靖国神社「大村益次郎銅像」

スポンサードリンク

靖国神社「大村益次郎銅像」

造立年

  • 1893年(明治26年)
制作者

  • 大熊氏廣
大きさ(高さ)

  • 約12m

靖国神社「大村益次郎銅像」の歴史(由来)

靖国神社の大村益次郎像は、1893年(明治26年)、大村益次郎の門人らにより造立されました。

もともと日本には、仏像こそあれ、人間がモチーフの銅像を造る文化はありませんでした。

しかし、明治時代の欧化政策に際しヨーロッパを視察した人々が、視察先の街並みと銅像に感銘を受けたことから、日本にも銅像を建てることとなり、西洋の鋳造技術を取り入れて最初にできたのが、こちらの大村益次郎像でした。

このことから、靖国神社の大村益次郎像は日本初の西洋式銅像と言われ、また、現代では、上野恩賜公園の西郷隆盛像、皇居外苑の楠木正成騎馬像と共に、東京三大銅像の1つにも数えられています。

大村益次郎像は、当時銅像が珍しかったこともあり、またたく間に東京の新名所となり、絵葉書になったり、錦絵に描かれたりしました。

「靖國神社 大村大輔之肖像」

こちらの錦絵にも見えるように、銅像設置当初は、像の周りに大砲8門が配置されていましたが、1943年(昭和18年)に撤去され、陸軍省に献納されました。

現在は、基壇に鉄柵の跡のみが残っています。

「靖國神社図」に描かれた明治時代の境内の様子 画像印象元:靖国神社Instagram「靖國神社にまつわる150のこと」

「陸軍の父」大村益次郎

大村益次郎は長州藩出身の医師、西洋学者、兵学者で、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らと共に維新の十傑の1人にも数えられます。

1866年(慶応2年)の第二次長州征伐で幕府軍を破り、戦術家として脚光を浴びた大村益次郎は、戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、東北の平定や上野戦争などで活躍しました。

明治政府では、1869年(明治2年)6月、軍事・国防をつかさどる機関として軍務官から改編された「兵部省」を設置し、その実務トップである初代大輔(たいふ)に大村益次郎が任命されました。

大村は、諸藩を廃止した上で政府直属の軍隊を創設し徴兵令を制定するなど、軍制を洋式に改めることを主張し、フランス陸軍やイギリス海軍を模範とした兵制改革を行いました。

こうして、後の日本陸軍の方向性を次々と形作っていった大村は、「日本陸軍の父」とも呼ばれます。

兵部省はその後1872年(明治5年)に廃止され、陸軍省と海軍省が新設されました。

なお、大村は西洋の軍制を手本とする改革で鎖国を貫こうとする攘夷主義者の反感を買い、これが暗殺未遂につながることとなりました。

靖国神社に大村益次郎銅像ができた経緯

では、なぜ、大村益次郎像が造立されたのが靖国神社だったのでしょうか。

それは、大村が、靖国神社の前身である東京招魂社の鎮座地選定に関わったからです。

戊辰戦争の戦没者を祀る東京招魂社の創建に際しては、創建場所を選ぶため、大村がこの地を視察した記録が残っています。

1869年(明治2年)6月、招魂社は無事に創建されましたが、その年の9月、大村に反感を持つ旧氏族に京都出張中の宿で襲われ重傷を負い、12月、その傷が原因で、転院先の大阪で亡くなりました。

1882年(明治15年)、伯爵山田顕義(やまだあきよし)らにより銅像の建立が発議され、宮内省からの下賜金もあり、1885年(明治18年)、工部省で皇居造営などに従事していた彫刻家・大熊氏廣(おおくまうじひろ)に塑型の製作が委嘱されました。

1890年に工部省が廃止となり内務省に移った後、大熊は間もなく辞職し、彫刻研究のためヨーロッパ留学へ出発します。

留学先ではパリ美術学校やローマ美術学校で学んだり、巨匠ジュリオ・モンテヴェルデに入門したりし、1981年末に帰国後、エドアルド・キヨッソーネが描いた大村益次郎の肖像画を参考に、遺族らにも取材も行いながら、大村益次郎像の制作にあたりました。

キヨッソーネの大村益次郎の肖像画

そして銅像制作の発議から11年経った1893年(明治26年)、ついに、靖国神社に大村益次郎像が誕生したのです。

エドアルド・キヨッソーネとは

明治時代、いわゆる「お雇い外国人」として政府に雇用されたイタリアの画家・版画家で、明治天皇や西郷隆盛などの有名な肖像画を手掛けています。

キヨッソーネが描いた西郷隆盛

スポンサードリンク -Sponsored Link-






靖国神社「大村益次郎銅像」の見どころ

銅像の大村益次郎は、筒袖羽織(つつそでばおり)に短袴(たんこ)という身なりで左手に双眼鏡を持ち、東北の方を望んでいます。

この姿は、江戸城の富士見櫓から、上野に籠る彰義隊を凝視している姿と言われています。

背の高い台座の上に像が置かれているので観察するのは大変ですが、細部にまでこだわりが光る造形、そして大村益次郎の凛々しい表情に、ぜひご注目ください。

銅像の台座の文章は、大勲位公爵三條實美(さんじょうさねとみ、三条実美)による大村益次郎顕彰文です。

三條實美は、戊辰戦争中、上野戦争の軍議において、彰義隊の征討を主張し慎重派と対立していた大村益次郎を支持していました。

銅像の台座部分
江戸城富士見櫓

江戸城の富士見櫓は、関東大震災で倒壊したのちに修復されてはいますが、江戸城本丸で現存する随一の櫓です。

櫓とは倉庫や防御の役割を持つ建物ですが、富士見櫓は火災で焼失した天守閣の代用としても利用され、将軍がここから両国の花火を鑑賞したとも言われています。

江戸城富士見櫓

なお、大村益次郎像は、2018年(平成30年)に美装工事が行われて汚れやさびが落とされ、かつての美しい姿に戻っています。

高さ約20mの第一鳥居(大鳥居)や、約15mの第二鳥居に迫る高さ12メートル(台座含む)の像で、東京の名所として有名になったというのもうなずける、抜群の存在感を示しています!

美装工事前の大村益次郎銅像

靖国神社「大村益次郎銅像」の場所

大村益次郎像は、第一鳥居(大鳥居)第二鳥居の間にあります。

第二鳥居をくぐると神門があり、その先に中門鳥居拝殿があります。

スポンサードリンク -Sponsored Link-


    

当サイトの内容には一部、専門性のある掲載があり、これらは信頼できる情報源を複数参照し確かな情報を掲載しているつもりです。万が一、内容に誤りがございましたらお問い合わせにて承っております。また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。

関連コンテンツ