【江戸時代の愛宕山山頂(愛宕神社)の様子(画像or古写真など)】月見・花見の名所!茶店と楼門もあった!

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これは現在も同じでゴンすが、愛宕山山頂は江戸時代は周辺一帯が一望できたことから、数々の絵師たちによって描かれてい‥‥申す。

それら絵図の中には出世の階段のみならず、朱色の楼門や茶店、物見台まで描かれていまする。

愛宕神社や愛宕山のことを調べていると、ちょーっと文字を入力する手が止まったほど魅了されたので、江戸時代の愛宕山の様子が描かれた絵図たちをご紹介しておきましょう!

以下、画像引用先:国立国会図書館

作品名:江戸名所図会「山上 愛宕山権現 本社図」

この絵図を見れば分かるように江戸時代の愛宕神社は神仏混淆の時代であったため、境内にはお堂があった。

左から「弘法大師」「大黒」「額堂(絵馬堂)」「弁天」「春日大神宮/八幡」「太郎坊大権現」「人丸(人丸神社のことだと思われる)」。

この絵図が鳥瞰図で描かれているので、御社殿の形も一望できる。拝殿から成る権現造であることも分かる。「太郎坊大権現」は現在の「太郎坊社」、「大黒」というのが「えびす大黒天社」のことであろぅ。ふぉっふぉっふぉっ。

他に仁王門(楼門)と鐘楼(梵鐘)も見える。ちなみにこの仁王門の下に男坂(出世の階段)がある。

この絵図の太郎坊大権現の場所には、現在、社務所が建ち、社務所前には弁天池と厳島社(弁天)がある。現在の女坂のあたりは空き地ような場所があるが、往時は茶屋と稲荷社があったことが記されている。

また、この稲荷社も本殿よりも大きな拝殿が備わる様子が描かれている。ちなみにこの稲荷社、おそらく現在授与所の奥にある「福寿稲荷社」と思われる。

この絵図の女坂の形状は左方へ大きく湾曲している。現在の女坂はこの部分はストレートである。そこから徐々に男坂の方へ向けて右方へ湾曲していく形状。

ちなみにこの頃の男坂は68段と記されていることから、現在と段数が20段近くも異なる。これは時代を下りながら改修された可能性も考えられる。

作品名:東京名勝図会「愛宕山 見晴の図」

  • 作者:3代目・歌川広重
  • 描かれた年代:明治3年

この絵図は出世の階段を上がってきてすぐの左側あたりを描いたものであろぅ。ふぉっふぉっふぉっ。

ちょうど現在の「あたご茶店」が建つあたりには、四阿(東屋)のような四方が吹き放ちの建物があったのだった。ふぉっふぉっふぉっ。

ただ、単なる四阿ではなく、盆に乗せられた緑色の物体が見えることから、これは餅と考えて茶屋があったのだろぅ。ふぉっふぉっふぉっ。

実は、現在までに伝わる数々の古文書の記録では、この当時の茶屋も現在と同様、やはり「あたご茶屋」という名前だったそうな。このことは当時、愛宕神社で毎年正月3日に行われていた「強飯式(ごうはんしき)」という仏式の儀式に「あたご茶屋」の主人が参加していたことが記されていまする。ふぉっふぉっふぉっ。

ちなみに左端にわずかに見えるの朱色の物体は楼門。

往時は出世の階段を上がってきたところに現在のような石鳥居ではなく、絵図に見られるような朱色の楼門が建っていたのであろぅ。ふぉっふぉっふぉっ。

作品名:東京名勝図会「愛宕山 見晴の図」

  • 作者:歌川広重
  • 描かれた年代:江戸時代中期?

この絵図は女坂の手前から描いたものだと思われる。中央に見えるのが物見台を兼ねた四阿(東屋)。

上掲の絵図と合わせると楼門の左右、現在でいうと出世の階段の左右に物見台のようなものが建てられていたことになる。ふぉっふぉっふぉっ。

右端に見える朱色の建物が楼門。その楼門の中央間口の下に86段から成る出世の階段が控える。

東都名所尽 愛宕山遠望図

  • 作者:英泉(溪斎英泉)
  • 描かれた年代:1830年〜1843年頃(天保年間)
  • 版元:万屋吉兵衛

この絵図も上記と同じく、女坂の手前から描かれたもの。

右端に暖簾がかかった店の存在が確認できる。これが上述した噂の噂の「あたご茶屋」であろぅか?

実はこの愛宕茶屋は女坂の上にあったとされることから、ほぼ間違いないと思われる。

だとすれば、当茶屋で注文したものを物見台を兼ねた四阿で景色を見ながら食べられるようになっていたのであろぅ。ふぉっふぉっふぉっ。


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東都 愛宕山の風景

  • 作者:一陽斎豊國(2代目 歌川広重)
  • 描かれた年代:江戸時代後期

この写真を見れば分かるように江戸時代後期には、現在のような林立するビル群がなかったので東京湾が一望できたのでしょう。

その様子がよく描かれている絵図。上部にはプカプカと平和そぅに、思わず滅ぼしたくなるような白い帆を張った船コロがいくつも描かれている。”船コロ”てなんや?

江戸時代の愛宕山と愛宕権現(愛宕神社)の鳥瞰図

いったぃ、このような鳥瞰図をどの場所・どこの位置から描いたのであろぅ。風が吹けばグラグラとするような即席・櫓を組んだのか?

まさか、江戸時代にヘリコプターなどがあろうワケがなぃのに。

まぁ、ひょっとすれば、DBの猛者共がごく普通に使う舞空術や、幼女戦記のような魔導が使えた者がいたのかも知れなぃな。

ん?ひょっとして宇宙人と友達になってUFOのフぉ〜内(訳:車内)から描いたのであろぅか?UFOの数える単位ってなんての? ..誰かおせーて

愛宕山は桜の名所でもあった

江戸時代の愛宕山は春になれば桜が見れる名所でもあったよぅだ。人々が花見する様子が描かれている。

物見小屋の妻側(屋根)の向きが上記の絵図とは異なる。‥‥なんでだろぅ。う〜ん、なんでだろぅ。なにがなんでだろぅ。…..こんな芸人おったな

愛宕山は月見ができる名所でもあった

愛宕山は都内屈指の高さを持つことから、周辺の一帯が一望できた。言い換えると付近周辺一帯では、月にもっと近い場所とも言える。

現在のように高層ビル群もないので月もさぞかし観やすかったのだろぅ。

物見台もあったことから、秋も深まると月見酒片手に月見団子をクソなお口へ向けてパゴっとブチ込み、アンがアンが‥としていたのであろぅ光景が目に浮かぶ。なんとも羨ましきかな‥ムほほほほほっ。一休さんの将軍さま?

楼門(仁王門)

江戸時代はこの絵図に見られるような間口3つの鮮やかな朱色の楼門が建っていた様子がコンコンと描かれている。….”コンコンと描く”てどゆ意味や?

気になるのは左右の裏表の間口に収められていたものだが、ひょっとすると現在の出世の階段の両脇に祀られている狛犬が置かれていた?‥‥‥いや、年代が合わないか。もしくは仁王像があったのか?

冒頭の図会を見れば「仁王門」と書かれているので、おそらく仁王像が置かれていたのであろぅ。ふぉっふぉっふぉっ

特に興味深いのは楼門の腰組に並べるようにして吊られている奉納絵馬。現存しているのであればぜひ見てみたぃところ。

宮島の千畳閣(豊国神社)のように、複数の奉納絵馬を見ることで、その時代のことがよく分かる。

【オマケ】明治時代の愛宕山山頂の様子

東京名勝図会愛宕山1890(明治23)年

引用先:港区役所

平成23年(2011年)10月21日号の広報みなとに掲載された明治時代の古絵図でゴンす。

この絵図はおそらく1890年頃の出世の階段周辺の様子を描いたもの。

この頃になるとすでに江戸時代にあった楼門脇の左右に軒を連ねていた「四阿(東屋)」風の物見台は消え失せ、それどころか、シンボルともなった楼門もない。

ちなみにこの愛宕山には、1886年(明治19年)に公園が造られた。写真両はしに見える人影はベンチのようなものに腰掛け、出世の階段の両はしには洋式の街灯が見える。

この街灯は「瓦斯灯(がすとう)」と呼ばれるガス燃料を使用した街灯である。瓦斯灯は明治5年(1872年)、開港地である横浜に設置されたのが最初。東京は明治7年に金杉橋(芝/港区)〜京橋(銀座)までの間の銀座通り沿いに設置された85基が最初。

文明開化で華やいだ明治初頭の様子がよく描かれているといえよぅ。ふぉっふぉっふぉっ

⬆️ガス灯(湯島天神/湯島天満宮)より

⬆️湯島天神の境内にあるガス灯は今も現役で使用されてい‥‥申す。

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