【登りきるとどんなご利益がある?】「出世の階段(男坂)」の名前の由来と曲垣平九郎伝説!段数や長さ傾斜(角度)はどれくらい?

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東京・愛宕神社はご存知ですかぃ?

出世の階段という急角度の階段で知られる神社です。

このページでは出世の階段(男坂)と女坂を特集して、できるだけ分かりやすくご紹介していまする。

出世の階段(男坂)の「段数・長さ・横幅・傾斜角度」と「階段1段の高さ・面積」

階段の数 86段
全長(長さ) 約28m
横幅 約6m
高低差 約20m
階段1段の高さ
(蹴上/けあげ)
概ね22㎝〜24㎝
階段一段の面積
(踏み面)
約31㎝〜36㎝
階段の素材 石材
高低差 約20m
傾斜角 約37°
階段の形状 直階段

付属品

階段両側の外側に石製・内側に鉄骨の欄干(手スリ)あり。

階段中央部には親柱(上下)とその間に杭数本と杭の間に「鎖」を通した手スリ有り。

※データー参考:「松本 泰生 (著) 東京の階段」




「愛宕神社 女坂」の段数・長さ・横幅・階段一段の高さ・傾斜角度

出世の階段の真横にも階段がありますが、この階段は写真をご覧になれば分かるとおり、勾配(傾斜角度)は上記、男坂と比べると緩やかです。

古来、男坂の方を別名で「出世の階段」と呼称し、対する形で傾斜角が低い階段は「女坂」と呼び習わされています。

階段の数 106段
1回目の踏み石まで 18段
2回目の踏み石まで 19段
3回目の踏み石まで 24段
4回目の踏み石まで 12段
5回目の踏み石まで 24段
最上段の踊り場まで 9段
階段の素材 石材
階段の形状 カーブ階段

付属品

階段方側に石製の欄干と、もう方々に鉄筋製の手スリ有り。

※明確な傾斜角は分からないが男坂よりは遥かに低い

⬆️上(境内)から見た女坂の様子。あまり人が通行しておらずヒッソリそりソリひげ剃りとしている 意味不明

上掲写真を見る限り、女坂の方はも中程あたりを過ぎるまでは、それなりに傾斜角度があるように見えます。

ただ、女坂の方は男坂に比べて踏面が広く、はたまた蹴上が低いことが分かることから、男坂を下るよりは安心して下山することができ申す。

「女坂」と呼ばれる理由

「女坂」と呼ばれる理由は、出世の石段の角度がキツ過ぎるので男性。女性には少々キツいのではと考えた神社側の配慮で設置されたのが女坂?

‥‥でしょうか。

ちなみにこの女坂、江戸時代の図絵にも描かれており、江戸時代から男坂と女坂が存在していたことになりまする。

⬆️国貞・二代広重『江戸自慢三十六興 愛宕山毘沙門ノ使』 ※画像はウィキペディアより引用




⬆️3代歌川広重『東京名所図会』愛宕山見晴らしの図

愛宕山の標高

  • 標高:25.7m(愛宕神社境内の三角点(三等)の表記より)

※愛宕山の標高をビルで例えると1階が4メートルとして、単純に約6階建に相当。

トリビア

明治時代の地図には標高25.93mと記されている。

なぜ愛宕神社(愛宕山)にはこのような急角度の階段が造られたのか?

都区部(東京23区内)の自然山としては最高峰の山のようですが、なぜか不思議しぎしぎ摩訶不思議なことに、この一画だけがオモクソ盛り上がって山になっています。

愛宕神社が建つ愛宕山は、自然形成によって出来上がったものであると地質学的に証明されているようですが、それにしてもこの一画だけボコっと盛り上がっているのは謎以外の何物でもありんせん。

ひょっとすると古代豪族の古墳であった可能性も考えられます。(あくまで私見)

そこで気になってくるのが愛宕山の高さ(標高)と、敷地面積。

愛宕山の標高(高さ)

愛宕神社の境内には「三等三角点」が埋められており、ここには標高25.7mと記されています。

愛宕山・愛宕神社の敷地面積

現在までの調査では、愛宕山の面積はわずか6千坪とのこと。その山頂に建つ愛宕神社境内は1750坪。

ちなみによく比較対象として引き合いに出される「東京ドーム」と比較した場合、東京ドームは14,217坪に対して6,000坪なので、その半分にも満たない数字となる。

VS

 

出世の階段(男坂)の傾斜角度はどれだけ凄いのか?日本一の坂道??

「傾斜角37度」と言われても漠然としずぎて、どれくらいのモンなのか伝わってきやせんが、日本一の傾斜角をもつ坂道として名高いのが、大阪府と奈良県の県境にある「暗峠(くらがりとうげ)」です。

この暗峠は最大傾斜勾配37%(角度で表すと約20度/※簡易測定では傾斜角度26度 (勾配48.7%) )と言われており、この坂を歩けば分かりますが、進行方向とは逆方向からくるG(重力)に引っ張られてしまい、なかなか前に進むことができんせん。

ちなみに傾斜角が26度にもなれば自転車はもとより、自動車も走行が困難と言われるほどです。

愛宕神社の出世の階段は、傾斜角37度なので傾斜勾配が約72%くらいになるのですが、坂道ではなく踏面のある階段を上っているので引っ張られているという認識はあまり感じません。

「傾斜勾配72%」とは?

傾斜勾配72%とは、100m進む度に72m高さが増すことを意味します。

石段を上がりきった所(踏み面)の中央手スリ上部・親柱から撮影

ところで‥‥なぜ出世の階段は急角度なのか?「愛宕神社の謎」

愛宕神社の出世の階段は1/1勾配に近い傾斜です。

1603年に創建された神社なのでその時に造られた階段だと思われますが、日本の都心‥‥江戸の都心という状況や周囲の景観を加味しても、せめて1/2勾配にしても良かったような気もします。

ちょっとここで江戸時代後期の愛宕神社や愛宕山の様子を見てみましょう。

いかがですかぃ?上掲写真をご覧になれば分かるように江戸時代の愛宕山周辺には寺院の境内に取り囲まれています。おそらく階段1つ造るのも容易ではなかった背景が浮かびまする。

このような謎があるのも愛宕神社の魅力であり、大きな見どころといえるのではないでしょうか。




出世の階段を昇降する際の注意点

トレーニング禁止!

これは看板にも書かれていますが、『トレーニング禁止』です。

どうも階段が急勾配なことから、筋力増強のためにトレーニングする人がいるようです。

看板の内容
トレーニング禁止

石段でのトレーニングは不敬にあたります。お止めください。

※苦情が多数寄せられております。

原則:左側通行!

出世の階段の足元まで行けば分かりますが、中央部には鎖が通され、一応の境界線が出来上がっています。

下から山頂を見た場合、登っている方は左側を通行しているのが分かります。

逆に下山する時も左側を通行しているのが分かります。

これはもはや車道と同じ要領で考えると良さそうです。

ちなみに神道には左側が良しとされるルールがありますので、左側を通行するのはご利益の効果云々を加味した場合、尚良しだと思います。

上る時

  • 後ろののめりにならないように注意!
  • 足元に不安のある方は鎖の手スリや両はしの石の手スリに摑まりながら進むべし!
  • 女性の場合はスカートの丈に注意!勾配があるので下からだとスカートの中身が丸見え普段ばきのイチゴパンツでは恥をかぃちゃぅ。 野郎は‥あラッキーラッキーラッキーラッキーぃぃぃっ!!!
  • 夏時期は薄着になるので、女性はカシュクール、深Uネック・Vネックなどの胸元の広い服を着ていたら‥‥降りてくる人に上から谷間が見えちゃぅあ、見ようとはしてないから!

  • 途上、中央付近で今まで登ってきた道中を確認しようと‥‥おそるおそる後ろを振り返ると‥‥どエライこっちゃでどないしまんねん状態になって恐怖心が増す。特に高所恐怖症の人は振り返らない方が良い。

降りる時

  • 階段一段の面積(踏み面)が意外に狭く感じる。中には横向きの姿勢で降りる方もいるほど。
  • 足をすべらさないように注意!階段は1日にたくさんの人が昇降するとはいえ、端の方へ行くと苔むした部分もあるので要注意!スベると本当に下まで豪快に滑り落ちてしまぅ。
  • これは上がる際にも言えることだが、ヒールやクロックスなどのカカトのない靴では難がつきまとうので避けた方が無難。靴はスニーカーなどの動きやすいものが良い。

真ん中は神さまの通り道?中央を通って大丈夫??

よく参道の中央は神様が通るのであまり歩かない方が良いという俗信がありますが、愛宕神社の階段は急勾配に位置付けられる上、段数が86もある階段なので、無理をせず、安全性を確保することが先決です。

中央の鎖はそのためにあるものなので、無理をせず、中央の鎖を掴みながら進むことをお勧めしておきまする。

江戸時代・天保年間(1830~1844)は68段だった?!

江戸名所図会には、天保年間の愛宕山の様子を書き記した次のような記述がみえます。

そもそも当山は懸岸壁立(けんがいへきりゅう)して空(くう)を凌ぎ、六十八級の石階は、畳々(じょうじょう)として雲を挿(さしはさ)むがごとく聳然(しゅうぜん)たり。
山頂は松柏鬱茂(しょうはくうつも)し、夏日といへども、ここに登れば、涼風凛々として、さながら炎暑をわする。
見落ろせば三条九陌(さんじょうきゅうはく)の万戸千門は、甍(いらか)をつらねて所せく、海水は渺焉(びょうえん)とひらけて、千里の風光を貯へ、もっとも美景の地なり。

これによれば”86段”ではなく、”68段”であることが分かり申す。

【補足】現代訳

空をも突き抜けるような切り立った崖が壁のようにそそり立ち、幾重にも重なる68段もの階段は雲を間に挿しこみながら天高くそびえるようだ。
山頂は松などの緑葉樹が生い茂り、真夏日でも絶えず涼風がそよぎ、夏の暑さも忘れることができる。
見下ろせば江戸八百八町と東京湾が一望できる、景勝地なり。

※江戸時代の東京湾は”内海”、”裏海”、”江戸前の海”などと呼ばれていた。当時の人々は房総半島と三浦半島に囲まれた「湾」という認識がなかった。ペリー来航の江戸時代後期に「江戸湾」と呼ばれるようになり、明治維新後に現在の「東京湾」に着地。

出世の階段の見どころ

出世石段祭り(隔年)

愛宕神社では、この平九郎の故事にちなみ、約2年毎の9月23日に「出世の石段祭り」が斎行されます。

かつては観覧客が見守る中、馬で駆け上がる祭典だったようですが、現在では馬の代わりに神輿を男連中が担ぎ上げて境内まで登っています。

なにせ急角度なので、神輿に変わってもスリリングさは変わらず、観覧客は途中で落とさないかとヒヤヒヤしながら見守ります。

出世の階段を上った者だけが味わえる!愛宕山山頂からの眺望と達成感!

現在は周辺に高層ビルが林立し、かなり見えづらくはなっていますが、望遠鏡片手に頑張れば、愛宕山山頂から東京湾、果てはその向こうの房総半島までを見渡すことができるとも言われます。

特に出世の階段は昇る時に体力を消耗し、シンドさを身体全体で味わえますが、その分、昇りきったときの達成感は何ものにも代え難いほど。

昇りは途中の50段くらいまでは何とかサクサクと進めるのですが、50段を過ぎたあたりから、腿筋が張ってきて足を上げるのが少々、辛くなってきます。

これは階段の傾斜もさることながら、階段1段の高さ(蹴上)も高さがあるので、相乗効果で余計に苦しぃのです。

例えるなら、雨降った日に「よっしゃ!部活休み♪」‥‥と、喜んでいた矢先、急に屋内練習開始で集合、その後、電気椅子を命じられ、その真っ最中のような感じ。どんな感じや

夏であれば、全身から汗が噴射した状態で山頂へ到着し、この状態で「あたご茶店」へ行って、かき氷やビールをコノヤローなほど流し込むワケです。コぉ〜イツがまた、ウメぇのなんのって。ふぇっへっへっへっふぇぇ〜‥‥。アンタ誰や




不安な方は隣の女坂へ!足元に不安がある方はエレベーターもあり!

愛宕山のエレベーターの場所は下記ページにて詳しく述べています。

出世の階段(男坂)のご利益とは?

愛宕神社自体は「火伏せの神」として知られていますが、出世の階段は「出世」という名前が付くように古来、登りきって山頂にたどり着くことで「出世」のご利益が得られるとされています。

これは後述する「曲垣平九郎(まがき へいくろう)」が行った行動とその後の一連の事柄が由来となっています。

愛宕神社は東京都心のオフィス街に位置することもあってか、正午〜13時までの昼休みの間には出世の階段を登るビジネスマンやOLの姿も散見されまする。

上述した内容をよく見て、無理のない範囲でぜひ!あなたもチャレンジしてみてくだすわぁぃ。

出世の階段を下ると出世運が下がる?

どうやら出世の階段を下ると、出世運が下がるという俗信もあるようでゴザりんす。

理由はお分かりになりますかぃ?

これは出世とは昇り詰めていくものと認識されていることから、降りると逆に出世運が下がると考えたのでしょう。

ただ、神社の方にお聞きしたところ、そんなことはないですよと仰っておられました。

もし気になるようなら、帰りは隣の女坂を使うか、NHK放送局の後方にエレベーターがあるので、そちらを利用すれば良いでしょう。

火難除けのご利益倍増か!「火伏せの神」であるに加え「火事の見張り所」だった事実!

なんでもこの愛宕山は一区画だけコン盛りと山になっていることから、江戸八百八町が程よく見渡せたそうです。

そんなことから、火事の見張り番所としても機能していたとのこと。

もともと愛宕神社の神は火除けの神として知られていながら、さらに火事の見張り場所として活用されていたのであれば、その相乗効果におよって、こと火除けのご利益に関しては凄まじい信仰があったことが想像につきます。

「出世の階段(男坂)」の名前の由来と曲垣平九郎伝説

なんでも2代目将軍・秀忠公の命日詣に近隣の増上寺へ参向していた3代目将軍・家光公は、この石段の前に来た所で急に立ち止まるように指示したそうです。

理由は、ちょうど山頂に枝ぶりの良い満開の梅が見えたからだそうですが、その直後、「誰かあの梅を騎馬にて取ってまいれ」と告げたそうです。

しかし、家臣一同、急勾配の坂(石段)の前に誰も手も足も出ずに四苦八苦していた所、突如、1騎の騎馬が石段を駆け上がり、たちまちのうちに頂上までたどり着き、見事、梅を手折って家光公に献上したそうです。

家光公は、たいそう大喜びし、その者の名前を尋ねると「曲垣平九郎(まがき へいくろう)」と言い、「この者、天下一の馬術の名人なり」と褒め称え、小太刀を褒美として取らせたとのこと。

実はこの梅は本殿の前に現存しており、この故事があってか「曲垣平九郎手折りの梅」もしくは家光公にちなんで「将軍梅」とも呼ばれ、現今に至るまで語り継がれています。

一方でこの石段の方もこの一件以来、曲垣平九郎が出世したことに因んで「出世の階段」と呼ばれるようになったとのお話です。

以上、この話は「馬術の三代名人」を讃えた有名な講談・「寛永三馬術」でも紹介されています。

「寛永三馬術」とは、ここでご紹介した曲垣(まがき)平九郎と、他、向井蔵人、筑紫市兵衛の2人を加えた3人の馬術の名人を主人公とした連続物の読物のこと。




ところで‥‥「曲垣平九郎」とは?

この人物は謎が多く、生没年不詳とされていることからも推察できるとおり、その存在性すらハッキリしていません。

言い伝えによれば、名前を「曲垣平九郎盛澄」と発し、出身は讃岐(さぬき)国(香川県)高松。丸亀城城主・生駒壱岐守高俊の家臣だった模様。ちなみに同藩内でも調馬の名人として広く知られていたとのこと。

寛永11年のこと、平九郎は藩主に随行して江戸の館に滞在した折、家光公の増上寺参詣に藩主と共に随行します。

参詣後、愛宕山山頂に咲き乱れる源平の梅を見た家光公が突如、手綱を引いて馬を止め、山頂の梅を手折って持ち帰るように家臣に命じます。

その後の話は前述のとおり。

ちなみに、この当時はキッチリとした出世の階段の段数が分からなかったのか、それとも大げさに誇張じみて言ったのか、『”二千段に余る石段を持つ”愛宕山』などと呼ばれていたようです。

この後1640年に生駒家が御家騒動(生駒騒動)によって高松から追放処分になると、今度は越前国(福井県)の松平忠直に仕えたとのこと。

しかし、忠直も罰せられることになり、その後は浪人となり、以後の消息は不明となっています。

曲垣平九郎伝説は本でも紹介されている!

曲垣平九郎以外にも出世の階段を馬で登りきった人物いた?

実のところ、愛宕神社の社伝によれば、曲垣平九郎以外にもなんと!過去に馬で石段を駆け上がるのに成功した人物が3人もいたようです。

  1. 明治15年:石川清馬
  2. 大正14年:岩木利夫
  3. 昭和57年:渡辺隆馬

石川清馬

石川清馬は仙台藩で馬術指南役を務め、廃藩後曲馬師をしていた人物。1882年、師の四戸三平が挑んで果たせなかった出世の石段登頂を自らが成功させた。

これにより石川家は一橋慶喜(徳川慶喜)より葵の紋の使用を許されたとな。オホ

岩木利夫

岩木利夫は参謀本部馬丁だった人物。馬丁(ばてい)とは馬の世話人のことを意味する。

1925年11月8日、愛馬「平形」の引退記念として挑戦。上りは1分ほどで駆け上がったが、下りは45分かかったとのこと。

この様子は愛宕山頂、愛宕神社と同じ敷地にある「東京放送局(現・NHK放送博物館)」によって中継され、観衆もこの様子を見守る中、無事に成功を勝ち取った。なお、この中継は日本初の生中継だった。

観覧客まで熱狂のあまりヘトヘトに気疲れしてしまうほどだった模様。

このニュースは昭和天皇の耳にも入り、すっかり名馬のお墨付きをもらった平形は、その後も陸軍騎兵学校の将校用乗馬としての人生を謳歌した‥‥よぅだっ!ホホっ

渡辺隆馬

渡辺隆馬は馬術のスタントマンだった人物。

1982年、日本テレビの特別番組「史実に挑戦」において、おそらく歴代最速級となる32秒での登頂に成功。

列島の広範囲に向けて放送される番組という観点から、安全網や命綱、保護帽などはシッカリかりかりカリカリ梅…酸っぱ!‥‥くらいなどほどシッカリと着用し、安全策を万全にした上で実施された。…..。

なお、愛宕神社境内では、男坂を馬で上下するのに成功した方々を絵や写真を見ることができます。ぜひ!

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