零戦・彗星が目の前に!靖国神社「遊就館」の展示物・見どころ紹介!

スポンサードリンク

零戦・彗星が目の前に!靖国神社の戦争博物館「遊就館」の展示物・見どころ紹介!

 

靖国神社境内にある「遊就館(ゆうしゅうかん)」は、22の展示室を有する博物館・宝物館です。

英霊の遺書や遺品の展示、「ゼロ戦」こと三菱零式艦上戦闘機や艦上爆撃機「彗星」などの軍機、日本国内外の戦乱・戦争について学べる資料が盛りだくさんですので、靖国神社にお参りの際は、ぜひとも、お立ち寄りください。

以下では、おおよそ順路に沿って、遊就館の展示室・展示物をご紹介していきます。

靖国神社「遊就館」の館内図(展示室紹介)

遊就館は、ガラス張りの新館入口から入り、玄関ホールで受付を済ませたら、まず2階から拝観する順路となっています。

遊就館1階

遊就館2階

画像引用元:靖国神社

順路に従って歩くと、近代日本の歩みや国内外の戦争・戦乱について、年代順に見られるようになっています。

展示室2からは、展示室3~10を経ずに1階に下りることもできます。

靖国神社「遊就館」の展示物紹介①玄関ホール

遊就館の入口は、向かって右側のガラス張りの部分です。

中に入ると拝観受付と展示スペースがあります。

こちらの玄関ホールの展示物は無料で見られ、写真撮影も可能です。

ここから先へ進む場合は、発券機で拝観券をお買い求めください。

遊就館の開館時間や休館日、拝観料(入館料金)、割引などの情報は、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。

靖国神社の戦争博物館「遊就館」の「開館時間(営業時間)・拝観料(入館料金)・割引・アクセスなど」

玄関ホールの展示物・見どころ

玄関ホールに展示されているものをご紹介します。

三菱零式艦上戦闘機五二型(復元機)

零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は、1940年(昭和15年)に正式採用された日本海軍の主力戦闘機で、「ゼロ戦」の通称で知られています。

当時、その格闘性能と航続力で世界最強を誇る戦闘機で、同年9月、中国・重慶での空中戦で敵機の大半を撃墜し、初陣を飾りました。

展示されているものは、1943年(昭和18年)11月に三菱重工名古屋大江工場で製造された、五二型と呼ばれる後期モデルです。

初期型よりも主翼の両端を短く円形に整え、航続距離を抑えた半面、速度が格段に向上し、「ゼロ戦」の中でも最も多く生産されたタイプです。

飛行中のゼロ戦52型
戦後のゼロ戦

終戦までに造られたゼロ戦は約1万機と言われていますが、現存するものはわずか20機ほどです。

戦後、各地に残されたゼロ戦などの兵器は、基本的にはすべて廃棄処分となりましたが、南洋方面では日の丸を黒十字に塗り替え、連合運の連絡用として、日本の整備兵が帰国したり部品がなくなったりするまで使用されました。

遊就館に展示されているこちらのゼロ戦五二型は、1945年(昭和20年)、南洋最大の航空基地だったニューギニア・ラバウルに飛行可能な状態で残った4機のうちの1機です。

当初、解体されて滑走路付近に放置されていましたが、1974年(昭和49年)に回収され、翌年日本に里帰りしました。

1980年(昭和55年)、靖国神社がこの機体を入手し、南洋諸島からエンジンや部品などを揃えて復元を始めました。

機体が想像以上に劣化していたことや、ゼロ戦に関係した技術者が減っていたことなどから作業は困難を極め、20年経った1999年(平成11年)、靖国神社創建130年となる年に、ようやく復元が完了しました。

その後、2002年(平成14年)、創建130年の記念事業の一環で新館が建設された遊就館にて展示が開始され、今では遊就館の目玉展示の1つとなっています。

展示されているゼロ戦の後ろ姿
  • 全幅:11.00m
  • 全長:9.121m
  • 主翼面積:21.30㎡
  • 全備重力:2,733㎏
  • 最大時速:565m
  • 最大航続距離:1,920㎞

零式艦上戦闘機その他の展示

零式艦上戦闘機4240号機防火壁の一部

発動機(エンジン)と操縦席を仕切っていた防火壁の一部。

零式艦上戦闘機4240号機主翼の桁部分

零式艦上戦闘機の座席

1981年(昭和56年)にミクロネシア連邦・ヤップ島から回収され、2018年(平成16年)に靖国神社に奉納されたもの。

零式艦上戦闘機22型搭載 九九式二十粍機銃

八九式十五糎加農砲

八九式十五糎加農砲(はちきゅうしき じゅうごせんち かのんほう)は、1929年(昭和4年)に制式化された、長射程・大威力を誇る火砲(大砲)です。

1929年が皇紀2589年にあたることから、この名称が付いています。

展示されている砲は、横浜券横須賀で編成され沖縄で戦い玉砕した独立重砲兵(じゅうほうへい)第百大隊が所有した砲で、首里付近の陣地から嘉手納(かでな)の飛行場を制圧するなど、軍砲兵の根幹として活躍しました。

戦後、洞窟内から発掘され、沖縄の米軍博物館に置かれた後、沖縄返還後は那覇の陸上自衛隊で展示され、1993年(平成5年)に重砲十五加顕彰奉納会から靖国神社に奉納されました。

現存する唯一の重砲(口径の大きい大砲)ということで、「重砲兵の記念碑」として紹介されています。

いくつもの弾痕が残り、激しい戦いの後を、生々しく今に伝えています。

八九式十五糎加農砲と共に展示されている鎮魂碑の写真
  • 口径:149.1㎜
  • 最大射程:18,100m
  • 弾量:40.2㎏
  • 放列砲車重量:10,422㎏
皇紀2589年とは:

皇紀とは、日本の紀元を『日本書紀』において神武天皇が即位した「西暦紀元前660年」を元年として計算したものです。
正式名称は「神武天皇即位紀元」といい、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武歴などとも呼ばれます。
日本軍の大砲や戦車の中には、この皇紀にちなんでいるものがしばしばあります。

九六式十五糎榴弾砲

九六式十五糎榴弾砲(きゅうろくしき じゅうごせんち りゅうだんほう)は、神奈川県横須賀で発足した野戦重砲兵第一連隊第四中隊に所属した、帝国陸軍最新鋭の榴弾砲でした。

榴弾砲は前出の加農砲に比べると砲身が短く、低初速・低射程で命中率が劣り、貫徹力(貫通力)も低いものの、有効範囲が広く、地上の歩兵や輸送車などに対する間接射撃に有効でした。

また、牽引車により迅速に移動できることや火力が強力であることなどが特長で、1939年(昭和14年)のノモンハン事件でソ連砲兵と交戦した後、東満州で国境警備にあたり、太平洋戦争開戦後にはフィリピンに進出してバターン半島砲撃戦・コレヒドール島砲撃戦で戦功を上げて、フィリピン作戦の勝利に貢献するなど活躍し、帰還しました。

そして、1944年(昭和19年)、沖縄に進出し、沖縄防衛戦に奮闘しましたが、(昭和20年)6月23日、すべての弾薬を撃ち尽くして撃破され、連隊長・山根忠陸軍大佐以下、中隊も玉砕しました。

同型の榴弾砲は終戦までに378門が製造され、国内に現存するものは沖縄県西原町の西原中央公民館に展示されているものと、靖国神社の遊就館所蔵のものの2門となっています。

遊就館展示の九六式十五糎榴弾砲は、戦後、米軍によって回収され、沖縄の在郷軍人クラブに展示されていましたが、1966年(昭和41年)5月29日、英霊の御霊を慰めるため、靖国神社に奉納されました。

  • 口径:149.1㎜
  • 最大射程:11,900m
  • 砲身長:352.3㎝
  • 砲重量:4,140㎏
  • 発射速度:45発/時

泰緬鉄道C56型31号蒸気機関車

この機関車は、1936年(昭和11年)、日本車輛製造株式会社で製造され、石川県七尾機関区を走行していました。

その後、太平洋戦争時にC56型90車両が南方に徴用され、こちらの31号機は、泰緬鉄道(たいめんてつどう)の開通式に参加しています。

戦後はタイの国有鉄道で使用され、1977年(昭和52年)に引退した後、泰緬鉄道建設時の関係者が資金を拠出して譲り受け、1979年(昭和54年)、靖国神社に奉納されました。

泰緬鉄道とは

1942年(昭和17年)6月、日本は、ビルマ・インド進攻作戦の陸上補給を目的に、タイ(泰)のノンプラドックからビルマ(緬甸:ミャンマー)のタンビザヤの最短距離415㎞を結ぶ鉄道「泰緬鉄道」の建設を始めました。

日本陸軍で戦地における鉄道の建設や運転に従事する「鉄道連隊」を始め、捕虜や現地住民も加わって工事が進められ、険しい地形や厳しい熱帯気候に悩まされながらも、わずか1年3か月後の(昭和18年)10月に開通しました。

鉄道沿線の様子を紹介するパネル


スポンサードリンク -Sponsored Link-






靖国神社「遊就館」の展示物紹介②2階・映像ホール1・2

拝観券を購入し受付けを済ませたら、まずはエスカレーターまたはエレベーターで2階へ上がります。

2階では最初に展示室1・2を見学しますが、その右側の順路から独立した位置に映像ホールが2部屋あります。

映像ホールでは、2019年9月現在、以下の作品が上映されています。

映像ホール1の上映作品『靖國神社の祭りとこころ』

『靖國神社の祭りとこころ』は、太平洋戦争終戦70年の節目を迎えた2015年(平成27年)に作成された靖国神社の紹介映像で、靖国神社の由緒や歴史、御祭神や祭祀についてまとめられています。

基本的には10時から15時30分まで、毎正時と30分、1日12回上映されています。

詳しい上映スケジュールはホームページでご確認ください。

なお、『靖國神社の祭りとこころ』の一部は、靖国神社ホームページのトップページおよび「映像・フォトギャラリー」でも見ることができます。

上映時間

  • 10時~15時30分、毎正時・30分 ※1日12回上映

※元日のみ1時から1時間ごと、15時30分まで。

映像ホール1の上映作品『私たちは忘れない―感謝と祈りと誇りを―』

『私たちは忘れない―感謝と祈りと誇りを―』は、日清・日露戦争から満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争にかけての日本近代史や東京裁判について、当時の貴重な映像を交えて紹介するドキュメント映画です。

50分作品となっています。

なおこのビデオは非売品ですが、企画・制作者である日本会議・英霊にこたえる会の活動を支援するための「特別維持会費」2,000円を郵便振替で納めると、郵送してもらえます(送料一律400円)。

詳細はホームページでご確認下さい。

上映時間

  • 10時から1時間ごと、最終15時 ※1日6回上映

※元日のみ1時から1時間ごと、15時30まで。
※みたままつり期間中は19時まで。

靖国神社「遊就館」の展示物紹介③2階・プロローグゾーン(幕末までの日本)

展示室1・2では、日本の武士の姿と精神を紹介するものとして、和歌や、中世の武士の武具・武器などが展示されています。

展示室1「武人(もののふ)のこころ」の展示物

展示室画像引用元:靖国神社

展示室1は、元帥刀(げんすいとう)を中心に、著名な和歌が展示され、神武天皇の御代以降、日本の独立を守り続けてきた先人たちの心に触れる展示となっています。

見どころ①元帥刀

画像引用元:靖國神社遊就館・館内のご案内

歴代の天皇が陸海軍の元帥に下賜された刀で、平安時代の「衛府(えふ)の太刀」をモデルにしたものと言われています。

衛府とは宮中の警護などにあたった役人で、衛府の太刀はもともとは警備用でしたが、後に装飾用となりました。

元帥とは特に戦功のあった陸海軍大将に与えられる称号である、軍人の最高位です。

1898年(明治31年)に「元帥(げんすい)府条例」が制定されてから終戦までの間、陸海軍大将のうち30名に「元帥」に選ばれました。

陸軍では、総理大臣も務めた山縣有朋や寺内正毅ら17名、海軍では日露戦争時の活躍で有名な東郷平八郎や山本五十六(死後追贈)ら13名が元帥となっています。

元帥刀の傍らには、元帥になった30名の顔写真も展示されています。

見どころ②「遊就館」名称の由来

展示室1には、「遊就館」の名称の由来に関する展示もあります。

「遊就館」は、『荀子(じゅんし)』勧学篇の「君子居必擇郷遊必就士」という部分にちなんで名づけられました。

書き下し文

君子、居るに必ず郷を擇(択)び、遊ぶに必ず士に就く
(くんし、おるにかならずきょうをえれび、あそぶにかならずしにつく)

意味

高潔な人物は環境の良い場所を選んで住み、学識のある優れた人物に従って学ぶ

※「遊就館」には、国のために尊い命を捧げた英霊の遺徳に触れ、学べる場所にという思いが込められています。

展示室2「日本の武の歴史」の展示物

展示室2では、靖国神社が所蔵する日本刀や甲冑などの武具・武器を展示しています。

江戸幕府15代将軍徳川慶喜の実父・斉昭の陣羽織や、乃木希典陸軍大将の刀なども見られます。

見どころ①絲緋縅梅金物鎧

画像引用元:靖國神社遊就館・館内のご案内

絲緋縅梅金物鎧 (いとひおどしうめかなものよろい)は、鎌倉時代・源義家のものと伝えられている鎧です。

春日大社所蔵の国宝「赤糸威大鎧(梅鶯飾)」の復元品で、全体に梅枝に蝶の据金物があしらわれています。

国宝「赤糸威大鎧(梅鶯飾)」

画像引用元:東京国立博物館1089ブログ

見どころ②脇差包丁政宗

画像引用元:公式ガイドブック『ようこそ靖國神社へ』

脇差包丁政宗(わきざし ほうちょうまさむね)は、南北朝時代に作られた脇差(小刀)です。

刀身には剣に龍(不動明王の化身の倶利伽羅龍王)が巻き付いた「倶利伽羅紋」と呼ばれる柄が刻まれ、鞘(さや)には梅の花が描かれています。

刀は武器であると同時に、武士の精神の象徴であり、神への捧げものでもありました。

靖国神社「遊就館」の展示物紹介④2階・近代史を学ぶゾーン(1)明治維新~西南戦争

2階の残りの展示室(展示室3~10)は、日本の近代史を年代順に学べる構成となっています。

平安が続いた江戸時代の後、なぜ国内で戦乱が起こったのか、そして開国後の世界情勢や、帝国主義の荒波の中で独立を保ち続けるため、急速に進められた日本の近代化の様子などを学ぶことができます。

展示室3「明治維新」の展示物

展示室3では明治維新をテーマに、黒船来航、安政の大獄、桜田門外の変、戊辰戦争などに関する資料・史料が展示されています。

坂本龍馬や吉田松陰、橋本佐内など、靖国神社に御祭神として祀られる幕末志士のゆかりの品々や、戊辰戦争で使用された錦の御旗(にしきの御旗)、当時の様子を伝える絵画などが見られます。

戊辰戦争関連では、上野戦争で敗れた彰義隊の旗や、榎本武揚の軍服・軍帽も展示されています。

見どころ「錦の御旗(にしきのみはた)」

画像引用元:靖國神社遊就館・館内のご案内

錦の御旗は、金色の日(太陽)と銀色の月が刺繍された赤地の絹織物でできた旗で、「菊章旗」、「日月旗」とも呼ばれます。

鎌倉時代1221年(承久3年)の承久の乱で後鳥羽上皇が下賜したのが始まりとされ、以降、朝敵討伐の際の官軍の印として用いられてきました。

1868年(慶応4年/明治元年)の戊辰戦争でも、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)を東征大総督(指揮官)とする新政府軍がこの御旗を授けられました。

展示室4「西南戦争」の展示物

展示室4では、西南戦争や、その中でも最も激戦となった熊本城籠城戦に関する資料・史料、御祭神の遺品、その他の士族の乱、五箇条の御誓文や文明開化に関する資料が展示されています。

見どころ「官軍発行の投降勧告書」

画像引用元:公式ガイドブック『ようこそ靖國神社へ』

この投降勧告書は、1877年(明治10年)の西南戦争で敗れた13000の薩摩軍が鹿児島に退去した際、鹿児島市内各所に張り出されたビラです。

投降(降参)を促すため、「官軍に降参する者はころさず」と書かれています。

展示室5「靖國神社の創祀」の展示物

靖国神社は、もともと、黒船来航以降の殉難者の御霊を慰める目的で創建され、最初に戊辰戦争における官軍側の戦没者が祀られました。

展示室5では、靖国神社が創立するまでの経緯や靖国神社草創期の様子を知ることができます。

また、遊就館の旧館号額も展示されています。

見どころ「本殿大屋根」

1872年(明治5年)に造営された靖国神社の本殿は、神社建築としては最大級の規模を誇る社殿でした。

1986年(昭和61年)からは約3年間をかけて「昭和の大修築」と呼ばれる全面解体修理が行われ、その際に交換された屋根の一部が保存・展示されています。

特別陳列室の展示物

展示室5と6の間には、特別陳列室があります。

軍隊の大元帥(総司令官)であった歴代天皇の肖像や御正装一式、御下賜品、皇族ゆかりの品々、軍旗などが展示され、靖国神社と皇室とのつながりが紹介されています。

見どころ「歩兵第321連隊の軍旗」

軍旗は、各連隊において、天皇の分身として大切に守られ、崇拝の対象でもありました。

そのため、戦闘で連隊が壊滅間際になった場合は、連隊長や旗手が奉焼(ほうしょう:丁重に焼く)しましたし、終戦時には、敵国軍に軍旗を渡さないため、陸軍大臣より奉焼命令が出され、ごく一部を除きすべて焼却されため、ほとんど現存していません。

遊就館の特別陳列室で展示されている軍旗は、ほぼ完全な形で現存する国内唯一のものです。

この軍旗は、終戦時、軍旗の喪失を惜しんだ歩兵第321連隊の連隊長・後藤四郎陸軍中佐が、旗竿のみを納めた奉安箱を奉焼し、旗と竿頭を新宗教団体「神道天行居」の施設で隠し通したもので、旗竿を復元した上で靖国神社に奉納されました。

靖国神社「遊就館」の展示物紹介⑤2階・近代史を学ぶゾーン(2)日清戦争~日中戦争

いよいよ、日本は外国との戦争に乗り出します。

展示室6~10では、日清戦争、日露戦争、そして満州事変や日中戦争などの流れ、戦況、従軍し今は靖国神社に祀られている英霊たちの遺品や手紙などが紹介されています。

展示室6「日清戦争」の展示物

展示室6では、日清戦争と下関条約、その後の三国干渉や北清事変(義和団の乱)の遺品や資料・史料が展示されています。

見どころ①「日清戦争絵巻」

画像引用元:靖國神社遊就館・館内のご案内

日本では古くから、『平時物語絵巻』『蒙古襲来絵詞』などの戦記絵巻が作られてきました。

こちらは、1894年(明治27年)から行われた日清戦争の様子を、絵と文で詳細に描いた絵巻物です。

展示室7「日露戦争パノラマ館」の展示物

展示室7では、日清戦争終結から日露戦争開戦、そして日本海海戦までの戦況がわかる映像(約12分、随時上映)が上映されています。

また、当時、戦勝を記念して、凱旋する将兵たちを出迎えるために上野公園に建てられた凱旋門の模型や、海軍中将・陸軍中将の正装も展示されています

見どころ「上野凱旋門」

凱旋門というと、フランス・パリのエトワール凱旋門が有名ですが、実は、近世ではヨーロッパ各地で建造されています。

凱旋門とはその名の通り、戦争・戦乱に勝利し凱旋する軍隊や皇帝、将軍らを迎え、称えるための建物です。

日本には、もともと、各種祝賀行事のため、門をスギやヒノキの若葉などの常緑樹でアーチ状に覆い、「緑門(りょくもん)」をこしらえるという習慣がありました。

明治時代に入ると、ヨーロッパには立派な凱旋門があるらしいということを見聞きした日本人がそれをまねるようになり、日露戦争後、エトワール凱旋門をイメージした仮設の凱旋門が、日本各地に造られました。

東京都内でも新橋、浅草、新宿、京橋、青山などで、凱旋門が凱旋する軍人たちを出迎えました。

日露戦争が終結して約3か月後の1905年12月、上野公園の入口にも仮設の凱旋門が建ち、同月、東京市民の陸軍大歓迎会が開かれました。

日本の凱旋門は緑門の流れをくんでいるということもあり、ほとんどが仮設で、現存するものはごくわずかとなっています。

古写真(絵葉書)に見える上野凱旋門

展示室8「日露戦争から満州事変」の展示物

展示室8では、日露戦争に勝利してから第一世界大戦、満州事変、上海事変へと突き進む日本と世界の情勢、満州の歴史などが、関係する御祭神の遺品や資料・史料の展示を通して紹介されています。

日露戦争で戦死した芥田川龍之介の義父・塚本善五郎少佐の軍刀や、日露戦争に従軍し、奉天の会戦で亡くなった宇治田虎之助大佐が戦死した際に着ていた軍服なども見られます。

見どころ①「廣瀬武夫海軍中佐と杉野孫七海軍兵曹長像」

画像引用元:公式ガイドブック『ようこそ靖國神社へ』

廣瀬武夫(ひろせたけお)中佐(生前は少佐)は、閉塞船「福井丸」の指揮官として従軍した海軍軍人です。

旅順港で敵の魚雷を受け撤退する際、一度は救命ボートに乗り移りましたが、船を自爆させる爆薬に火をつけるために船内にいた部下の杉野孫七(すぎのまごしち)上等兵曹(死後昇進して兵曹長)がいないことに気づきます。

そこで、沈みゆく船に戻って三度も探しましたが見つからず、やむを得ず再び救命ボートで沖に漕ぎ出そうとしたとき、頭部に砲弾を受けて戦死ししました。

死後、中佐に特別昇進し、日本初の「軍神(ぐんしん)」として、出身地の大分県武田市に創建された広瀬神社に祀られました。

遊就館に展示されている像は、かつて神田満世橋にあった銅像の模型で、他にも廣瀬中佐直筆の手紙などが残されています。

万世橋駅前の古写真(絵葉書)に見える廣瀬中佐の銅像

また、廣瀬中佐が砲弾を受けた際、近くにいた兵のそばを飛び散った肉片がかすめたといい、その跡が残った帽子も奉納されています。(不定期公開)

軍神とは:


勇敢に戦い、武勲を立てて戦死した者を神格化してたたえたもの。
廣瀬中佐以降、同じく日露戦争で戦死した、陸軍の橘周太中佐(後述)、「爆弾三勇士」(後述)、真珠湾攻撃に参加して帰還しなかった海軍大尉(死後昇進して中佐)9名、陸軍を代表するパイロット(戦闘機操縦者)だった加藤建夫(かとうたてお)少将などが軍神とされました。

なお、靖国神社の第二鳥居前にある大燈籠(向かって右側)には、「日露戦争 第二回旅順港閉塞の広瀬中佐」というタイトルのレリーフがあります。

見どころ②「橘中佐の軍服と手紙」

画像引用元:公式ガイドブック『ようこそ靖國神社へ』

海の軍神として称えられた廣瀬中佐に対し、陸の軍神とされたのが、橘周太(たちばなしゅうた)中佐(生前は少佐)です。

橘中佐は、1904年(明治37年)8月、静岡を拠点とする歩兵第34連隊第1大隊長として従軍した日露戦争の遼陽(りょうよう)会戦で戦場に建ち、果敢に敵陣に攻め入りましたが、激しい砲火を浴び、右腕、左手の指、下腹部、腰など7箇所を負傷しました。

出血多量により生死の境をさまよう中、しきりに戦況を尋ね、多くの兵が犠牲となったことを詫びたといいます。

そして、その日がちょうど皇太子殿下(後の大正天皇)の誕生日であったことから、「周太はこの佳き日に、わが一命を君国に捧げるは無常の喜びなり」と語って亡くなりました。

橘中佐は侍従武官として皇太子殿下に仕え、漢学や体操などの教育を担当した経験があり、スパルタ教育で知られていたということです。

なお、橘中佐は死後、故郷の長崎県雲仙市に創建された橘神社に祀られています。

また、所属していた歩兵第34連隊は「橘連隊」の通称で呼ばれるようになり、現在、同じ駐屯地・同じ番号の陸上自衛隊第34普通科連隊がその通称を引き継いでいます。

遊就館では、橘中佐の軍服や直筆の手紙が展示されています。

展示室9「招魂斎庭」の展示物

靖国神社には、招魂斎庭(しょうこんさいてい)と呼ばれる広場のような場所があります。

ここはかつて、戦没者の御霊を新たに英霊として合祀する合祀祭に先立ち、その御霊を本殿に迎え入れる「招魂祭(招魂式)」を執り行った場所です。

展示室9では、神霊・ご神体をお移しする時に用いる御羽車(おはぐるま)と呼ばれる神輿が展示され、1940年(昭和15年)春の招魂祭が再現されています。

参列した遺族に配られた遺族徽章(きしょう:バッジ・メダル)や、当時の遊就館の参観券などの資料が見られる他、当時のラジオの実況中継を聞くこともできます。

展示室10「支那事変」の展示物

展示室10では、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争(支那事変)や、1939年(昭和14年)のノモンハン事件の経緯について解説されています。

また、現地で命を落とし、靖国神社に祀られる人々の遺品や資料も展示されています。

航空機の演習中に事故死し、靖国神社本殿の独立した神座に祀られる北白川宮永久王(きたしらかわのみや ながひさおう)の胸像なども見られます。

見どころ①肉弾三勇士(爆弾三勇士)

画像引用元:公式ガイドブック『ようこそ靖國神社へ』

肉弾三勇士(爆弾三勇士とも)とは、鉄条網などで固く守られた敵陣に、火のついた破壊筒(バンガロール爆薬筒)を持って突っ込み、敵弾に倒れながらも突入をあきらめず、最終的には自らの破壊筒で自爆した3人の一等兵(死後昇進して伍長)のことです。

遊就館には、3人の様子を描いたレリーフや、軍服の破片が展示されています。

第二鳥居前にある大燈籠(向かって左側)には、「上海事変 爆弾三勇士」というタイトルのレリーフもありますので、ぜひご覧ください。

爆弾三勇士:
独立工兵第18大隊(久留米)の江下武二(えした たけじ)、北川丞(きたがわ すすむ)、作江伊之助(さくえ いのすけ)。いずれも一等兵(当時)。

見どころ②「山本健一 陸軍歩兵中尉着用の防弾チョッキ」

画像引用元:靖國神社遊就館・館内のご案内

山本中尉は、第二次ノモンハン事件で第八国境守備隊担架隊の小隊長として従軍しました。

その果敢な行動で多くの負傷兵を元気づけましたが、負傷兵の盾となるために敵陣に斬り込み、戦死しました。

担架隊とは

大日本帝国陸軍には、衛生隊と呼ばれる、軍医や衛生部員が所属する隊がありました。

戦闘に際しては包帯所と呼ばれた移動式救護施設を開設し、負傷者を治療するなどしました。

担架隊(担架中隊)は、戦線の負傷者の捜索・救急処置・輸送などの任務にあたりました。

靖国神社「遊就館」の展示物紹介⑥1階・近代史を学ぶゾーン(3)太平洋戦争

続いて、階段またはエレベーターで1階に下り、展示室11に入ります。

展示室11~15は、太平洋戦争(大東亜戦争)に関する展示のエリアです。

展示室11「大東亜戦争1」の展示物

展示室11では、太平洋戦争開戦前夜の日米交渉に関する資料・史料が展示され、日本と世界の情勢が紹介されています。

また、国内向けのニュース映像『支那事変全線総攻撃』(38分、随時上映)も上映されています。

当時の戦況やそれを伝える報道について知れる貴重な映像ですので、時間があればぜひご覧ください。

展示室12「大東亜戦争2」の展示物

展示室12では、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃から翌年5月頃までにかけてのフィリピンや香港、中部太平洋諸島への進攻、オランダ領インド(インドネシア)やビルマ(ミャンマー)での作戦などに関する所蔵品、資料・史料が展示されています。

天皇の戦争宣言、戦死者の戦死通知書簡などの展示もあります。

見どころ「トラトラトラの電報」

画像引用元:公式ガイドブック『ようこそ靖國神社へ』

「トラトラトラの電報」として知られるこちらは、真珠湾上空から淵田美津雄第一次攻撃隊長により空母「赤城」あてに打電されたものです。

展示室12に展示されている電報文は、真珠湾攻撃の際、ハワイへ向かった機動部隊のうち、戦艦「比叡」に乗っていた通信参謀・竹内将人氏が手元に残していたもので、「奇襲二成功セリ」と書かれています。

展示室13「大東亜戦争3」の展示物

続く展示室13では、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦や8月のガダルカナル作戦、そして1944年(昭和19年)3月から始まるインパール作戦、6月のマリアナ沖海戦など、悪化していく戦況と世界情勢、特攻攻撃の始まりについて解説されています。

見どころ「山本五十六聯合艦隊(連合艦隊)司令長官搭乗機の機体破片類」

画像引用元:公式ガイドブック『ようこそ靖國神社へ』

山本五十六(やまもといそろく)海軍大将(死後元帥に昇格)・連合艦隊司令長官は、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦などを指揮しました。

優れた指揮官として国内外で評価が高く、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」などの有名な名言やその思想は今でも語り継がれ、書籍などでも紹介されています。

1943年(昭和18年)4月18日、南太平洋ブーゲンビル島の基地の視察に赴く際、アメリカの戦闘機16機の攻撃を受け同島の密林に墜落・戦死しました。

こちらの展示室には、山本大将愛用の双眼鏡も展示されています。

展示室14「大東亜戦争4」の展示物

展示室14では、1945年(昭和20年)3月の硫黄島作戦、続く米軍による本土への空襲と防空戦、そして4月から始まる沖縄の地上戦などに関する資料・史料が展示されています。

見どころ「西竹一陸軍大佐のオリンピック賞状」

画像引用元:靖國神社遊就館・館内のご案内

硫黄島作戦で戦車第26聯隊(連隊)を率いた西竹一(にしたけいち)大佐は、薩摩藩出身の男爵・西徳二郎の三男で、兄たちの死去後に幼くして男爵となり、後に陸軍軍人となりました。

1932年(昭和7年)には、ロサンゼルスオリンピックの馬術大障害飛越(ひえつ)競技に出場して金メダルを獲得します。

その活躍から男爵という意味の”Baron”を冠し「バロン西」と呼ばれて人気を集め、後にロサンゼルス市の名誉市民にもなりました。

西大佐の金メダルは2019年現在まで、日本が夏季オリンピック馬術競技で獲得した唯一のメダルです。

愛馬はオリンピックの2年前に出張先のイタリアで自費購入したウラヌス号で、オリンピック以前の国際大会でも好成績を残していました。

その後、西大佐は4年後のベルリンオリンピックにも出場しましたが落馬・棄権しています。

ベルリンオリンピック後は陸軍騎兵少佐となって軍馬の育成などを担当し、太平洋戦争勃発後は第26師団捜索隊長、第1師団捜索隊長を歴任しました。

そして、1945年(昭和20年)、硫黄島守備隊として戦車第26連隊の指揮し、3月に戦死しました。

遊就館では、賞状と共に、西大佐の遺品も展示されています。

【補足】戦時下のオリンピック

戦中・戦後も夏季・冬季オリンピックは形式上続いていましたが、中止になったり、日本が出場しなかったりした時期もありました。

以下に、戦中・戦後のオリンピックを列挙します。

1932年(昭和7年)
  • レークプラシッド(アメリカ)冬季オリンピック
  • ロサンゼルス夏季オリンピック
1936年(昭和11年)
  • ガルミッシュパルテンキルヒェン(ドイツ)冬季オリンピック
  • ベルリン夏季オリンピック
1940年(昭和15年)
  • 札幌冬季オリンピック ※日中戦争のため中止
  • 東京夏季オリンピック
    ※東京が開催地を返上し、ヘルシンキに変更された後、第二次世界大戦のため中止
1944年(昭和19年)
  • コルティナダンペッツォ(イタリア)冬季オリンピック ※第二次世界大戦のため中止
  • ロンドン夏季オリンピック ※第二次世界大戦のため中止
1948年(昭和23年)
  • サンモリッツ(スイス)冬季オリンピック ※敗戦国である日本・ドイツは招待を受けず
  • ロンドン夏季オリンピック ※敗戦国である日本・ドイツは招待を受けず

展示室15「大東亜戦争5」の展示物

展示室15は、終戦時の状況やその後のソ連軍との戦い、終戦後のアジア各国の独立などに関する展示ブースとなっています。

ポツダム宣言受諾後に割腹自殺した阿南惟幾(あなみこれちか)大将、大西瀧治郎中将、本庄繁大将の遺書や、「東京裁判」と各地の軍事裁判、シベリア抑留で亡くなり靖国神社に祀られる御祭神の遺品も展示されています。

見どころ「東條英機元首相以下25名の署名入り日章旗」

画像引用元:靖國神社遊就館・館内のご案内

この国旗には、東条英機元首相ら25名の署名が入っています。

戦後、東京裁判の被告が収容された巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)の看守だったアメリカの憲兵ズァーフレイ氏が、1948年(昭和23年)の元日前後に、被告の1人に日の丸の旗(日章旗)を渡し署名を求めたところ、「A級戦犯」の被告25名全員の署名付きで返されたものということです。

東京裁判・A級戦犯とは

戦後、1946年(昭和21年)から行われた連合国による「極東国際軍事裁判」は、通称東京裁判と呼ばれます。

東京裁判では、戦争の計画や実行に関わった日本の指導者28人が重要戦争犯罪人、いわゆる「A級戦犯」として起訴され、裁判の途中で死亡・または精神障害により起訴が取り消された3名を除いた25名が有罪となりました。

太平洋戦争開戦時の首相・東条英機を始め広田弘毅(元首相・外相)、板垣征四郎(元関東軍参謀長・陸軍大臣)ら7人が絞首刑となり、その他、終身刑16名、禁固刑2名の判決が下りました。

なお、靖国神社では、この東京裁判で死刑となったり獄中死したりした14名を「昭和時代の殉難者」として合祀しています。

靖国神社「遊就館」の展示物紹介⑦1階・英霊の「みこころ」に触れるゾーン

展示室16~19は、太平洋戦争で命を落とし、靖国神社に御祭神として祀ら得る英霊たちの遺品や遺書が中心の展示となっています。

展示室16「靖國の神々1」の展示物

展示室16では、看護婦(看護師)や軍属、軍需工場員などとして働いた女性や、オリンピック選手、プロ野球選手だった御祭神の遺品や遺書、遺族より提供された数々の遺影などが展示されています。

御祭神の中には優れたスポーツ選手も多く、前出の西大佐の他、元オリンピック代表選手は30余柱祀られています。

見どころ①「金城姉妹のご遺品」

画像引用元:靖國神社遊就館・館内のご案内

金城姉妹は、沖縄の女子学徒隊「ひめゆり学徒隊」の一員として沖縄陸軍病院に動員された女学生です。

ひめゆり学徒隊の学生たいは、日夜、傷病兵の看護、水汲み、給餌、あるいは遺体の埋葬などにあたっていました。

しかし、戦況は厳しく、敗色が濃厚となる中、1945年(昭和20年)6月18日、突然の学徒隊解散の命令が出されました。

武器も持たず、身を守るすべも知らない女学生たちは、所属組織の突然の解散により身を寄せる場所すら失いましたが、それでも日本の勝利を信じ、「捕虜になるくらいなら死ぬべき」との教えを頑なに守って投降(降参)勧告を拒否しました。

そして翌6月19日、100名ほどが避難していた第三外科壕が米軍により包囲され、ひめゆり学徒隊42名を含む87名が亡くなりました。

第三外科壕は女子学徒隊の中で最大の犠牲を出した場所となり、戦後、壕跡に慰霊碑「ひめゆりの塔」が建てられました。

近くには納骨堂と「ひめゆり平和祈念資料館」もできています。

見どころ②「石丸進一少尉の遺影・遺品」

プロ野球名古屋軍(現中日ドラゴンズ)期待の星だった石丸進一少尉は、1945年(昭和20年)5月11日、神風特別攻撃隊隊員として出撃し、南西諸島洋上で戦死しました。

神風特攻隊員として戦死した、唯一のプロ野球選手でした。

遊就館にて展示されている寄せ書きには、石丸少尉の言葉も見えます。

この寄せ書きは特攻隊員として飛び立つ直前に書かれた石丸少尉の絶筆で、 「葉隠(はがくれ:武士道)精神」「敢闘(かんとう:勇敢に戦う)精神」そして、 「日本野球ハ、」とつづられています。
※葉隠れは佐賀鍋島藩の武士道徳・教訓書。石丸少尉は佐賀県出身。

その後に、何と書きたかったのでしょうか。

石丸少尉の生涯は、小説『消えた春 ―特攻に散った投手石丸進一』(牛島秀彦作)、およびその映画化作品『人間の翼 最後のキャッチボール』に描かれています。

見どころ③「奇跡の椰子の実」

画像引用元:公式ガイドブック『ようこそ靖國神社へ』

こちらは、なんと31年間もの間海を漂い、フィリピンから島根県に流れ着いた、その名の通り「奇跡の椰子の実」です。

陸軍軍属(軍人以外の軍隊勤務者)だった島根県出身の山之内辰四郎氏は、フィリピンのマニラ船舶司令部で事務の仕事をしていました。

しかし、戦況が厳しくなり、1944年(昭和19年)、マニラを退いてルソン島のジャングルへ後退する直前に、故郷を思い、椰子の実に、あて先として既に帰国していた同郷で病院船勤務の友人の名前や所在地、自らの名前、日付などを書き、海に流しました。

1年後に山之内氏は戦死してしまいますが、椰子の実は31年の歳月を経て、1975年(昭和50年)7月、島根県大社町(現出雲市)の港に流れ着きました。

それを釣りに来ていた同町の岡貞吉氏が拾い上げて乾かすと、墨書きされた「飯塚正一」の文字が浮かび上がりました。

椰子の実の宛先だった飯塚氏は近所に健在で、椰子の実を受け取り法要を執り行いました。

差出人の方は文字が薄れて判読できず、飯塚氏が心当たりを調べ回った結果、同じ青年団に所属し、戦中1944年にマニラで再会した山之内氏の名前が浮かんだものも、かつての家は空き家になっていました。

諦めかけていたところ、偶然、墓参りに訪れていた山之内氏の未亡人・きよ子さんに出会います。

そこで椰子の実を見せると、きよ子さんは突然泣き崩れました。

きよ子さんが保管していた亡き夫からの手紙には、「飯塚君が帰国する」などと交友関係が詳しく書かれており、筆跡も一致したことから、それが山之内氏が流した椰子の実と判明したのでした。

椰子の実は後に、きよ子さんにより靖国神社に奉納されています。

展示室17「靖國の神々2」の展示物

展示室17にも、御祭神の遺書や遺品が展示されています。

見どころ「須賀芳宗海軍大尉のご遺書と鏡箱」

画像引用元:公式ガイドブック『ようこそ靖國神社へ』

須賀芳宗(すがよしむね)大尉(当時少尉)は、1945年(昭和20年)、神風特別攻撃隊「第一正気隊」隊員として九七式艦上攻撃機に乗り、鹿児島県の串良航空基地を出発、南西諸島洋上で戦死しました。

展示されているのは、東京出身の須賀大尉が、学徒出陣で横須賀海兵隊へ入隊する際に母から贈られた鏡の箱です。

母と須賀大尉は顔立ちが瓜二つだったため、大尉は鏡を見るたびに母を思い、その鏡を抱いて出撃しました。

空になった鏡の箱の内側には、「吾が母」と記されています。

併せて、須賀大尉が母へ宛て、絶筆となった手紙も展示されています。

手紙には、「中の鏡は私と共に沖縄へ持って行かせて頂きます。 母上様」と書かれています。

なお、大尉の妹・八重子さんは1961年(昭和36年)6月29日、靖国神社の創立記念日にあたり「雲」という題に即して「特攻基地 出でしは四時てふ 兄の機よ 夕焼け雲に 染みてゆきしか」という兄に捧げる歌を詠んでいます。

この歌は入選し、歌が神前にて披講されました。

展示室18「靖國の神々3」の展示物

展示室18では、特攻隊員の遺書や遺品、遺族から奉納された花嫁人形が展示されています。

見どころ「花嫁人形」

画像引用元:月刊「WiLL」2012年2月号

戦場にて亡くなり靖国神社に祀られる英霊の大半は、結婚前の若者でした。

妻をめとり、愛を育むことを知ることなく命を落とした彼らのため、遺族が奉納したのが花嫁人形です。

遊就館には、80体ほどの花嫁人形が所蔵されており、交替で展示されています。

佐藤武一軍曹の花嫁人形

北海道出身の佐藤武一(さとうたけいち)軍曹は、1945年(昭和20年)4月10日、沖縄戦で戦死しました。

わずか23歳でした。

こちらの「桜子」と名付けられた花嫁人形は、1982年(昭和57年)、84歳になった母・ナミさんが手紙と共に奉納したもので、靖国神社に奉納された最初の花嫁人形です。

展示室19「靖國の神々4」の展示物

展示室19には、多くの御祭神の遺影の展示と、「今月の英霊の言乃葉」として、遺書や遺品を月替わりで展示するコーナーがあります。

企画展示室を除いては最後の展示室ということで、見学者が自由に感想をしたためられるノートも用意されています。

なお、御祭神の遺書や手紙は、中門鳥居手前の掲示板でも月替わりで掲示されています。

また、『英霊の言乃葉』という小冊子(2019年時点で全11冊)にまとめられて、遊就館内の売店で頒布されています。

靖国神社「遊就館」の展示物紹介⑧1階・大展示室

展示室18から展示室19へ行く途中には、大展示室を通ります。

2階部分までが吹き抜けになった開放感のある大きなスペースで、艦上爆撃機、戦車などの大型兵器や砲弾、遺品や遺書などの戦跡収集品が展示されています。

大展示室は、写真撮影可能となっています。

2階のエレベーター付近が一部テラスになっていて、展示物を上から見ることもできます。

大展示室を上から見たところ

大展示室の展示物・見どころ

以下では、数ある展示物の中から特に要注目の目玉展示をピックアップして、ご紹介します。

大展示室の見どころ①艦上爆撃機「彗星一一型」※復元

「彗星(すいせい)」は、1943年(昭和18年)12月に公式採用された日本海軍最後の艦上爆撃機で、終戦までに2157機が生産されました。

終戦が近づき、戦局の変化に伴って、爆撃機としてよりも、戦闘機や特攻機として使用され、多くの機体と乗組員の人命が失われました。

展示されている彗星一一型は、1972年(昭和47年)に西太平洋の現ミクロネシア連邦・ヤップ島の旧滑走路脇のジャングルで遠藤信彦氏によって発見され、1980年(昭和55年)、日本テレビの協力により、日本への里帰りが実現しました。

そして同年、彗星ゆかりの陸上自衛隊木更津基地にて、飛行機研究家田中祥一氏をリーダーとして専門家や愛好家ら延べ200名以上が参加して復元されました。

複数の機体の部品をつなぎ合わせたり、不足部分を手作りしたりしながら2か月以上を費やして作業が行われ、その様子はテレビ番組で伝えらえました。

その後、1981年(昭和56年)4月5日、靖国神社に奉納されています。

2016年(平成28年)には、大規模な修復工事が行われ、それまで再現できていなかった細部まで復元されました。

展示されているものが、国内で唯一現存する、旧日本軍の爆撃機です。

  • 全幅:11.50m
  • 全長:10.22m
  • 兵装:7.7㎜固定機銃2、7.7㎜旋回機銃1、爆弾250㎏ほか
  • 最大速度:550㎞/時
  • 総重量:2.50t
  • 搭乗員:2名
  • 発動機:熱田21型
爆撃機・戦闘機・特攻機とは

  • 爆撃機:
    爆弾を搭載し、空中から地上または海上の目標を爆弾投下によって攻撃(爆撃)するための軍用機。
  • 戦闘機:
    機関銃、ミサイル、火砲などを搭載し、敵軍の航空機への攻撃や味方の大型機の護衛などを任務とした小型・高速の軍用機。
  • 特攻機:
    乗員の脱出や帰還は考慮されない構造の、特別攻撃(特攻)に特化した軍用機。
    既存の爆撃機や戦闘機、練習機などを改修したものと、当初から特攻目的で開発・生産されたものがあった。

熱田二一型発動機

この発動機は、当時、世界最高水準を誇ったドイツのダイムラーベンツ社の液冷(えきれい)エンジンDB601を愛知時計電機が国産化したもので、1943年(昭和18年)12月、「彗星」に搭載して実用化されました。

戦争が終わりに近づいた時期のことであり、戦況によっては特攻などに用いられたためその性能を十分に発揮することはできませんでしたが、彗星はこの発動機のおかげで、優れた高速性を手に入れました。

遊就館大展示室では、他にも彗星の部品が展示されています。

大展示室の見どころ②ロケット特攻機「桜花一一型」レプリカと攻撃ジオラマ

「桜花(おうか)」は、太平洋戦争末期、形勢を逆転させようと海軍が開発した特攻機で、人間爆弾とも呼ばれました。

桜花の実験・訓練のため、1944年(昭和19年)8月には第七二一海軍航空隊(通称神雷部隊)が組織されました。

一式陸上攻撃機を母機とし、その爆弾倉に吊るされた状態で目標近くまで運ばれます。

移動中に桜花操縦士は母機の搭乗員と打ち合わせをし、その後桜花に移って待機、準備完了後にモールス信号の「・・・-・(トントントンツートン)」の合図と共に投下されました。

桜花は機首を下げながら降下・加速し、最終的には火薬ロケットに点火して、時速800キロを超えるスピードで目標に突入します。

弾頭の1200㎏の徹甲弾には、戦艦や航空母艦の装甲を貫いて艦隊内部で爆発するように極端な遅動信管(内部で爆発する発火装置)が備えられており、1発で大型艦船を撃沈できるとされていました。

桜花に搭乗して戦死した人は、終戦までに55名に上りました。

第七二一海軍航空隊(神雷部隊)では他に、母機の陸攻で365名、援護戦闘機で10名、桜花以外の特攻で285名(うち神風特攻隊の特攻で187名)など、合計829名が戦死・殉職しました。

  • 全幅:5.00m
  • 全長:6.066m
  • 全高:1.16m
  • 兵装:高性能爆薬1.2t
  • 馬力:推力800㎏×3、4式1号20型火薬ロケット
  • 最大速度:473kt
  • 航続距離:37㎞
  • 総重量:2.14t
桜花の攻撃ジオラマ

「桜花」の攻撃ジオラマは、1945年(昭和20年)4月、沖縄本島周辺に集結していた米艦隊に神雷部隊特別攻撃隊(特攻隊)が突入する際の状況を再現したものです。

1979年(昭和54年)、神雷部隊戦友会から実物大模型と共に奉納されました。

当初は、靖國会館の大ホールに展示されていましたが、1986年(昭和61年)に遊就館が再開館した際、こちらの大展示室に移設されました。

さらに、2002年(平成14年)の遊就館の改修後は、模型が空中展示となり、ジオラマも新設されました。

神雷部隊の将兵たちは、「戦死したら靖国神社の御神門を入って右の2番目の桜の木の下に集まって再会しよう」を合言葉としていました。

靖国神社には、この神雷部隊の生き残った戦友が奉納した桜があり、「神雷の桜」と名付けられています。

大展示室の見どころ③人間魚雷「回天一型改一」※実物・一部復元

回天は、世界で初めて開発に成功した酸素魚雷(九三式三型魚雷)を活用した特攻兵器で、1944年(昭和19年)8月、海軍が公式に採用し、11月に初出撃しました。

命中すれば、巨大な艦艇であっても一撃で撃沈させる威力を持つ兵器として開発され、「天を回(めぐ)らし戦局を逆転させる」という意味で「回天」と名付けられましたが、実戦で沈めたのは、油槽船、輸送船、駆逐艦各1隻ずつのみとされています(アメリカ側の発表)。

潜水艦に搭載されて出撃し、標的までの距離が航続距離以下になった時点で独立、そして敵艦に体当たりするための、文字通りの「人間魚雷」で、戦中148基が出撃し、116名の若者たちが海に散っていきました。

展示されている回天は、終戦後、ハワイの米軍博物館で保管されていましたが、1979年(昭和54年)10月、同博物館から靖国神社に永久貸与されたものです。

また、回天上部に装備した潜望鏡「水防眼鏡二型改五」と、展示されている「水防眼鏡二型改六」は、2009年(平成21年)に広島県呉市在住の長田研司氏から奉納されたものです。

なお、当初、回天の一部の艇には「菊水の紋」があしらわれており、展示されている回天一型改一にも上部ハッチ部分に紋が見えますが、敵に発見されにくいよう、実戦用にはほとんど描かれませんでした。

菊水紋は楠木正成の家紋です。

後醍醐天皇に仕えて鎌倉幕府打倒に貢献した後、湊川の戦で足利尊氏軍に敗れて自害した楠木正成は、戦略家として有名ですが、尊皇派の猛将として、明治時代に入り再評価され、しばしば軍人のあるべき姿とされました。

  • 全長:14.75m
  • 直径:1.0m
  • 重量:8.3t
  • 搭乗員:1名
  • 頭部炸薬量:1.55t
  • 推進装置:九三式三型魚雷
  • 燃料:灯油・酸素
  • 出力:550馬力
九三式魚雷三型

九三式(きゅうさんしき)魚雷は、日本海軍が世界に先駆けて開発した酸素魚雷です。

制式化(公式に採用)された1933年(昭和8年)が皇紀2593年にあたることから「九三式」と名付けられ、主に巡洋艦や駆逐艦に搭載されました。

従来の魚雷は圧縮空気を用いていたため、航走中に「雷跡(らいせき)」と呼ばれる気泡が発生して発見されやすかったのが難点でした。

酸素魚雷はその難点を克服した「無航跡」魚雷であり、さらに高速で長射程、強い爆発力を持ち、当時、世界水準の上を行く性能を誇りました。

後に人間魚雷「回天」の動力として使用されています。

  • 全長:9m
  • 直径:0.61m
  • 全重量:2.8t
  • 頭部炸薬量:490㎏
回天四型※実物、中部胴体のみ

回天四型は、回天一型の速度向上・航続距離延長などの改良を目指して造られ、回天一型よりも一回り大きくなっています。

太平洋戦争の終戦時には6艇が完成していましたが、実際に使用される前に終戦を迎え、完成品や部品は海中投棄されたり、解体されたりしました。

展示されている回天四型も、戦後放置されていましたが、後に関係者から靖国神社に奉納されたもので、水防眼鏡二型改七(潜望鏡)部分は複製となっています。

なお、回天の基地が置かれた山口県周南市には、悲惨な特攻兵器誕生の経緯などを後世に伝えるための「回天記念館」が設立されています。

また、回天特別攻撃隊(特攻隊)については、小説『出口のない海』(横山秀夫作)および、同名の映画化作品にも描かれています。

  • 全長:16.5m
  • 直径:1.35m
  • 重量:18.17t
  • 搭乗員:1名
  • 頭部炸薬量:1.8t

大展示室の見どころ④九七式中戦車「チハ」

九七式中戦車は、日本陸軍の代表的な戦車です。

「チハ」とは、「3番目に開発された中戦車」であることを意味するコードネームです。

「チ」は「中戦車」、「ハ」は「いろはにほへと」の3つ目の「ハ」です。

展示されている戦車は太平洋戦争において戦車第九聯隊(連隊)第五中隊に所属していました。

同連隊は、1944年(昭和19年)4月、満州からサイパン島に移駐し、米軍の上陸にあたり、不利な戦況の中、先頭に立って猛攻を迎え撃ちましたが、7月7日、全兵団と共に玉砕しました。

中隊所属の生存者が、サイパン島の海岸砂中に埋没していたこの戦車を、島民らの協力を得ながら私財を投じて発掘し、日本へ返しました。

その後、1975年(昭和50年)8月12日に戦友会から靖国神社に奉納・境内に設置され、戦車保存会会員らの奉仕により補修・整備されながら展示が続いていました。

しかし、会員の高齢化に伴いそのような手入れも難しくなってきたため、末永く保存する目的から、1988年(昭和63年)7月、大々的な整備工事が行われ、同年12月には遊就館のホールに搬入され、屋内展示に切り替えられました。

2018年の年初からは再塗装が行われています。

国内に現存する九七式中戦車の実車は2体のみで、もう1体は静岡県富士宮市の若獅子神社に展示されています。

  • 全幅:2.32m
  • 全長:5.50m
  • 全高:2.38m
  • 重量:15.8t
  • 装甲:前面25㎜、側面20㎜
  • 乗員:4名
  • 武装:97式57㎜戦車砲、97式7.7㎜車載機関銃2

大展示室その他の展示物紹介

靖国神社・遊就館の大展示室に展示されている、その他の展示物の一部をご紹介します。

大展示室には、他にも多くの展示物があります。

戦艦「陸奥」副砲・砲弾・部品

水上特攻艇「五型震洋艇」複製・模型・部品

戦艦「武蔵」主砲弾・戦艦「三笠」主砲弾・戦艦陸奥/長門型41センチ主砲用火薬缶

※2018年3月より、向かって右端の砲弾の代わりに火薬缶が展示されています。

四一式山砲

五式戦闘機(平馬康雄曹長搭乗機)の残骸部品

元帥海軍大将東郷平八郎肖像

遊就館の大展示室およびその他の展示室には、軍人の肖像画や戦闘の様子、戦艦などを描いた絵画も多数展示されています。

日本海軍経理学校の揚艇場の揚艇柱(ダビット)部品

戦跡収集品


スポンサードリンク -Sponsored Link-






靖国神社「遊就館」の企画展示室(特別展)

展示室19を出ると、右側に売店があり、玄関ホールに抜けて見学終了となりますが、左側には企画展示室もあります。

企画展示室は玄関ホールから直接入れるため、常設展を見ずに企画展示室のみを見学することもできます。
※企画展示室のみの見学であっても、拝観料金は通常と同じとなります※

こちらでは、遊就館で過去に開催された企画展(特別展・特別企画)をご紹介します。

2019年(令和元年)

「靖國神社御創立百五十年展 後編 ―御創建~現在― 」

2018年(平成30年)

「靖國神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―」

2017年(平成29年)

「甲冑武具展―戦国時代-江戸時代」

2016年(平成28年)

「時を超えた祖国への想い-軍人と共に歩みし軍属たち-」

なお、遊就館では、他にも、有料・無料の期間限定特別展が開催されています。

企画展(特別展・特別企画)は常に開催されているとは限らないため、お出かけの際は事前にホームページなどで最新情報をご確認ください。

靖国神社「遊就館」のスタンプラリー

遊就館では、全10種類のスタンプを集めるスタンプラリーができます。

パンフレットなどに集めても構いませんが、専用のスタンプブックも販売されています。

遊就館スタンプブック

  • 値段:1冊100円
  • 販売場所:遊就館拝観受付・売店

靖国神社「遊就館」の建物について

造立年

  • 1931年(昭和6年)
設計者

  • 伊東忠太(設計顧問)、内藤太郎、柳井平八
建物の造り

  • 鉄筋コンクリート造
建築面積

  • 11,200㎡
    ※東京ドームや甲子園球場のグラウンド面積(13,000㎡)よりやや狭いくらいの広さ!

遊就館は1882年(明治15年)に開館しました。

当初はレンガ造の建物でしたが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊し、1931年(昭和6年)に再建されたのが現在の本館(旧館)で、西洋風・東洋風の意匠を取り入れた和洋折衷のデザインとなっています。

再建された遊就館は、緑色の銅板葺屋根、下半分が白い花崗岩貼り、上半分は黄土色のリシン塗り粗面仕上げという個性的な色・素材使いの外観が特徴的です。

設計は、靖国神社の石鳥居神門の設計もしている伊東忠太が担当しました。

靖國神社御創立130年記念の年だった2002年(平成14年)に全面改装が行われ、さらに、ガラス張りの玄関ホールを設けた新館が増設されています。

スポンサードリンク -Sponsored Link-

    

当サイトの内容には一部、専門性のある掲載があり、これらは信頼できる情報源を複数参照し確かな情報を掲載しているつもりです。万が一、内容に誤りがございましたらお問い合わせにて承っております。また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。

関連コンテンツ