm、右脇侍30.3cm

港区指定文化財指定年月日

1986年(昭和61年)10月20日

作者

狩野探雪(1655〜1714)

この作品は現在、非公開。

奈良時代写経

巻数

2巻(書跡)

サイズ(大きさ)

  • 瑜伽師地論/縦25.5cm 全長 本紙887.9cm+添紙84.0cm
  • 称讃浄土仏摂受経/縦24.6cm 全長 本紙497.2cm+添紙96.7cm
港区指定文化財指定年月日

1986年(昭和60年)10月15日

作者

狩野探雪(1655〜1714)

瑜伽師地論〈ゆがしじろん〉 巻第六十六(紙本墨書) 1巻

黄麻紙(19枚)を接いで、墨界線(縦20.0cm、幅1.9cm)を引き、1行17字詰に墨書きされています。

称讃浄土仏摂受経〈しょうさんじょうどぶつしょうじゅきょう〉(紙本墨書)1巻

黄穀紙(14枚)を接いで、墨界線(縦19.9_、幅1.9_)を引き、1行17字詰に墨書きされいます。

妙定院の概要(歴史・御由緒)

  • 創建年:1763年(宝暦13年/江戸時代中期)
  • 発願者(開基):徳川幕府9代目将軍家重公
  • 開山:増上寺第46世妙誉定月大僧正
  • 山号:三緑山
  • 寺格:増上寺塔頭(子院)
  • 御本尊:阿弥陀三尊坐像
  • 札所指定: 法然上人東都25ヶ所霊場 第1番札所

この妙定院は1761年(宝暦11年)に逝去した徳川幕府9代目将軍家茂公を1763年(宝暦13年)に開基と仰ぎ、定月大僧正が質素な堂宇を当地に建立し、妙定院が誕生します。

定月大僧正は1766年(明和3年)11月に増上寺住職の座を退いた後、麻布一本松の隠居所へ移りますが、9代目将軍家重公、10代目将軍家治公の帰依篤く、隠居後となる1771年(明和8年)には、江戸城本丸大奥老女の方々の配慮により、惇信院殿霊廟御念持仏が寄進され、堂宇へ移します。

このような経緯を経て、晴れて定月大僧正は妙定院開山となり、自らも妙定院へ居処します。

その後、10代目将軍の家治公(浚明院/しゅんめいいん)の尊牌も安置されることとなり、いよいよ妙定院の礎がここに築かれることになりんす。

太平洋戦争で境内は土蔵2棟を残して全焼す!

妙定院の境内は太平洋戦争の東京大空襲により被災し、土蔵2棟を残して灰燼に帰しますが、戦後まもなく檀徒や地域の協力により再建されることになります。

本堂は戦後に新造されていますが、老朽化や周辺の環境事情が変化したことにより、2006年に法然上人800年御遠忌を迎えるに際して新造されています。

妙定院の場所と交通アクセス(最寄駅など)

  • 地下鉄:三田線/芝公園駅下車(A4出口)徒歩4分
  • 地下鉄:大江戸線/赤羽橋駅下車(赤羽橋口) 徒歩1分
  • JR:浜松町駅下車 徒歩15分
  • モノレール:浜松町駅下車 徒歩15分
  • バス:都06/渋谷駅~赤羽橋(~新橋駅)など、赤羽橋駅前下車
  • 車:首都高速道路芝公園出口1分

妙定院の所在地・電話など

妙定院の付近周辺の見どころ一覧

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