靖国神社「本殿」

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靖国神社「本殿」

読み方

  • やすくにじんじゃ ほんでん
造営年

  • 1872年(明治5年)旧暦5月
再建・修造年

  • 1986年(昭和61年)〜1989年(平成元年)※昭和の大修築
建築様式(造り)

  • 神明造、前面1間向拝付き
大きさ

  • 桁行3間、梁間6間
屋根の造り

  • 銅板葺
御祭神

  • 246万6千あまりの英霊(戦死者など)
例祭

  • 4月21日~23日:春季例大祭
  • 10月17日~20日:秋季例大祭

※靖国神社では、中門鳥居の内部は写真撮影禁止となっています。当ページの本殿の写真は、靖国神社ホームページからお借りしたものです。




靖国神社「本殿」の歴史・由来

1869年(明治2年)、明治維新達成のため犠牲となった人々を祀るため、現在の靖国神社がある場所に「招魂社」が創建されました。

この招魂社が靖国神社の前身で、1879年(明治12年)に社号を「靖国神社」と改称しました。

ただし、招魂社の社殿は仮のもので、本殿は1872年(明治5年)旧暦5月に竣工しました。

設計は、尾張の建築家、八世・伊藤平左衛門(へいざえもん)が担当しました。

創建当初の本殿

大正から昭和にかけて、都内各地に大きな被害をもたらした1923年(大正12年)の関東大震災、および、1945年(昭和20年)の東京大空襲では、境内の一部に影響があったものの、本殿、拝殿など大部分の建物は無事に残りました。

その後、1986年(昭和61年)から1989年(平成元年)にかけての3年間で「昭和の大修築」が成されました。

最近では、2019年の創立150年に向けての記念事業として、回廊と平行して「本殿バリアフリー棟」を設置するバリアフリー化、本殿内部の冷房設置、暖房畳の交換などが行われ、2018年に完了しています。

靖国神社「本殿」の建築様式(造り)と見どころ

本殿は「神明造(しんめいづくり)」と呼ばれる様式の社殿で、手前にある拝殿と回廊で繋がっています。

参拝者は、普通、拝殿の前で拝礼するので、本殿を正面から見ることはできませんが、回廊の格子の隙間から覗き見ることはできます。

また、本殿には、昇殿参拝や諸祈願参拝などを申し込めば、誰でも中に入れます。

昇殿参拝などの申込みは、拝殿右手前の「参集殿」で受け付けています。

神明造は、弥生時代の高床式倉庫が起源とも言われる最古の神社建築様式で、伊勢神宮を始め、北海道神宮、東京大神宮、熱田神宮などでも見られます。

靖国神社の本殿は、神明造の社殿らしい、「直線的・平面的・シンプル」な建築です。

加えて、建物正面に向拝(こうはい・ごはい)と呼ばれる庇(ひさし)が付いているのが特徴的です。

神明造の社殿には、基本的に、以下のような特徴があります。

切妻造・平入りの建物

本を半開きにして伏せたような形の「切妻(きりづま)屋根」の建物です。

屋根の斜面が前後を向き、建物は奥行よりも横幅の方が長くなっています。

掘立柱を用いた高床式建築

礎石を用いず、地面に穴を掘って直接立てた柱が掘立柱(ほったてばしら)です。
※靖国神社の本殿は高床式風の建物ではありますが、基礎の上に造立されています。

また、靖国神社の本殿には、「唯一神明造」と称する特別な神明造として知られる伊勢神宮(内宮外宮)の各御正殿の屋根に見られるのと同じように、堅魚木(かつおぎ・鰹木)千木(ちぎ)が乗っています。

千木は、予め組んだものを屋根の上に乗せた「置千木(おきちぎ)」ではなく、屋根から突き出たような形状になっています。

伊勢神宮の唯一神明造と神明造の特徴について詳しくは、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。

「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」とは?「神明造(しんめいづくり)」とは??




本殿のここにも注目!①鏡

本殿の中にはほとんど何もありませんが、正面には、円い鏡が置かれています。

この鏡は、1877年(明治10年)の西南戦争戦没者の合祀(ごうし)臨時大祭に自ら御参列された明治天皇からの幣帛料(へいはくりょう:祭神に捧げるお金)で製作されたものです。

脚の部分から鏡の縁まで、壮麗な彫刻が施された大きな鏡です。

昇殿参拝や御祈祷の際は、ぜひご注目ください。

拝殿前からでも本殿の鏡が見えます。※写真はお借りしたものです※

本殿のここにも注目!②本殿前の月桂樹

本殿前には、中庭(ちゅうてい)と呼ばれる庭があり、敷き詰められた鹿島砂利はいつもきれいに整えられています。

中庭には、100年以上、靖国神社の本殿を見守り続ける月桂樹の木があります。

この月桂樹は、1905年(明治38年)に閑院宮載仁(かんいんのみや ことひと)親王が「戦没者の栄光を千載不朽に伝える」として手植えされたものです。

月桂樹は、勇士や勝者の冠(月桂冠)に用いられる木であり、栄光、勝利、栄誉のシンボルでもあります。

靖国神社「本殿」の御祭神

靖国神社は、幕末の戊辰戦争から第二次世界大戦終結までに、国内外の戦争で命を落とした人々の御霊(みたま・神霊)を「英霊」として祀る神社です。

靖国神社創建時には、明治維新の殉難者の御霊3588柱が祀られ、現在では246万6千あまりに及んでいます。

祀られているのは、例えば、以下のような人々の御霊です。

幕末の戊辰戦争(戊辰の役)・明治維新で朝廷側について戦死した人

  • 幕府側の人は祀られていません。
明治初期の佐賀戦争(佐賀の乱)や西南戦争(西南の役)で政府側について戦死した人

  • こちらも、西郷隆盛など反政府側の人は祀られていません。
幕末の安政の大獄などにより犠牲となった人、関係者

  • 坂本竜馬、吉田松陰、高杉晋作、橋本佐内 など
日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満州事変・日中戦争・太平洋戦争などで犠牲になった人

  • 戦死した軍人
  • 戦地で病気などにより亡くなった軍人
  • 戦場に赴いて亡くなった従軍看護婦・女学生
  • 学徒動員中、軍需工場で亡くなった学徒
  • 沖縄の地上戦に参加して戦死した鉄血勤皇隊やひめゆり部隊の隊員
  • 日本兵として徴兵されて戦死した朝鮮や台湾出身者
  • 終戦後のシベリア抑留中に亡くなった軍人・軍属 など
終戦後の極東国際軍事裁判で戦争犯罪人(戦犯)とされ、処刑された人や獄中死した人(昭和殉難者)

  • 東条英機、広田弘毅、小磯国昭 など

なお御神体は、「神剣と神鏡」とされています。




別格扱いの御祭神

靖国神社には、上記でご紹介したいわゆる戦死者の他に、以下の2人の皇族が祭神として祀られ、他の英霊とは別の神座(しんざ)が設けられています。

 北白川宮能久親王

北白川宮(きたしらかわのみや)の2代目・北白川宮能久親王(よしひさ しんのう)は皇族・陸軍軍人で、東京・上野の寛永寺貫主も務め、輪王寺宮とも呼ばれました。

皇族でありながら戊辰戦争で幕府側につき、明治維新後は蟄居(ちっきょ:自宅謹慎)を申し付けられて伏見宮に預けられ、一時親王の身分を失いましたが、その後許されて北白川宮を相続しました。

1893年(明治26年)に陸軍の第4師団長となり、日清戦争には近衛師団長として出兵、そして1895年(明治28年)、日清戦争によって割譲された台湾征討近衛師団長として抗日勢力の鎮圧にあたりましたが、現地でマラリアにかかり、49歳で亡くなりました。

能久親王は皇族としては初めて外国での殉職者となり、台北に台湾神宮(台湾神社)、終焉の地・台南に台南神社が創建されました。

このほか、台湾各地に能久親王を主祭神とする神社が創建されましたが、敗戦後は破却されたため、1957年(昭和32年)に靖国神社に合祀されました。

東京都千代田区の皇居に隣接する北の丸公園には、馬にまたがった姿の銅像が建てられています。

 北白川宮永久王

北白川宮永久王(ながひさおう)は能久親王の孫で北白川宮の4代目です。

同じく陸軍軍人であり、貴族院議員も務めましたが、陸軍砲兵大尉としてモンゴル方面へ出征し、演習中の航空事故に巻き込まれ、31歳の若さで亡くなりました。

永久王の父、3代目の成久王(なるひさおう)もパリでの自動車事故で若くして亡くなっており、3代続いて若いうちに海外で死去するという不幸が起こったことから、北白川宮は「悲劇の宮家」とも言われます。

永久王は1959年(昭和34年)、靖国神社に合祀され、境内の遊就館には、胸像などが展示されています。

靖国神社「本殿」の場所

画像引用元:靖国神社

靖国神社の本殿は、拝殿の奥にあります。

第一鳥居第二鳥居中門鳥居をくぐった先が拝殿で、通常は拝殿の前から拝礼します。

靖国神社境内全域の案内図は、靖国神社ホームページでご覧になれます。

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