実は出世運・金運【爆爆UP】のパワースポット!心光院(東京都港区)の歴史(年表)・由来や境内の様子・見どころを解説!

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心光院は東京タワーから徒歩5分圏内に位置する神社であり、室町時代に創建されたという由緒ある歴史を有した寺院です。

境内はそれほど広くはありんせんが、境内の見どころとして「龍蛇」を祀った不思議しぎしぎ摩訶不思議なお堂があり、なんでも参拝すると出世運・金運UPのご利益があると噂されています。

また、付近の芝公園に鎮座する某TV番組で紹介されて話題を呼んだ「蛇塚」は当院のこの龍王堂とは深い関係があり、双方をお参りすることで出世運・金運が【爆アップ】すると評判のようです。

以下では少し謎めいた心光院の歴史(年表)や境内見どころをご紹介しています。




心光院の境内の見どころ

心光院入口の石碑

石碑の刻銘

表側には「浄土宗 心光教院」。

裏側には「昭和29年10月 建立」「住職 学瑛」「副住 祢真」とあります。

石碑後方の『こだわり捨てて 心のびやか』と書かれた額縁がなぜか気になる今日この頃‥。心に染み入る。‥1本取られた。意味不明

心光院・表門【登録有形文化財】

造営年

1743年(寛保3年/江戸時代中期)

再建年

1804年(文化元年/江戸時代後期)

1950年(昭和25年)※移築

建築様式(造り)

木造 四脚門 1棟

屋根の造り

本瓦葺

大きさ

間口2.8m

登録有形文化財指定年月日

2001年(平成13年)11月20日

表門の歴史

江戸時代

この表門は1743年(寛保3年/江戸時代中期)に造営されたとされる心光院の表玄関ともなる門です。

心光院は増上寺の学寮として1393年(明徳4年)に創建していますが、この当時にはこのような表門はなく、単なる学寮だったと伝えられています。

心光院が寺院として成立したのが、1695年(元禄8年)とされ、台徳院(2代目秀忠公)の位牌が奉安されるようになってから以降のことであり、このときに正式に増上寺の塔頭に昇格しています。

港区に伝わる江戸時代の古地図を見れば分かりますが、心光院は当地に名前がなく、江戸時代〜昭和初期頃まで赤羽橋付近に移転していたようですが、この表門は1743年に造営されたと伝えられていることから、心光院が赤羽橋付近に在った頃に造営された門ということになりんす。

また、この表門からは4枚の棟札が見つかっており、最古のものは1804年(文化元年)に修理をした記録が記されたものだということが明らかにされています。

昭和時代

この表門は、昭和20年(1945年)の太平洋戦争の東京大空襲における被災を奇跡的に免れており、その後、1950年(昭和25年)になってから心光院が現在地に移転してきた際、この表門も移築されています。

なお、江戸時代の心光院の場所は、1700年代の古地図を見る限りでは金地院の境内になっています。

表門の特徴

四脚門

門の基軸となる本柱(ほんばしら)が、人の通路となる間口をまたいで2本ありんすが、各本柱の前後に1本ずつ柱を据えます。これを「控え柱(ひかえばしら)」と称します。これで合計3本になったワケです。

これがもう片方の柱にも据えられるので合計で3×2=6本になりんす。

脚が6本なのに「四脚門」と呼ばれる理由は、通常、門の柱を数えるときに本柱2本を含めないからです。

二軒吹寄垂木

吹寄垂木(ふきよせたるき)とは、あまり見かける機会は少ない造りですが、垂木を2本ずつ寄せて抜いていく(組んでいく)技法です。上掲、写真をご覧になれば分かります。

二軒とは二段と書いた方が分かりやすいかも知れませんが、吹寄垂木が上下2段になっていますが、これを「二軒(ふたのき)」と言います。

「三軒(みのき)」という稀有な垂木組みもありんす。

絵様肘木(実肘木)

⬆️実肘木(さねひじき)の渦巻き状の絵様

のし瓦 側面に見える徳川紋

⬆️軒丸瓦は古より伝わる「三つ巴紋」

虹梁?‥のような頭貫

この門をはじめて見た時に思ったのが、これは虹梁か?‥などと思っちまぃやしたが、左右両端に虹梁に見られるような絵様が施されていることから、虹梁に見えるのですが、これは頭貫です。

この絵様は18世紀の特徴を色濃く示すものとされ、江戸時代後期の増上寺塔頭の門の建築様式を伝える貴重な遺構であることから、2001年(平成13年)11月20日に国の登録有形文化財の指定を受けています。

頭貫の獅子の木鼻

蟇股(かえるまた)

⬆️蟇股は板蟇股。古式。

石造りの蹴放し(けはなし)

⬆️間口の石造りの蹴放し(けはなし)




心光院・本堂

造営年

不明
推定:1695年(元禄8年/江戸時代初期)

再建年

1950年(昭和25年)※移築

1955年(寛保3年/昭和時代中期)

建築様式(造り)

入母屋造、木造平屋建 1棟

屋根の造り

桟瓦葺

建築面積

107㎡

設計者

篠田弘

施工者

大工棟梁:井上末吉

登録有形文化財指定年月日

2017年(平成29年)5月2日

本堂の歴史

上述したように、心光院は増上寺の学寮として1393年(明徳4年)に創建していますが、この当時は本堂と呼べるものはなく、増上寺の学寮だったと伝えられています。

1695年(元禄8年)に、台徳院(2代目秀忠公)の位牌が奉安された後に増上寺の塔頭として寺院に昇格しており、この時にはじめて心光院やその本堂と呼ばれるようになったことになりんす。

昭和時代

この本堂は残念ながら空襲で被災し、1955年(昭和30年)に再建(新造)されています。ちなみに心光院は1950年(昭和25年)に区画整理のため、現在地に移転していますので、現在地にて再建されたことになりんす。

本堂の内部の様子

外陣と内陣があり、内陣には須弥壇と、その上にお厨子が置かれ、その中に御本尊である阿弥陀如来坐像が安置されています。

ちなみにこの内陣の柱は「来迎柱」と呼ばれる円柱が据えられており、ヒノキ材が用いられています。

また、本尊の光背はステンドグラス製という大変、珍しいものです。

心光院・本堂の特徴・見どころ

本堂の扁額

「心光茶若」?「心光菊若」?‥と書かれた扁額。

本堂の両開き扉と徳川紋

扉は桟唐戸(さんからど)で内部には板ではなく、徳川紋が描かれた線入りガラスがハメ込まれています。ふふぅ〜んゴージャス‥

堂舎にこのような線入りガラスを見る機会はあまりないので、新鮮味があります。

線入りガラスを用いる理由は火事の際、ガラスの飛散を防止する目的がありんす。故に別名で「防火設備用ガラス」とも呼ばれます。

明治後期〜大正初期をイメージさせるモダン建築

本堂の大きな特徴となるのが、西面に設けられた大正建築の意匠を感じさせるレトロ感満載の格子ガラス窓です。

全体的な造りを見たかぎり、近代建築と仏閣建築との融合をテーマとしたような意匠が見受けられます。

う〜ん。それにしても東京タワーとのコントラストが映える!ウぅ〜ん

龍王堂

冒頭でもご紹介したように、この龍王堂こそが、心光院のパワースポットと言われ、出世運・金運が【爆アップ】する人気スポットとなっています。

この龍王堂は1966年(昭和41年)、神成志保という女性に由来して造営されたものです。

なんでもこの神成志保氏は秋田県の出身だそうで、ある日のこと、自宅で蛇の抜け殻を発見し、以来、毎夜毎夜、夢に白蛇が現れたそうです。

最初は気持ち悪く思い、かなり気に病んでいたそうですが、蛇の夢を見るようになるうちに仕事運や金運に恵まれるようになったとのことです。

仕事は順風万風で軌道に乗り、ついには社長になって自社ビルを持つことほどになったそうですが、ビルを建てる度に毎度々々、必ず現場からベビの抜け殻が出てきたそうです。

これを何かの暗示と捉えた同氏は気学の達人に事情を話して鑑定をお願いしたらしいのですが、この結果、芝公園に塚を築いて蛇の抜け殻を祀ることを薦められたようです。

ただ、公園内であったために個人が簡単に塚を築くことができず、そこで付近に位置する当心光院の住職にお願いして公園内に塚を築いてもらったとのことです。

現在でも、東京タワーの目の前にある芝公園の敷地内には「蛇塚」が残されており、この一件に深い縁を感じた住職も院内に龍王堂なるお堂を建て、神成志保氏の娘である神成澪氏が造像したとされる蛇の置物(御神体)をその龍王堂に祀りたてています。

現在の龍王堂は2016年(平成29年)に新造されたもののようです。これが現今に見られる龍王堂の由来と姿です。

蛇の置物(御神体)

この御神体こそが、神成志保の息子である神成澪氏が造像したものになるようです。

⬆️ぱっちりウルルンお目目がキュート

なんでも神成澪氏は人形作家であり、陶芸家としても著名な方のようで、当の志保氏の方も新宿の郷土料理店「秋田」の元経営者だったとのことです。(現在はお2人とも故人)

以上、これらのお話は嘘のように思えますが、某TV番組でも紹介されており、この龍王堂と付近に位置する芝公園(もみじ谷)内にある蛇塚を併せて参拝することで、仕事運&金運が『爆アップ』すると評判になっているとのことです。

特に蛇神の縁日となる「巳の日」や「己巳の日」は、芝公園の弁天池の池畔に建つ宝珠院、東京タワー前の芝公園内にある蛇塚、そしてこの龍王堂へ参拝する人も相当数いるようです。なんといっても宝珠院は創建時より蛇を神使として従える「秘仏の弁財天像」を奉斎しています。

「巳の日」や「己巳の日」はこれら近隣3つのロケーションを参拝して、ぜひ!霊験あらたかな出世運・開運の爆アップをクソがホンマに飛び出すほど祈願してみてください!




お竹堂

このお竹堂は上述、蛇塚を築いた秋田出身の神成志保氏の特志によって建立された御堂になりんす。

お竹とは、生まれながらにして大いなる慈愛の心を持った秋田県の女性のことであり、心光院のお竹堂の脇には、お竹伝説については記された以下のような案内板が建てられています。

看板の内容
お竹如来の縁起

お堂にはお竹如来像および流し板をまつる
秋田県能代市出身の神成志保氏により 昭和41年(1966)に一堂が建立され 平成29年にこれを再建した。

寛永年間(1624~1643) 江戸大伝馬町の名主 佐久間勘解由家の見習子お竹は、庄内(山形県)出身にして生まれつき慈しみの心が深く、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤の隅に網をおいて、洗い流しの飯が溜まったものを食料とした。

信仰厚く常に念仏を怠らず、大往生をとげたという。
この話を聞いた5代将軍綱吉の生母・桂昌院は、いたく心を動かされ、金襴の布に包まれた箱にお竹の流し板をおさめて、増上寺別院であった心光院に寄進し、その徳をたたえられた。

(桂昌院の御詠歌)
ありがたや光と共に行く末は
花のうてなにお竹大日

他にも、小林一茶の俳句にもお竹が登場するものがありんす。

雀子やお竹如来の流し元 雪の日やお竹如来の縄だすき

このようにお竹の話は後世で有名になり、芝居や錦絵、小説などに度々、題材にされたとのことです。

桂昌院が金襴布に包んだ箱と流し板を心光院に寄進した理由

考えて見れば、お竹と心光院の繋がりが見えて来ないので、桂昌院がお竹の御霊を弔うために箱や流し板を心光院に奉納する理由がみえてきませんが、これについてはなんでも、お竹の奉公先であった佐久間家の菩提寺がこの心光院だったようです。

すなわち、お竹も心光院を見知っていたことになりんす。

その縁あって、お竹という人物の生涯に心打たれた桂昌院は、お竹の御霊を弔うために下記のお竹大日如来像と、お竹が使用したという流し板を金蘭の布で包んで箱に入れ、寄進・奉納したのでしょう。

お竹大日如来像

お竹はやること為すことすべて神仏の行いに例えられたことから、いつしか大日如来の生まれ変わりと言われるようになります。

本像はそんなお竹をモチーフとして、桂昌院の発願により、造立された大日如来像です。

なお、現在の本像は新しく造像されたものです。桂昌院が奉納したお竹如来像は太平洋戦争の空襲にて焼失しています。

お竹流し板【有形民俗文化財】

心光院の寺伝によれば、お竹の菩提を弔うため、黒漆塗りの箱とそれを覆っていた金蘭の袋、それとお竹が実際に使用していた流し板が当院に奉納されたようです。

お竹の流し板は1992年(平成5年)3月23日に有形民俗文化財の指定を受けています。

馬頭観音像

心光院は江戸幕府2代目将軍・秀忠公の位牌を安置する寺院となっており、また、霊廟内で永眠する秀忠公の御霊の祭祀をも担当したとされています。

この馬頭観音像(中央)は、秀忠公の愛馬の白馬、「布引」を当院にて供養した時に造立された観音像だと伝えられており、かつて境内に存在した「布引観音堂」の堂内へ安置したとされています。

しかしながら、心光院境内は戦災により表門と本尊の頭部を残して灰燼に帰し、ほぼ焼け野原状態に晒されたと伝えられています。

盆栽と境内の樹木の剪定具合

⬆️まるで盆栽。円柱型に剪定されたミニオンに注目〜っ!

⬆️通称・ミニオン(勝手に命名)。ジぃ〜っと見ていると怪盗グルー一味のミニオンに見えてくる …TSUTAYAパシるか。

庫裡の観音扉の徳川紋のような家紋

庫裡くりクリリン気円斬っ!‥というワケで庫裡出入口の観音扉の寺紋の彫刻が実に魅力的。ワンダふぅ〜‥

扉を閉めることで中央部に寺紋が現れる意匠が光る!

寺務所(本坊)

寺務所は住職一家の住居にもなっています。

御朱印を受けたい方は寺務所の玄関口に設置されているインタフォンを押します。

ミニ庭園

寺務所の玄関の脇には「つくばい」があったり苔が植栽されていたりと、さながら茶室の庭園のような庭がありんす。

ただ、夏時期であればプィ〜んプィ〜んと小ざかしく飛び回っている蚊軍団が少し多いように感じますが、まぁ庭はキレイに手入れされています。

境内入って、庫裡の前あたりから寺務所の前までが緑に覆われている気がします。

全体を通してなかなか癒される景観を創出している境内だと思います。

会社や学校にウっとぃヤツがいても、これなら毎日に蓄積されまくっているストレスを吹っ飛ばせそぅ。




石造の灯籠

⬆️境内にはエエ味を出している石灯籠がいくつか置かれている

⬆️こちらは石灯籠ではなく、どうやら供養塔のよう。火袋がない。「増上寺第三十三世」の刻銘が見える。

地蔵軍団

数が多いので一見すると五百羅漢像にも見えるが、あいにくと数少し足りない‥。なおかつ、よく見てみれば如意輪がいたり地蔵がいたりと統一制がない。

「享保」や「安誉受心大師」の刻銘が見えることから、付近周辺で見つかった地蔵やら石像が戦後に当院へ集めてこられて、当地で祭祀されているようにも思える。

この地蔵の多さは奈良の元興寺を思い出す‥。

石造・阿弥陀如来坐像?歴代住職の供養塔??

お竹堂を通り過ぎて寺務所へ向かう道すがら、上掲、写真のような阿弥陀仏坐像が視界に入る。

しかし、側面を見てみれば歴代住職と思われる刻字が見える。

⬆️「和尚」「法師」などの字が見える。歴代住職と思われる名前の刻字か。ウフ

これは供養塔?

真新しい水子地蔵さん

⬆️足にまですがる水子(胎内で没した幼子)

ちなみに手前にはチュッパチャプスと元祖森永ラムネが見える。守りながらラムネは一度食べ出すと止まらん。ハッキリ言って連続10はイケる。ウっホ チュッパはチュパチュパしすぎると虫歯になる。これはマジ..明日から銀歯ライフ

【補足】チュッパチャプスの名前の由来

チュッパチャプスの「チュッパ」は、スペイン語で“なめる”という意味です。チャプスはスペインで最初にロリポップキャンディに付けられたブランド名とのこと。うきゃ

天水桶

東京の寺社の境内に来て思ったのが、天水桶(てんすいおけ)が異様に多いという事実。

天水桶とは、早い話が火消し用の水を貯めておくための桶であり、サイズも酒樽ぐらいジャンボです。

境内の天水桶を見ると腐朽化してサビていたり、溜まった雨水にボウフラが発生していたりするなど、景観的にはあまり良い印象を与えるものであるはありませんが、江戸時代は火事が一旦発生すると木造家屋が軒を連ねていたことから、類焼を止めるのが一苦労でした。

当然、火事なので、家が燃えるだけで済むワケではなく、悲しい話も耳にすることに‥。

かつては神社仏閣だけに及ばす、江戸八百八町にも置かれたようですが、現在では水道や消防設備が発達して必要なくなったことから、見る機会は皆無でしょう。

なお、たかが天水桶ですが、中には文化財指定のものもありんす。

例えば、幕府の御成先鍋釜御用を務めた鋳物師の太田近江大掾藤原正次(おおたおうみだいじょうふじわらのまさつぐ)が制作した天水桶などは、そのほとんどが文化財指定を受けています。

現存する最古の天水桶は‥浅草寺淡島堂の天水桶?

浅草寺淡島堂の堂前にも青銅製の天水桶が置かれていますが、この天水桶は1711年(明和7年)に鋳造されたものであることから、江戸時代に鋳造された酒樽型の青銅製の天水桶(天水鉢)としては、都内最古だと云われます。




心光院の歴史(由来)

正式名称

浄土宗 三縁山 心光院 (三縁山増上寺の塔頭)

創建年

1393年(明徳4年/室町時代)

開基

恵照律院光阿上人

開山

酉誉聖聴上人

御本尊

阿弥陀如来坐像

心光院の歴史(年表)

江戸時代

1393年(明徳4年)

江戸の「貝塚」(現在の千代田区麹町付近)の地に酉誉聖聰上人が増上寺を開山。山内に学寮として庵を結び、これが当院のはじまりであり、創建となりんす。

1598年(慶長3年)

徳川家康の命により、増上寺が徳川家将軍家の菩提寺に定められ、現在地(芝)へ移転。心光院もこれに随行。現在の慶應義塾大学薬学部の付近に学寮として移転したものと考えられます。

1695年(元禄8年)

2代目将軍秀忠公の菩提(台徳院霊廟)を担当することになり、この時より増上寺の別院、念仏道場に昇格しています。

このとき、院内には秀忠公寵愛の白馬を供養した布引観音堂が造営されています。(戦災で焼失。現在は馬頭観音像のみが現存)

1743年(享保3年)

表門(登録有形文化財)が造営される。

1761年(宝暦11年)

増上寺山内に九代将軍家重公の墓所が造営される際、心光院の場所が近接していたため、三縁山の外境内と称して、増上寺赤羽門外の芝赤羽橋際へ移転。

以来、明治・大正・戦前まで境内の様相は変化することなく、代々受け継がれる。

赤羽橋付近に所在した当時の心光院の詳しい場所(古地図)

参考地図:江戸切絵図

緑色‥‥1761年(宝暦11年)に移転した時の心光院の場所

赤色‥‥現在の心光院の場所

黒色‥‥東京タワー

青色‥‥現在の金地院の場所

この地図から分かる事実は、現在の心光院の場所はかつて金地院の境内であったということです。また、東京タワーの場所もほぼ金地院の場所に建てられていることになりんす。

現在の地図

赤色‥‥かつての心光院の場所

1761年以降の古地図と現在の地図と比較してみると、かつての心光院は現在の赤羽橋駅の真ん前だったことになりんす。

昭和時代

1945年(昭和20年)

太平洋戦争の東京大空襲により、本尊のド頭と、表門(登録有形文化財)を残し、境内、灰燼に帰す。

1950年(昭和25年)

区画整理事業により、現在地へ移転する。

1955年(昭和30年)

本堂が再建される。

1966年(昭和41年)

境内、龍王堂が創建される。

平成時代

2017年(平成29年)

龍王堂が再建される。

心光院の御朱印について

心光院の御朱印については下記ページにて詳しくご紹介しています。

心光院の所在地・電話番号など

心光院の場所と交通アクセス(最寄駅など)

  • 地下鉄:三田線/芝公園駅下車(A4出口)徒歩14分
  • 地下鉄:大江戸線/赤羽橋駅下車(赤羽橋口) 徒歩7分
  • 地下鉄:日比谷線/神谷町駅下車 徒歩10分
  • JR:浜松町駅下車 徒歩25分
  • モノレール:浜松町駅下車 徒歩25分
  • バス:
    橋86:目黒駅前 > 東京タワーまたは新橋駅前行き、「東麻布1丁目」徒歩1分
    浜95:品川車庫前 > 東京タワー行き、「東京タワー」徒歩3分
  • 車:首都高速道路芝公園出口1分

心光院の駐車場

心光院の駐車場は10台も駐車できませんので、万が一、満車の場合は東京タワーの駐車場へ駐車いただくことを案内されています。⬆️心光院の駐車場は本堂脇にある。写真を見れば分かるように収容台数は5台くらいか。

心光院の付近周辺の見どころ一覧

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