芝・増上寺 大門【港区指定文化財】

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芝 増上寺 大門【港区指定文化財】

造営年

1598年(慶長3年)頃

再建年

1937年(昭和12年)/2016年(平成28年)

門の建築様式

高麗門

門の大きさ(高さ)

5.25m

発願者

徳川家康(初代)、東京都(昭和時代)、増上寺(平成時代)

施工業者

安藤組(昭和時代)、藤木工務店(平成時代)

設計

東京市土木局建築課(昭和時代)

監修

伊坂道子(平成時代)

港区指定文化財登録年月日

2016年(平成29年)9月27日

 

東京メトロ「都営大江戸線 大門駅」のA6出入口から地上へ上がってくると、目の前に巨大な門が視界にイヤでも入り込んできます。

この門こそが増上寺の総門もしくは表門にあたる大門です。

奈良 法隆寺や東大寺を例に出せば「南大門」に相当する門です。

ちなみに高野山では伽藍の入口にある門という事で南大門とは呼ばれずに、増上寺同様、「大門」と呼ばれています。

増上寺 大門の大きな特徴

増上寺の大門は、他の寺院の門と比較して大きく異なる特徴があります。どんな特徴かお分かりになりますか?

まぁ、上掲の写真をご覧になれば一目瞭然で分かりますが、この門は道路上に道路を跨ぐようにして建てられています。

すなわち、人が門の真下を通行することができず、門を支える両端の側柱の下に設けられた歩道を通行する形式になっています。門を通行できるのは車やバイクなどです。

高麗門

高麗門は裏から見ることで、その大きな特徴が理解できるのですが、少し面白い形状をした門です。

正面に見える左右2本の本柱の後ろに、それぞれもう1本ずつ柱を立てて控え柱とします。この控え柱と本柱との間には貫をわたします。

貫の上に切妻造りの瓦屋根を乗せているので、左右の柱の上にそれぞれ屋根があることなり、裏側から見た時、変わった形状の門と思う一方で、豪壮感や威圧感を感じます。

威圧感を感じる理由は、高麗門は元来、城郭を防衛するために考えだされた門であり、位置づけ的には薬医門(矢食い門)アップデートしたような門になりんす。

江戸時代以降、戦の機会が無くなると、この増上寺大門のように寺社の門としても建てられるようになり、およそ1590年代後半から全国の寺社などで盛んに造られはじめます。

なお、この大門は、かつては江戸城の大手門だったようですが、増上寺が現在地へ移転した際に家康公が江戸城の大手門を移築する形で同寺へ寄進したものが、初代の大門になるようです。

増上寺 大門の歴史

江戸時代

増上寺が江戸貝塚(現在の千代田区平河町もしくは紀尾井町)から1598年(慶長3年)に現在地に移転した際に造営された門になります。当時は現在のような鉄筋鉄骨コンクリート造ではなく、木造の門でした。

明治時代

明治時代に入ると、1871年(明治4年)と1875年(明治8年)の2回、明治政府により上知令が発令され、その上、1871年には廃藩置県も出されたことから、旧大名領であった藩によって実質、包括的に管理されていた寺社領は領有権を主張する根拠が消滅します。

これにより多くの寺社は困窮に至りますが、増上寺とてその例外ではなく、1878年、維持管理費の捻出が困難になり、ついにこの大門は当時の東京府へ譲渡されるに至りんす。この”りんす”は無理があったか

明治時代以前の三解脱門前は店が軒を連ねとった!

⬆️明治初期の大門の姿 (画像引用先:https://www.ndl.go.jp

上掲、写真は明治時代後期に撮影された大門の写真です。この写真をご覧になれば分かるように三解脱門前から→大門へ至る参道両脇には食べ物屋を主体とした店が軒を連ねていたことが分かります。

大正時代

関東大震災でも被災の難からは逃れられましたが、老朽化が著しかったことから、今度は両国の回向院に移築されますが、この旧・大門は1945年(昭和21年)の太平洋戦争の空襲により焼失しています。

この回向院に移築された門こそが、初代の大門ということになりんす。

昭和時代

1937年(昭和12年)、都民からの寄付金によって東京都の主導により、かつての大門の旧容を踏襲する形で鉄筋コンクリート造りにより、約1.5倍のスケールで再建されます。

増上寺と東京府との対立

1974年、増上寺は本堂の再建(造営)はじめ、伽藍全体の整備を進めていましたが、その一環で東京都に大門の返還を申し出ています。

しかしながらここで東京都から驚くべき回答が得られます‥。なんと!「都の財産目録に大門が記帳されておらず、したがって無いものを返還はできない」と。

この後、約40年間、所有者なしという、世にも奇怪な状態が成立することになりんす。

平成時代

2011年(平成23年)3月、関東一円を揺るがす大災害が発生します。そう、悪夢ともいえる東日本大震災です。

東日本大震災はこの大門にまで被害が及び、屋根瓦が落下する事件が起こりますが、この一件により、地元住民たちが組織する団体や港区議会から危険性と安全性を求める声が上がり、緊急修理の必要性が問われます。

⬆️門を裏側から見た所。2カ所の筋交いが見える(写真はhttps://ja.wikipedia.org/より引用)

2016年(平成年)3月、東京都から増上寺へ返還される!

なんと!2016年(平成年)3月のこと、東京都公園課の担当者から増上寺へ次のような一報が入ります。

「ここ数年調査してきたのですが、誤って都が財産目録から抹消してしまったことが分かりました。当門には資産的価値はありませんので無償で譲渡いたします。」

これにより事実上、東京都から再び増上へ返還されたことになりんす。”りんす”を使用するタイミングが重要

平成の修理工事

上述したように東日本大震災における被害により屋根瓦が落下するなどしたことから、東京都から無償譲与されたのを機とし、増上寺では耐震調査を行われています。

そして来たる2016年(平成28年)11月、芝公園の歴史的建造物研究の第一人者である伊坂道子氏が監修に加わり、柱と柱の間に筋交いを2カ所設置するなどの耐震補強および外観の化粧直しが実施され、2017年(平成29年)3月末に無事、修理完了を迎えています。

これが現在の大門の全貌になりんす。

⬆️文化放送局前の陸橋から見た大門。その後ろに三解脱門、さらにその後ろに大殿(本堂)が積み重なるようにして見える。‥美しいポっ

建築様式・造り

現在の大門の建築様式は上述したように旧・大門の旧容を踏襲し、高麗門で再建されていますが、かつての木造から→鉄筋鉄骨コンクリート造へと造り替えられています。

屋根瓦は江戸創建当初のものを一部使用する形で、あらたに耐震強度の備わった瓦が使用されています。

下から朱色の柱とその上に純白の軒下、そして灰色の屋根の配色が鮮やか且つ、壮麗さを醸しています。ウフ

門両脇の看板

正面両柱には対聯形式の寺額とも呼べる看板が見えます。

⬆️正面右柱には「浄土宗 大本山 増上寺」と墨書きされている看板が見える。

⬆️正面左柱には「黒本尊 勝運 交通安全 ご祈願」と墨書きされている看板が見える。

【豆知識】増上寺の塔頭寺院(子院)

大門をくぐり抜けると目の前には増上寺の顔となる「三解脱門(さんげだつもん)【重要文化財】)」が空を覆うようにそびえ立っています。

んん?道の両脇に目をやると‥おやおや、”〇〇院”などと号の書かれた表札が、いくつか見えるじゃアーリマせんか。

実は、現在の大門から増上寺までの道筋を見ていると想像もつきませんが、江戸時代には大門から三解脱門までの参道沿いの両脇には増上寺の塔頭が、なんとぉぅ!48院も軒を連ねていたのです。

しかし太平洋戦争の東京大空襲にて増上寺もろとも灰燼に帰し、以来、再建されつつも現今においては往時の栄華を伝える寺院は極少数となっています。

その他の増上寺の観光・見どころ

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