芝離宮恩賜庭園ってどんな特徴の庭園?見どころ(楽しみ方や回り方)など

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旧芝離宮恩賜庭園【特別名勝】

開園年月日

1924年(大正13年)4月26日

特別史跡・特別名勝 登録指定年月日

1979年(昭和54年6月25日)

開園面積

43,715.36平方メートル(平成27年7月1日現在)
※約13223.9坪
※約28239.86畳(江戸間)

開放公園は1,139.96平方メートル)

庭園様式

大名庭園(回遊式庭園)

運営者

東京都公園協会

園内施設・遊具

売店、弓道場、児童公園、トイレ

「旧芝離宮恩賜庭園」の読み方

「きゅう しばりきゅう おんし ていえん」と読みます。

「恩賜(おんし)」の意味

恩賜とは、直訳すると『天皇・主君から賜ること』『天皇・主君から賜ったモノ』を意味します。

すなわち、『天皇より賜った浜離宮庭園』という意味合いになりんす。

【補足】東京23区内の恩賜公園一覧

東京に来て思うのが「恩賜」と名の付く公園や庭園が異様にに多いという事実。恩賜が付くの公園や庭園は規模が大きいので初めて東京に来た人は迷うのでは?

東京にある恩賜と名の付く公園や庭園を一覧形式で列挙すると以下のようになります。

恩賜公園

上野恩賜公園(東京都台東区)/1924年、東京市へ下賜
井の頭恩賜公園(東京都武蔵野市・三鷹市)/1924年、東京市へ下賜
猿江恩賜公園(東京都江東区)/1924年、東京市へ下賜。
有栖川宮記念公園(東京都港区)/1934年、高松宮より東京市に下賜。
恩賜箱根公園(神奈川県箱根町)函根離宮跡地(関東大震災にて倒壊)/1946年に神奈川県に下賜

恩賜庭園

浜離宮恩賜庭園(東京都中央区、有料)/1945年、GHQの要求により東京都に下賜
旧芝離宮恩賜庭園(東京都港区、有料)/1924年、東京都に下賜。

参照先:ウィキペディア.org

旧芝離宮恩賜庭園の園内MAP(地図)

 

芝離宮恩賜庭園の出入口は1つ!

正門

最寄駅
  • JR東日本 浜松町駅(京浜東北線or山手線)徒歩1分

旧芝離宮庭園の所要時間と回り方・モデルコース

旧芝離宮庭園の所要時間は公式によれば平均30分です。

御朱印スタッフが訪問した時は40分くらいかかっていますが、芝離宮庭園へ訪れる目的としては、ほぼ庭園を鑑賞するのがメインだと思われますので約40分あれば充分に回れます。

所要時間30分〜40分コース(車イスも可能)

藤棚→ 雪見灯籠→ 砂浜→ 梅林など→ 大山→ 枯滝→ 石柱→ 西湖堤→ 中島→ 九尺台→ 大島→ 根府川山→ 唐津山→紫陽花などの四季の花を観覧→ 海水取り入れ口

所要時間15分コース(車イスも可能)

藤棚→ 雪見灯籠→ 枯滝→ 石柱→ 西湖堤→ 中島→ 海水取り入れ口

注意点

現在、中島から対岸へ架橋された木橋(八つ橋)は老朽化のため通行禁止になっています。

したがって大きく迂回することになりますので予想以上に所要時間がかかる可能性がありんす。

旧芝離宮恩賜庭園の特徴や見どころをご紹介する前の最低知識

この旧芝離宮恩賜庭園は、時代を下りながら所有者が幾度となく変わっており、さらに敷地の拡張や工事が成されたりと一番最初に作庭された当初とは、随分と景観が異なっています。

その上で最低限、知っておいていただきたいのが歴代の所有者です。

庭園は所有者の趣向が色濃く反映されることから、現在見ることのできる芝離宮庭園はそれら各所有者の創作意図や時代背景が凝縮されるように形作られていると言っても過言ではありんせん。

したがって初めて当庭園が造られた江戸時代後期から少しずつその姿を変えています。

そういう意味合いでは作庭当初の面影は薄くなったといえます。

以下に歴代の所有者をご紹介しておきますが、これより以下の文章では〜の所有者時代などのような文言が度々、登場しますので予め予備知識としてド頭に叩き込んでおいていただけると理解がすすみ易いものとなりんす。

芝離宮庭園の歴代所有者

年代 所有者 使用用途
庭園になる前(1678年/延宝6年)以前 徳川将軍家 将軍家の鷹狩りの場所
作庭当初(1678年/延宝6年) 大久保忠朝(肥前国 唐津藩主)のちの将軍付き老中
※肥前国=佐賀県、長崎県(対馬市・壱岐市除く)
上屋敷
1818年(文政元年) 堀田家(堀田正功)※相模守/佐倉藩主 上屋敷
1823年(文政6年) 清水徳川家(徳川斉明/なりのり)※御三卿
◉御三卿=田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家
下屋敷
1846年(弘化3年7月) 紀州徳川家(徳川斉彊/なりかつ) 下屋敷(芝屋敷)
1872年(明治5年) 有栖川宮邸(熾仁親王の邸宅)福岡県知事・県令 邸宅
1875年(明治8年) 宮内省所管 非常御立退所(非常時の避難場所)
1924年(大正13年)1月 東京市 観光庭園

上屋敷とは、藩主やその家族が生活する邸宅を指す。

下屋敷とは、主に上屋敷へ運ぶための荷物の荷揚げ場もしくは、荷物を一時保管するための蔵が備わった屋敷のこと。下屋敷は参勤交代で藩主が江戸に滞在した際、国元からの荷物(米、食べ物、生活用品など)を荷揚げする場所として使用された。

他に中屋敷という部類もあるが、本項では割愛する。

旧芝離宮恩賜庭園の草創

この旧芝離宮恩賜庭園は1678年(延宝6年)に時の老中・大久保忠朝(ただとも)が、4代目将軍「家綱公」から芝金杉の土地「1万378坪7合5勺」を拝領したことが起源となりんす。

◉1万378坪7合5勺=「364888,69㎡」「235716,21畳(江戸間)」
◉東京ドームの面積=4万6,755

そもそもの当地の成り立ちは、江戸の人口増加により溢れ出たゴミを廃棄する形で造成された埋立地でした。

南・北・西の三方が海に囲まれ、東側には石垣が置かれ、波が押し寄せるなどしていた陸地からは独立した土地だったのです。

また、埋立地となった当初は徳川将軍家の鷹狩りの地として、雑草や木が生い茂った野原でした。

この土地を上述、大久保忠朝が拝領し、自身の趣向を加えた意匠の庭園を創作。その庭園に「楽寿園(らくじゅえん)」という名前を付けたのが当庭園の草創です。

⬆️1849年頃の江戸古地図(芝愛宕下絵図)『紀伊殿』と書かれた所が現在の芝離宮。緑の枠は浜離宮。l ※引用先:芝離宮庭園パンフレットより

旧芝離宮庭園に園内の様子と見どころ各所

入口(正門)

現在の芝離宮の出入口は1つだけです。

アクセスもご紹介していますが、旧芝離宮庭園を訪れる際はJR浜松町駅が最寄り駅です。

羽田空港へ行くモノレールの乗り場とは反対側。北口(新橋寄り改札口)に出ます。

以下、案内看板や紹介看板を事前に閲覧しておくことで入園するかしないかを選択できます。

注意事項の立て看板

芝離宮恩賜庭園内でしてはいけないことなどの注意点が記載されています。

芝離宮恩賜庭園の紹介立て看板

芝離宮恩賜庭園とはどんな庭園か?を立て看板で紹介しています。

公園

なんとぉぅっ!芝離宮の入口の前は「旧芝離宮恩賜庭園 児童公園」という名称の公園になっています。ごく普通のそこらに転がっている公園なので誰でも利用ができます。公園て転がんの?

現在の入口には江戸時代、貸し舟屋があった

江戸で刊行された初めての江戸地誌(主に名所案内誌)「江戸雀」によれば、往時はこの出入口付近に貸し舟屋があったことが記されています。

なお、現在の入口は新設されたものであり、旧入口は現在の線路(JRの敷地内)にありんした。

⬆️出入口を反対から見た写真

入園受付(庭園管理事務所)

芝離宮の入園受付は庭園管理事務所になっています。ここで園内の入場チケットを購入して園内へ入場できます。

園内に売店はありんせんので、ジューしゅをガブガブと胃袋めがけてシコ流ししたい方は受付脇に設置されている自販機を利用ください。夏い暑時期のオススメはグビグビとガブ飲みできる「冷たい紅茶(ストレート味)」よ。

藤棚

現在の藤棚ががある場所は、大久保家上屋敷時代に当主の居室、離宮時代には迎賓用に建てられた洋館の大広間だった場所です。

⬆️藤棚内のベンチから潮入の池を望む

毎年、4月下旬頃になると連なるように紫色の花弁を開花させた藤が見れます。藤の花弁の匂いに包まれながら、優雅で上品なひと時を過ごすことができるでしょう。

洋館の遺構

⬆️明治初期に撮影された写真(明治23年以降) ※芝離宮パンフレットより引用

かつて藤棚のあたりには明治23年に建てらた洋館があった場所であり、現在では残されたレンガの基礎と植物模様の彫刻が施された大理石の一部が残されています。

大正12年に起こった関東大震災にて敷地内の建物すべてが灰燼に帰し、その際、この洋館も往時の面影を残すまでもないほどに破壊されています。

⬆️関東大震災後の更地に近い状態の芝離宮庭園 ※芝離宮パンフレットより引用

藤棚付近に見える下掲のタマゴ型の手水鉢はその遺構の1つでしょう。

⬆️タマゴ型の手水鉢

⬆️大正初期の鳥瞰図 ※芝離宮パンフレットより引用

潮入の池(大泉水)

⬆️園内築山の大山より撮影

芝離宮恩賜庭園のメインと見どころとなる約9000㎡もの広さを持つ池です。ウフ

中央に見える2つの島「浮島」と「中島」を用いることで、海もしくは湖を表現しています。

潮入りの池の名前の由来は、「潮」という名前からも想像がつくように作庭当初は、海水が取り入れられて池水として利用されていたのです。

現在、弓道場の脇に使用されていない水路跡がありんすが、この水路こそがかつて海水を引き込んだ水路になりんすよ。

海水には潮の干満作用があるため水位が変化し、往時は日々、異なる景観の庭園が観れたのでしょう。現在は水路は完全に閉ざされ、池水は雨水になっています。

よって水質は淡水です。

この当時の江戸では隅田川あるいは品川の海岸に接する庭園は、海水を池水として引き込むことで、海水の干満作用を景観に活かすことが可能になり、やがて「大名庭園」と呼ばれるようになると、その名前は全国へ伝播することになります。

こうして全国各地でも「大名庭園」が作庭され始めるのです。


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州浜(すはま)

この州浜には玉栗石が敷き詰められていることからも想像できるように、潮の干満効果を活かした美しい景観が見られる場所であり、もっとも計算して造られた箇所の1つです。

その玉栗石のど真ん中に歪な形をした「雪見灯籠」と呼ばれる古めかしい石灯籠が置かれていますが、その先に小島が見えます。

大久保家上屋敷時代の絵図面を見れば、大久保家の上屋敷だった頃はこの小島と州浜とは繋がっていることから、おそらく往時は潮の干満によって現在のように水が貯まる(満ち潮)と島になり、水が干上がる(引き潮)と陸続きになったのでしょう。

玉栗石が配されている部分は「州浜」と呼べますが、砂ではなく、あえて小石(玉栗石)を敷き詰めていることからも分かるように水位の浅い浜が続いているわけではありんせん。

この州浜周辺の石組みを観れば何となく合点がいくのですが、これはおそらく入り浜の背が傾斜していることから、急流が海に流れ込んでくる様子を表現して造られていたと考えられます。

つまり、少しずつ州としての景観が整ってくる様子をイメージしたものと考えられます。

州浜の灯籠(雪見灯籠)

上記の内容からして察することができるように、大久保時代に干満効果を活用して島や陸となるように計算され尽くして造られた場所に、あえてそのど真ん中にこのような巨大な景観を損なうような雪見灯籠が立っているのは少し違和感が残ります。

この違和感はあながち間違いではなく、おそらくこの灯籠は離宮時代に置かれたものなのでしょう。

蒲(ガマ)

玉栗石に目がいくあまり、あまり目がいかないのが州浜に生えている草。この草は蒲(がま)という多年草であり、植栽されているものです。都内ではガマが見られる公園&庭園は現今の環境下、屈指といえるので、たかが草ですが貴重といえば貴重です。

なお、蒲は淡水植物であることから、海水が採り入れられていた当時には植えられていなかったものです。

さぞかし庭園を一望できるようなスッキリきりキリとした景観だったのでしょう。

大山(おおやま/築山)

州浜をさらに進むとやがて眼前に大きな築山が見えます。山頂付近に大きなケヤキが生い茂っているので目につきます。

ここは園内でもっとも標高の高い場所であり、それゆえ、ここから観る景観、特に中島の石組みの見栄えは見事に映えます。

 

現在では困難ですが、往時は房総半島、筑波山、富士山も見えたようです。また、足元にある西湖堤を眺める角度も絶妙ともいえます。

⬆️大山から中島および西湖の堤を望んだ所。現在は松が手前に植栽されているので見えづらい。

この大山の右手西南方向にはいくつかの築山がありんすが、その築山があるので向こう側の景色は見えなくなっています。

これらの築山の場所には、かつて山崎勘解由の屋敷が建っていたところであり、大久保家上屋敷時代には家臣団の長屋が軒を連ねていた場所でもありんすよ。

すなわち、これらの築山が築かれたのは清水家時代か紀州家の時代になりんす。

大山から楽しめる眺望

⬆️北東・芝生広場を向いた景観

⬆️南西・弓道場を向いた景観

⬆️南東・入口(庭園管理事務所)を向いた景観

⬆️東・芝生広場を向いた景観。梅林が見える。

⬆️北西・庭園端を向いた景観

⬆️東・石柱or休憩広場(旧馬場)を向いた景観

築山群へ至る道

江戸時代にはまだ四神相応の思想があり、西南方向に山を築くと西南の守護神たる白虎の道を塞いでしまうとして忌がられたのか、築山の間を縫うようにいくつもの小道が配されているのが分かります。

これは道さえ通じていれば白虎が通れるという考えに基づいたものなのでしょう。

砂浜

砂浜の周域はほとんど直線状になっていますが、大久保家上屋敷時代にはこのたりにモミジや桜が植栽されていた場所です。

しかし砂浜にモミジや桜が植えられているというのも少し変ですが、この砂浜は清水家&紀伊家時代に造られたものと考えられています。おそらく、その背後にある大山とその隣の築山、それに大石群で組まれた枯滝の石組みの関連で設けられた美景観を構成するための主要素とみられています。

⬆️砂浜と蒲(がま)が茂る様子が見える。

枯滝の石組み

枯滝の石組みは、芝離宮庭園最大の見どころでもありんすよ。

しかしながら、この枯滝は大久保家上屋敷時代にはなかったものであり、当時は家臣団の長屋が建っていた場所です。

岩を屏風のように見立てて左右の岩を交互に出張らせ、奥の岩をさらに奥行き深いものに見せる視覚的な工夫が凝らされてているのが分かります。

おそらくこの奥の岩は落下する滝を表現しているものと考えられます。

この枯滝の大きな特徴は河床(川の底部分)を通路としても活用し、人が通行できるようにしてるところです。

⬆️枯滝を上から見た所。河床が通路になっていることが分かる。

臥龍橋跡

⬆️往時はこの部分に石橋が架橋されていた

往時はこの河床の通路の途中に隣の築山とを繋ぐ、「臥龍橋」と呼ばれる橋が架橋されていたらしいのですが、実は、その確たる場所は判然としておらず、見たかぎり本当に橋があったのか疑いたくなりんす。

ただ、概ねこの場所だと推察できる場所(跡)がありんす。

ちょっと大山まで戻って山頂まで一度登ってみてくださいな。

そこから隣の築山方向に向かう石階段があるので、それを降りて行った先に柵が立てられていますが、一見すると落ちないようにするための柵に見えますが、この柵の先を見ると隣の築山まで行けることが分かりんす。

一方、逆の築山側へ回り込むと下掲写真↓のような橋の土台が見えます。

⬆️橋の土台が見える。

おそらくこの柵の向こうに石橋、つまり、「臥龍橋」が架橋されていたのでしょう。

あぁ、くれぐれも覗き込んだ際、下に落下することがないようにご注意ください。

謎の4本の石柱

枯滝からさらに少し反時計回りに進むと、やがてイヤでも視界に入ってくるのが、謎の4本の石柱です。

現在、この石柱の前には、そのまんま「石柱」と書かれて由緒が紹介されていますが、往時は「駒つなぎの石」と呼ばれていたそうです。

看板にはこのように書かれています。

石柱

この石柱は小田原北条家に仕えた戦国武将の旧邸から運ばれた門柱です。ここが小田原藩(大久保家)の上屋敷であった当初、茶室に使われていたといわれています。

ただ、大久保家上屋敷時代の絵図にはこの石柱は載っておらず、この石柱の場所には石柱ではなく松などの樹木が数本、植えられていたり、石塔が建てられているのが見えるのみなのです。(この石塔は今はないとのこと)

実はこの石柱、一時期「鎌倉石」とも呼ばれており、なんでも鎌倉から運ばれた石であることから「鎌倉石」と名付けられたようです。

しクぁし!、1840年頃に小田原藩士「三浦義方」が編纂した「相中雑誌」から次のような記述が見つかり、物議を醸すことになりんすよ。

かつてこの場所には北条家家臣・松田尾張守憲秀の屋敷だった。その松田家の屋敷へ通じた小路の入口には門があった。

この門には石柱が建てられ、大久保家の時代になると将軍・綱吉公が御成りの節のために建てた富士見の御茶屋の柱にした。

‥と、まぁ以上のように、この石柱の正体が明らかにされたのですが、松田憲秀といえば代々、北条家を支える家老の家柄であり、大名並みに厚遇された格式を持つ家柄でもありんす。

だとすればこの石コロkoroころドコ行った‥は、1500年代から当地にあるものと推察されます。

だた、大久保家時代の絵図面にはこの石柱のことが書き記されておらず、それが唯一、腑に落ちないのですが、一説によれば大久保家時代に「ビードロ茶屋」という茶室がこの石柱がある付近に建っており、そのビードロ茶屋とは、往時の富士見の御茶屋のことではないのか?‥などと、考えられています。

つまり、その茶屋に石柱が使用されていたために絵図には当然、記録されなかったということでやんす。ウフ

⬆️石柱の手前の池畔には夏になると開花した紫陽花が観える


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馬場跡・馬見所

馬見所跡

上述、大山を南東方向に降りた池畔まで行くと園路に突き当たりますが、この場所こそが往時は馬見所があった場所であり、その手前となる池畔の遠路に平行する形で細長い馬場があったのでしょう。

馬見所とは、屋敷の主人が家臣たちの乗馬の技術などを観覧するための建物のことでありんすよ。離宮時代の記録によれば9畳と6畳の2間の建物だったようです。

馬場跡

⬆️実はこの写真は11月中旬頃のもの。上掲写真が8月中旬頃なので比べると紅葉で落ち葉が多いことが分かる。

石柱の南側の池畔には大久保家上屋敷時代以降、馬場が築かれ、明治初期頃まであったようです。

馬場とは主に馬術を披露したり鍛えたりする場所のことです。

芝離宮庭園は江戸式大名庭園だったので、庭園内に武家の庭園らしく馬場も設けられています。

西湖の堤

「西湖(せいこ)」とは、神田沙也‥おっと、中国杭州城の西側!!‥に広がる湖のことです。…ふぅ

古来、中国の詩に数多く登場することからも分かるように、たいへん風光明媚な場所として知られています。

⬆️噂の本場中国の西側。‥なんて澄みきっているんだ‥オホオホ(興奮しずぎて得意技の”オホ”2発)

家康公は学問好きで知られていますが、中でも中国の孔子の儒学に魅入られ、それに端を発してか歴代の将軍も先君からの中国思想を踏襲し、やがてそれが広まると江戸時代に中国信仰なるものが生まれます。

特に大久保忠朝の主君であった将軍・綱吉公は自らが教鞭を取り、儒学の講義を行うほど儒学に心酔していたと言われます。

その中国信仰があったことを物語る遺構となるのが、この西湖堤です。

当時の人々は中国の西湖を崇拝すべき神聖な場所として位置付けていたのでしょう。

西湖堤とは、蘇東坡(そとうば/の詩人)が西湖の西側に約2㎞もの長堤を築いた堤のことです。この堤は湖を外湖と裏湖とに隔てたことから船が通行するための太鼓橋が架橋され、その後は「蘇院六橋」と呼ばれるようになります。

さらに時代が下ると、「蘇院」と呼ばれていることから、厳密には「蘇院」と呼ぶのが正式と言えばそうなのでありんすよ。

ちなみに、このような西湖堤を採り入れた庭園は全国にいくつか存在し、同じ東京では小石川後楽園、名古屋では徳川園、縮景園(広島)などがありんすよ。

西湖の堤からの眺望

⬆️西湖の堤から潮入の池へ向けた眺望

⬆️西湖の堤から中島へ向けた眺望

⬆️石橋の部分。わずかに反りがあるので太鼓橋であることが分かるが、石橋での反り加工はさぞかし大変な作業だったであろう。

西湖の堤からは鯉が観れる!

西湖の堤は周囲が池なので、ここに来ると鯉がエサをもらえると思って寄り集まってきます。

注意点としてはエサやりは禁止です。また、鯉のエサも販売はしていません。

中島と石組み

西湖堤を渡るとその渡った先には「中島」という小島がありんすが、この中島は小さい島ながら、巨石が置かれ石組みが用いられています。

この島は通称で「亀島」とも呼ばれ、後述の浮島とセットで「鶴亀島」とも呼ばれています。

⬆️実際にこの池には亀もいる。日向ぼっこする亀たち。

この中島は中国の神仙思想における蓬莱山を表していると言われており、それを表現するために四方どの方向からでも綺麗に観賞できるように石が配されています。

西湖堤から島へ入る石組みは2つに分けられ、北西側の松が植えられた石組みが主を成し、南側の石組みを取り込んで見事なまでにそれらを表現しています。

しかしながら、大久保家時代には北西の石組みの頂に石塔が背の高い建てられており、現在はその台石だけ残されています。

つまり、大久保家時代とは景観が少し変わっていることになりんすよ。

そして台石の隣にもう1つ台石のような石が置かれているでありんすが、一説ではこの台石の上にも石造物が置かれていたと言われ、現在その遺構の一部が、馬場跡の資材置き場に置かれています。

石塔が移動された理由は今となっては判然とはしやせんが、斜めを向いて配されていたことから倒壊の危険性が懸念されたと考えられています。

 

⬆️中島の石組み。中島内部から観るとなんだかあまり迫力が無いような‥?やはりこの中島の石組みは中景くらいで観るのが抜群に映える。

⬆️根府川山あたりの池畔から観た中島くん

中島の景観

⬆️枝ぶりの良い松

⬆️謎の五輪塔?四重塔??それとも灯籠?屋根裏に垂木のようなものが見えるから塔か?

⬆️中島から大島を望む

浮島

⬆️中島から観た浮島。飛び石が見えることから往時は渡れたのであろう。

この浮島は通称で「鶴島」とも呼ばれています。

写真をご覧になれば分かるように「沢飛び石」が散見されることから、往時は干潮の時(潮がひいたとき)に浮島へ飛び石を伝って渡れたのでしょう。

また、石の数も現在よりも少し多かったようですが、国鉄(現JR)の拡張工事の影響で取り除かれた言われています。

つまり、石組みや沢飛び石の景観や配置は以前とは少し異なっていることになりんすよ。

木橋(八つ橋)

中島から向こう岸へ渡るための木造の橋ですが、途中で90度に屈折する意匠を醸しています。このような途中で屈折するような橋を「八つ橋」と呼びますが、大久保家時代は木造の反り橋でした。

およそ離宮時代からこのような八つ橋に取り替えられたとみられていますが、前述の蓬莱山思想に基づいた思想を持ち出せば、このような橋は似つかわしくないものです。

すなわち、往時はこの橋は無かったこととなり、本来の景観は損なわれていることになりんす。

四阿(あずまや)

中央に十字形に木造の椅子が設置され、四方は吹き放ち、瓦葺き・方形造り屋根の四阿です。

しかし、残念無念ながらこの四阿は東京都の管理下に置かれた後に設置されたものなので、比較的、最近になって造られたものでありんすよ。

この四阿を建てる際、適した建設場所を探すのにさぞかし苦労したであろう苦悩が頭に浮かんできます。そぅ‥、ここから見る景観、いずれも最高と呼べるものでやんす。

なお、園内では唯一の四阿です。入園受付より園内には売店もなければ自動販売機もありんせんので、胃袋へ飲み物をシコ流ししたい場合は入園受付(管理事務所)脇の自販機などで購入しておく必要がありんすよ。

四阿からは四季が見渡せる!

この四阿は池畔に建てられており、さらに後方以外の方向に背の高い樹木が植栽されていないことから潮入の池を中心とした芝離宮庭園の見どころとなる景色をほぼ見渡せます。

春には大山付近の桜、初夏は左手前の池畔のハナショウブ、秋には右手前のハゼの紅葉などが観れるようになっています。

⬆️右端に見えるのがハゼ。少し時期が早かった?のかまだ緑葉が残っている。

 

池とのセットで見る桜やハナショウブ、紅葉は、また一味違った趣が得られるでやんす。

⬆️四阿に腰掛けながら謎の石柱を向いた紅葉の景色

唐津山

上記、大島の鯛橋とは違うもう1つ橋を渡った先には「唐津山」という少し土が盛りがって、その上に石がいくつか無造作に置かれたような場所がありんすが、これが唐津山です。

無造作と感じられるのも、この石組みは往時よりも変形している可能性が示唆されています。

この山がいつ頃、当地に築造されたのかは不詳とされているようですが、1696年(元禄9年)にちょうどこの山の周辺が埋め立てられていることから、それ以降に築造されたものでしょう。

つまり、大久保家上屋敷時代か、清水徳川家・紀州徳川家時代のいずれかということになりんす。

⬆️唐津山を横から見たところ。手前にベンチがある。

この唐津山の石組みも1696年(元禄9年)以降に創造されたものです。

ところで「唐津山」と名前の由来は、想像がつきますかぃ?

これは大久保家の当主、大久保忠朝が藩主を務めた肥前国 唐津藩に因んだものと見てまず、間違いはないでしょう。

しかしながら唐津には「唐津山」という山などありんせん。

一説では、唐津を代表する山に「鏡山」という小山があり、この鏡山を唐津山としてモチーフとされたという説もあるようです。

小山ながら有名になっている理由は、虹の松原(現・特別名勝)を見下ろせる場所に位置し、さらに松浦佐用姫の伝説に登場する領布振土(ひれふるやま)として歌枕にもなっているほどの名山だからです。

唐津の人々は古来、声を揃えて「鏡山は霊峰・富士よりも高い」と言って自慢するのが流儀です。

したがって大久保忠朝が将軍付の老中として江戸勤めになり、故郷に哀愁を感じ、このような山を築造して「唐津山」と付したのか?もしくは後年に名付けたのか?‥などなど様々な説が囁かれています。

⬆️噂の鏡山から虹の松原を見下ろした全景 ..すばラッキー ※引用先:https://ja.wikipedia.org

※すばラッキー=「素晴らしい!」をはるかに超越した「素晴らしい」と言う意味。調子に乗っているヤツがよく使う言葉。…汗”

大島

上記、四阿から大山の方へ向かって池畔沿いを歩いて行くと大島という大きな島が見えてきます。

ただし、この島、あまりにも大きすぎて島だとは気づかないと思います。

現在、大島には2本の石橋が架橋されていますが、大久保家時代にはひょうたん形の堀になっており、つまりは完全な島ではなかったのです。

紀州家の時代に、ひょうたんの先端部分を陸地から切り離すように開削し、島へと改造されています。

⬆️溝が見える。この溝の上に2本の石橋が据えられているので確かに島になっている。往時は溝の奥が陸とつながっていた

大島からの眺望

⬆️大島から大山の方角を望む

両社の遺構

鯛石から大島へ向けて渡るとその両側に石が配されています。この石を石組みとして捉えるのであらば、岩山へ登ることを誘導しているようにも見えます。

そこからさらに進むとベンチ付近に2つの四角形の石が置かれています。

⬆️実は美少女格闘系のスマホゲームをしている(多分)。グラサンの人の前に四角い石が2つ見える

この石が両社の礎石と見られている石ころコロコロどこいった‥です。

往時はこの大島内に「両社」という神社が祀られ、鳥居がちょうどグラサンの人のあたりに建てられていたのでしょう。…平井堅?

そしてこの場所から、上述、謎の石柱に向かって橋が架橋されていたのです。


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鯛橋

そしてこの大島の南側の橋の形に注目したいのですが、この橋‥なんとぉぅ!魚の鯛(タイ)をしているじゃアーリませんか!!ウオっ(魚っ)! ついてきて

この橋は離宮時代に架橋された橋であり、紀州家の時代には沢渡り石が配され、その上を伝って大島に渡る仕様だったようです。

北側の橋は縦長の石が2つ置かれ、先端同士を合わせて八つ橋状の石橋に仕立てあげています。なかなかの意匠なので必見。

根府川山(ねぶかはやま)と石組み

鯛橋を渡ると力強く何かを訴えかけるような石組みが見えてきますが、この石組みの前面部分が根府川石の立石のある根府川山です。

ひいらぎ山

大久保家時代の絵図には中島の背後にそびえるようにして立つ山が描かれているのですが、この山が「ひいらぎ山」です。根府川石と思われる立石も2つほど描かれています。

上記、根府川山の裏山が、ひいらぎ山になりんす。

ひいらぎ山からの眺望

⬆️山頂から潮入の池を望んだところ

砲台跡と桜

園内入園受付から見て北西の隅には、根府川山のさらに奥には少し土が盛り上がった築山のような山がありんすが、この山の頂にはかつて砲台があった場所とされています。

ただ、職員の方も今となっては正確な場所までは分からないとのことです。

この砲台は1854年(嘉永7年)に配置されたものです。

その道中には、春になれば君の純白のか細い二の腕のようなそれはそれは美しい花を開花させるであろぅ桜が見えますが、この周辺は大久保家時代、「原(桜の原)」呼ばれていた場所です。もぅ、君ネタ限界か‥クっ 悲

九尺台

立て看板には「九盈台(きゅうえいだい)」とも書かれていますが、「九尺」とは、「九脚」とも書かれます。

明治天皇が有栖川宮家時代に行幸した際、この場所に立ち漁民たちが漁業を勤しんでいる様子をこの場所で観覧していることから、往時は波打ち際にこの高台があったことを物語ってます。

九盈台の「」とは、現在では使用されるケースはごく稀ですが、意味としては「水が満ちる」「月が満ちる」などの意味合いがありんす。

九尺台からの眺望

⬆️九尺台から管理事務所を向いた眺望

⬆️九尺台から潮入の池を向いた眺望

すりばち山

かつてこの九尺台付近に紀州家時代、「すりばち山」と呼ばれる小山があり、この山のふもとに「千両松」という松が3本植えられていたそうな。

大久保家時代の絵図にもこの山は描かれていることから、300年以上前から当地に現存していることになりんすよ。

なお、すりばち山を探したが見当たらず。トホホ

樋口(海水取り入れ口)

かつて東京湾の海水を引き込むために使用されていたとされる水路です。

この取水口は大久保家の作庭当初から当地にあるもので、池の東北端に通じていたと考えられています。

右手のポンプは池水が増えたときに排水する設備です。

⬆️鋼鉄製の柱のような水門の遺構が見える。現在は淡水だが往時は海水。

樋口(海水取り入れ口)からの眺望

⬆️樋口(海水取り入れ口)から大山の方へ向けた眺望

弓道場

この弓道場の北側に建つ塀が作庭当初以来、離宮時代までこの庭園の境目でした。

往時はこの弓道場やその後方に建つ海員会館の場所に蔵が建っていたのです。

⬆️内部の様子(※弓道場の内部は撮影禁止。写真はお借りしたものです)

小池と石橋

⬆️小池に架橋された石橋は2つある。

管理事務所前の藤棚の奥には小池と石橋がありますが、このあたりには園路の沿わせて飛び石が敷かれており、和風庭園のテイストを色濃く感じさせる箇所です。

飛び石の敷き方に様式はなく、玉栗石や短冊石を入れたりと、和風庭園でよく見かける筏打ちにも見えますが、特に深い創作意図はなく、園路に沿わせるに打っているだけのように見えます。

⬆️飛び石で敷石を打つ意匠が光る

⬆️飛び石の打ち方は園路に沿わせたもので特に様式は無いように思われる。

小池からの眺望

⬆️小池から潮入の池を望む。池中の石灯籠(浮灯籠)に目がいく。

⬆️もう片方の小池の石橋。わずかながら屈折させていることから八つ橋の意匠が見える


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お手洗い(トイレ)

男女のお手洗いがありまする。オムツの交換台もありまする。

 

園内にはこの一ヶ所しか無いので、大山の方まで行ってクソりたくなっても我慢に我慢を重ねるしかない。忍耐・根性!!

普段からケツ筋や忍耐力を鍛えておくと、こういう事態に陥っても普段通りのスタンスで大笑いしたり、瞬時にボケ&ツッコミも展開できる。なんの話や

【補足その1】石組みに用いられている石の種類

園内の石組みは当庭園を作庭した大久保忠朝の領地である小田原産の石が運ばれてきて使用されています。

使用されている石の種類は、護岸は富士山の溶岩である「黒ボク石」、上述した小池付近に敷かれている飛び石や中島、根府川石山、唐津山、滝跡の巨石石組群は「根府川石」が使用されています。

【補足その2】名前の無い築山が多い!

園内を歩いていて思うハズですが、根府川山のあたりに名前の書かれた看板が立てられていない築山もいくつかありんすが、ひょっとしたら名前があるのかも知れません。

これらの築山がいつ頃、築造されたかについては不詳とされていますが、現在までの考察によれば1822年に旧大久保邸を拝領した堀田家が火災に見舞われていることから、この後に焼け跡に築山を築造したという説が濃厚とされています。

【補足その3】築山には樹木があまり植栽されていない!

園内には上記のような名前のない小山がいくつかありんすが、小山には樹木があまり植えられていません。当庭園の創作意図として房総半島や東京湾を借景としたからでしょう。

それが顕著なのが九寸台や、スリバチ山です。浜離宮庭園にも同様のことが言えますが、これらを中景として、遠景の山々として溶け込ませるために樹木が植栽されなかったのが想像につきます。

【補足その4】園内の手水鉢と灯籠

園内には以下のような手水鉢(口手を清めるための鉢)が残されています。いずれも年代物なので、ぜひ、探してみてくだすわぁぃ。

手水鉢1

手水鉢2

手水鉢3

石灯籠1(浮灯籠)

石灯籠2

この灯籠は黒ずんで見えますが、これは震災で焼けたためです。藤棚の近くに置かれていますので、ぜひ、近くで見てください。

石灯籠3(雪見灯籠)

この灯籠は芝離宮の見どころの1つです。園内でもっとも目立つ場所に立ち、その風貌に圧倒されます。

 

シーサイド・トップ展望台からの真上からの庭園の景色!!

ここまででご紹介した芝離宮庭園の鑑賞方法は、古来、変わらずの人間目線においての観覧方法です。えっ?!それが当たり前だろ?‥などと思っちまぃやすが、なんとぉぅ!芝離宮庭園を真上から観覧できる観覧方法があるとすれば驚きますでしょうか?

実はあるんです。芝離宮庭園の全景をGoogleマップ以外で上空から観覧する方法が!芝離宮庭園を上空から見た写真がコレ!⬇️

いかがですか?

ちょっと上空すぎて何がなんだかサッパリぱりパリコノヤローなほど、分かりにくいという意見もあると思いますが、芝離宮庭園を見終わった後にでもこの場所へ立ち寄ってみてください。

おそらく、「あ!あの場所、こうなってたんだぁ〜!」などと、感動が倍増しますので!

ズバリ!この上空から芝離宮を見渡せる施設はドコかと言うと‥「シーサイド・トップ」と言う建物の40階に設けられた展望台からです。

この展望台は地上から約152メートルの場所に位置し、近隣の東京タワーと比較すると比べ物になりませんが、この東京湾に面した立地でこの高さからの眺望であれば十分な満足感が得られます。

芝離宮庭園で観ることのできる四季の花

花の名前
1月 ロウバイ、スイセン (を推薦)
2月 ウメ、ツバキ
3月 サンシュユ、ボケ (でボケて)
4月 ソメイヨシノ、里桜、ユキヤナギ、ハナカイドウ、西洋しゃくなげ、牡丹 (で服のボタンを作る)
5月 ツツジ、シラン、アヤメ、フジ、カキツバタ、サツキ
6月 紫陽花、インドハマユウ、シモツケ、ナデシコ、ハナショウブ、ヤブカンゾウ
7月 キキョウ、ヒメガマ
8月 サルスベリ、タカサゴユリ
9月 彼岸花、ハギ (萩原くんハギ買ってきて)
10月 キンモクセイ、コムラサキ
11月 ツワブキ、ヒイラギ
12月 ハゼ

芝離宮庭園で四季の花が観れる場所(MAP)

芝離宮庭園の四季の花はお隣の浜離宮庭園と比較した場合、見応えという部分にフォーカスすると見劣りするのは致し方のない事実です。

芝離宮庭園は石組みを用いた江戸式庭園の真髄を味わい、作者の意図に酔いしれるという趣旨の庭園だといえます。

旧芝離宮庭園へのオススメ来園時期

旧芝離宮庭園へのオススメ来園時期は春、初夏、秋です。

旧芝離宮庭園には、誇張できるほどの草花は植栽されていませんが、現在では四季が楽しめるように可能なかぎり四季の花や木が植栽されています。

春は大山の周辺でソメイヨシノ、入園受付前の藤棚では藤が見頃を迎えます。

初夏になると四阿付近の池畔にて紫陽花とハナショウブが見ごろを迎えます。

秋になると同じく四阿付近や芝生広場にでの紅葉が楽しめます。

旧芝離宮庭園に訪れての感想

当園へ来園する前に浜離宮庭園へ行ったせいか、敷地が少し手狭に思えた。したがって少し拍子抜けした感は否めないが、驚いたのはそれを覆すくらいの豪快且つ、迫力満点の石組み。

すぐ隣にある浜離宮庭園と当園の敷地面積を比較した場合、当園の敷地面積は浜離宮庭園の約6分の1であり、手狭に見えるのは致し方なしといったところ。

それと浜離宮庭園は庭園の鑑賞というよりは花の鑑賞やバードウォッチングなどの趣味が満喫ができる庭園と言った方がいい。

敷地が広いのでジョギングや読書、パソコンとお外でもインターネットが利用できるポケットルーターのようなものがあれば、園内の木陰でテレワークも可能である。

対して芝離宮庭園には巧みな石組みが用いられていることから、庭園の鑑賞をメインとした本格的な庭園と言える。芝離宮庭園には浜離宮庭園のようなお花畑や、実際に海水が取り込まれている潮入りの池がないので、花や鳥の鑑賞という部分でははるかには劣るが、江戸式大名庭園の代表的遺構とも言える豪快な石組みは大きな見所であり、当園の大きな特徴である。

実は当庭園に来園する前、ある雑誌を読んでから来園した経緯があり、その雑誌には浜離宮と芝離宮の職員の対応が素晴らしいと記載してあったのですが、まさにその通り、両園とも素人の味気ない質問にも丁寧に返答いただくなど、東京広しと言えど、これほど親切な対応をされる職員さんたちは少ないと感じた。

芝離宮庭園は現在のような美しい景観の庭園になっているが、その歩みを鑑みれば幾多の多難を乗り越えてきた歴史があり、そういった背景が職員間における風通しの良いアットホームな関係を形作り、庭園を愛する熱き闘魂を育んできたといえる。

実際にその結果が庭園の美観にも見事に反映されており、その美観こそが実りといえるのではないだろうか。頻繁に通う方の話によれば年々、キレイになっているという話も聞く。

近くの芝離宮庭園と浜離宮庭園を比較しての感想

芝離宮庭園から徒歩5分くらいの場所に「浜離宮庭園」という似たような庭園がありんすが、この庭園と芝離宮を比較してみた場合、以下のような事柄が述べられます。

浜離宮は趣味が満喫できる庭園

浜離宮庭園は庭園の鑑賞というよりは花の鑑賞やバードウォッチングなどの趣味が満喫ができる庭園と言った方がいい。

特にバードウォッチングに関しては海鳥と水鳥の両方の鳥を一度に観れる場所であり、これは都内屈指。

敷地が広いのでジョギングや読書、ピクニック、お外でもインターネットが利用できるポケットルーターのようなものがあれば、パソコンを持ち出して園内の木陰でテレワークも可能。

浜離宮庭園は緑と水に囲まれた癒しの庭園

浜離宮は自然が多いので都会の喧騒から逃れるには、うってつけ。何かと慌ただしい日常の喧騒から離れることが可能であり、週末にもなれば、読書や日光浴、ジョギングをするために入園料をわざわざ支払って訪れる来園者もいる。

まぁ、このような公園に行く感覚で利用する来園者は年パスを購入しているんだと思うが、付近に在住なのであれば年間わずか1200円(一般の例)なので、年パスを購入しておくのもオススメ。

芝離宮庭園は庭園鑑賞を味わう趣旨の庭園

対して芝離宮庭園には巧みな石組みが用いられていることから、和風庭園の鑑賞をメインとした本格的な庭園と言える。芝離宮庭園には浜離宮庭園のようなお花畑や潮入りの池がないので花や鳥の鑑賞という部分でははるかには劣るが、江戸式庭園の代表的遺構とも言える豪快な石組みは大きな見所であり、当園の大きな特徴である。

旧芝離宮恩賜庭園の住所・営業時間・定休日・電話番号など

  • 住所:東京都港区海岸1丁目
  • 営業時間(開園時間):午前9時〜午後17時まで(最終入園は16時30分まで)
  • 定休日:年末年始(12月29日〜1月1日)
  • 電話番号:03-3434-4029
  • 公式URL:https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index029.html

旧芝離宮恩賜庭園のコロナ対策

以下、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止のため、当面の間、休止しています。

  • ボランティアによる庭園ガイドの案内
  • 外国の方を対象に、英語による庭園ガイド(無料)
  • 弓道場利用利用可能時間 9時~16時【7月1日より】
  • 弓道場更衣室の利用不可
  • 紅葉めぐりスタンプラリー2020は中止

園内の常設設備など

  • コインロッカーはないけど、入園者限定で入園受付にて手荷物預かりは可能!
  • 車椅子の貸出し
  • 自動販売機

旧芝離宮庭園の禁止事項や注意点

旧芝離宮庭園は犬や猫などのペット連れは可能なのか?
ペットを連れの入園は不可。(ケージに入れても不可)窓口で預かりもなし。介助犬は可能。
園内でサッカーやキャッチボールなどのボール遊びや縄跳びして遊べる?
遊具(ボール、なわとびなど)を使用して遊ぶことはできません。
弓道場の一般利用はできるのか?弓などの道具は貸してもらえる?
一般利用も可能だが弓道経験があり、道具を自前で持ち込みできる方のみの利用可能。
喫煙所はあるのか?
園内には灰皿が設置されている場所が2ヶ所あります。
手荷物預かりはあるのか?
手荷物預かりはしていない。中の御門受付のコインロッカーを利用。
飲食物の持ち込みはできるのか?
弁当を持込みした場合、園内に設置されているベンチも利用できます。ただし、レジャーシートの利用は園内裏山横の芝生広場のみ(
その他の芝生地、園路、広場では利用不可)。景観上、工事用のブルーシートの利用は不可。
※アルコール類の持込は出来ません。
浜離宮と芝離宮はつながっているのか?
両庭園はつながっておらず、趣が異なったまったく別の庭園です。

旧芝離宮恩賜庭園への交通アクセス・最寄駅

最寄駅
  • JR浜松町駅(下車、徒歩約1分)
準・最寄駅
  • 都営浅草線・大江戸線「大門駅」下車、徒歩約5分
  • ゆりかもめ「竹芝駅」下車、徒歩約10分

旧芝離宮恩賜庭園の入園料金

  • 一般:150円
  • 65歳以上:70円

※小学生以下および都内在住・在学の中学生は無料

浜離宮恩賜庭園へも行かれるのであれば「園結びチケット」がお得!

当芝離宮恩賜庭園以外にも、お隣の浜離宮恩賜庭園へも行かれるのであれば「園結びチケット」がお得です。

「園結びチケット」の料金

  • 一般:400円(両園通常入園料より50円お得!)
  • 65歳以上:200円(両園通常入園料より20円お得!)

※各庭園1回かぎり

購入方法

浜離宮恩賜庭園、芝離宮恩賜庭園のいずれか、先に訪れた公園の入園窓口にて購入。(事前販売はなし)

有効期限

有効期限はなし。両園と共に1回かぎり。

  • 一例:春に芝離宮恩賜庭園へ来園して、秋に浜離宮恩賜庭園へ来園ということも可能。

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