靖国神社「元宮」「鎮霊社」

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靖国神社「元宮」「鎮霊社」

こちらのページでは、靖国神社の「元宮」と「鎮霊社」についてご紹介します。

現在、一般の参拝者は足を踏み入れられないエリアにある元宮と鎮霊社ですが、どのような歴史・由来があるのでしょうか?

靖国神社「元宮」

創建年

  • 1863年(文久3年)

※1931年(昭和6年)に靖国神社へ奉納

例祭日

  • 4月1日

幕末の1863年(文久3年)、国学者福羽美静(ふくばびせい/よしすず)が中心となり、徳川斉昭、吉田松陰、橋本佐内など、安政の大獄や桜田門外の変、坂下門外の変で死罪になったり、獄中や蟄居(ちっきょ)中に命を落とした維新の志士46人の魂を慰める目的で、京都祇園に小祠(招魂社)が建立されました。

その後、1931年(昭和6年)に福羽家から靖国神社に奉納され、靖国神社の前身である東京招魂社のさきがけとも言うべき由緒のある社だということで、元宮という名前で祀られることになりました。




靖国神社「元宮」の創始(歴史・由来)

東京招魂社は、戊辰戦争の殉難者(国家や宗教の大事により犠牲となった人)を祀るため、1869年(明治2年)に創建されました。

このように、幕末の殉難者を祀る「招魂社」と呼ばれる神社は全国に建立され、その最も早い例の1つが、上述の、福羽美静が京都に建てた小祠でした。

幕末の1862年(文久2年)12月、1860年(安政7年)の桜田門外の変やその前年まで行われた安政の大獄による犠牲者の罪名除去と慰霊を朝廷が幕府に指示し、幕府によって大赦令(恩赦)が出されたことにより、勤王派の志士たちの慰霊を公然と行えるようになりました。

そこで福羽美静らは殉難者の慰霊祭を行い、翌年には京都祇園に小祠が創建されました。

しかし、直後に政情が不安定化したことから、幕府の目をはばかって、この招魂社は取り壊され、霊璽(れいじ:御霊の宿る依り代)のみが福羽邸に移されました。

その後、1931年(昭和6年)に靖国神社に奉納されるまで、代々守られることになります。

靖国神社と「元宮」の関係

一方、明治新政府は1868年(明治元年)、ペリーが来航した1853年(嘉永6年)以来の国事殉難者を祀る招魂社を京都東山に建立することに決めました。

しかし、戊辰戦争が翌年まで続き、その間に明治天皇がお移りになったことにより事実上の奠都(てんと:都をある地に定めること)となったため、まずは戊辰戦争の犠牲者を合祀する招魂社を東京に建立することとなりました。

こうして創建されたのが靖国神社の前身となる東京招魂社で、後に1853年(嘉永6年)までさかのぼって殉難者の御霊を合祀しています。

つまり、靖国神社の創始と、現在「元宮」と呼ばれている小詞には直接の関係はなく、福羽が建てたものが靖国神社の「元」になったわけではありませんが、「幕末の殉難者を祀る」という思想的には繋がっていると言えそうです。

福羽美静について

福羽美静は、津和野藩(島根県)出身の国学者で、幕末は津和野藩主・亀井茲監(かめいこれみ)に重用されました。

明治時代には明治天皇の侍講(じこう:講義を行う職)、国憲調査委員、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の摂理(校長)などを務め、貴族院議員にもなっています。

靖国神社「鎮霊社」

創建年

  • 1965年(昭和40年)
例祭日

  • 7月13日

鎮霊社は、戦争・事変で亡くなり、靖国神社(本殿)に合祀されない国内外の人々を慰霊するために建てられました。

靖国神社では、幕末のペリー来航の年(1853年)から第二次世界大戦までの戦没者が「英霊」として祀られています。

ただ、本殿に合祀されるにはいくつかの基準があり、例えば、幕末・明治維新の頃の人物であれば「新政府側の人」のみとなっています。

また、戦没者と言っても、第二次世界大戦中、空襲や沖縄の地上戦で亡くなった一般の人々は祀られていませんし、日本兵として徴兵された朝鮮や台湾の人々を除き、外国人も対象となっていません。

そこで、このような事情から本殿に合祀できない御霊を慰めるためにできたのが、この鎮霊社というわけです。

靖国神社では、本殿に英霊を合祀する際は、霊璽簿(れいじぼ)にその名を記しており、すべての英霊(祭神)の名前が記された霊璽簿が、本殿裏の霊璽簿奉安殿に納められています。

一方、鎮霊社に祀られる御霊は個々の名前まで特定されるものではなく、二座に分けられた神座(しんざ)の一方には日本人、もう一方に外国人の御霊が祀られているとされています。

つまり、鎮霊社の御祭神について特定されているのは、「ペリー来航の1853年から戦後の1963年(昭和37年)までに、戦争や戦乱が原因でなくなった人」ということだけです。

鎮霊社創建の経緯(歴史・由来)

鎮霊社は、筑波藤麿(つくばふじまろ)宮司の発案で、1965年(昭和40年)に創建されました。

筑波宮司は1963年(昭和38年)9月から10月にかけて、「核兵器禁止宗教者平和使節団」の一員として欧米諸国を回りました。

その間、ローマ教皇を始めとする世界の宗教界の要人や国連事務総長などとの面会を通して、「世界の戦没者を祀らずして、世界平和は実現できない」と考えたのです。

また、歴訪した諸国で無名の戦没者たちが眠る墓などを見たことも、これまでの英霊合祀とは違う慰霊の在り方を通じての世界平和に思いを巡らせるきっかけとなりました。

筑波宮司は帰国後、靖国神社内からも反対意見が出る中、強い意志を持って鎮霊社を建立しました。

靖国神社では、本殿の御祭神が「奉慰顕彰(慰霊すると共に功績を広く知らしめ称える)」の対象であるのに対し、鎮霊社の御祭神は単なる「奉慰」の対象であるとして、両社の御祭神の扱いを区別しています。

鎮霊社御祭神の例

  • 会津の白虎隊 ※戊辰戦争幕府側の戦没者
  • 西郷隆盛 ※西南戦争反乱軍側の戦没者
  • 湾岸戦争の犠牲者
  • コソボ紛争の犠牲者

なお、戦後1949年(昭和24年)以降、靖国神社では、太平洋戦争で亡くなった方の中で、上記のような事情から本殿に合祀できない御霊を慰霊するための「諸霊祭」と呼ばれる慰霊祭を毎年行っていましたが、鎮霊社の創建により廃止となりました。




靖国神社「元宮」「鎮霊社」には近づけません

元宮・鎮霊社は2006年(平成18年)から一般参拝が可能になり、2社の前まで行ける参道が設けられていました。

しかし、人目に付きにくい場所にあって防犯上良くないという事情もあり、元宮・鎮霊社のエリアは2013年(平成25年)頃には「特別に申し出た人のみが入れる」場所になり、まもなく、完全に侵入禁止となりました。

2014年(平成26年)12月31日には、鎮霊社付近で放火事件があり、鎮霊社の一部が焼ける被害が出ています。

このような経緯から、2019年現在、元宮・鎮霊社は、離れたところから辛うじて建物があることを確認することができる程度で、かつて開いていた扉には鍵がかかっており、近づいての参拝はできません。

参拝は、柵の外からとなります。

手前の鳥居の奥の策の向こう側に、元宮の鳥居が見えます。

ですので、印刷物・出版物の中にはこの2社をそもそも紹介していないものもあり、例えば2019年(令和元年)の「靖國神社参拝のしおり」の境内図には、名称や説明は付されていません。

2019年「靖國神社参拝のしおり」より

それでも、本殿近くに祀られ、長年守られてきた2つの小祠は、靖国神社にとって重要な存在であることは言うまでもありません。

靖国神社「元宮」「鎮霊社」の場所

元宮と鎮霊社は、本殿拝殿を結ぶ回廊の南側に並んで建っています。

回廊側が元宮、外側は鎮霊社です。

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