【ご利益満点パワースポット】増上寺の境内図(MAP)や見どころ(観光コース・参拝ルート)をご案内します!

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【ご利益満点パワースポット】増上寺の境内図(MAP)や見どころ(観光コース・参拝コース)をご案内します!

増上寺をご存知ですか?

増上寺は東京都港区は芝公園の中央に位置する浄土宗の全国七大本山のうちの1寺であり、かの徳川家康公の御意志により、徳川家の菩提寺にもなった寺院です。

ちなみに読み方は増上寺と書いて「ぞうじょうじ」です。

よく観光スポットを紹介した本に本堂(大殿)と東京タワーが並立した写真が侍時代と近未来の融合という形で掲載されている例が多く散見されます。

以下ではこの増上寺の境内の紹介を兼ねて、境内の回り方(参拝ルート)や見どころ、そして、増上寺がこれまで歩んできた歴史などもご紹介しています。

増上寺境内地図(MAP)と効率の良い参拝コース(回り方)

増上寺境内を効率良く、くまなく回るためには、まず、右回りで行くのか?左回りで行くのか??と決めておくことです。

最後に本堂(大殿)へ参拝して、その後に御朱印をいただくようにするとロスを最小限におさえての拝観が実現できます。

大門から三解脱門までのルート(境外)

江戸時代、増上寺の表玄関となる大門から三解脱門(三門)へ向かう道も増上寺の境内でしたが、現在は公道になっており、その公道の周囲にわずかながら、増上寺の塔頭(子院)がいくつかあります。

これらの塔頭は江戸時代もあったもです。現在では関係者以外、境内に入れない寺院もありますが、入って参拝できる寺院もありますので、時間があればぜひ、めぐってみてください。(詳細は後述)

境内参拝ルートと回り方(一例)

三解脱門→ 水盤舎→ グラント松→ め組の石碑など石碑群を観覧→ 熊野神社→ お休み処「芝縁」※お好みで※
→ 鐘楼(梵鐘)→ 千躰子育地蔵→ 西向観音→ 徳川将軍家墓所※宝物室へも行くのであればセット券の購入がお得!※
→ 大納骨堂→ 貞恭庵→ 円行大師堂→ 光摂殿→ 増上寺会館(管内にパンフレット&自販機&腰掛け小休憩スペースあり)※お好みで※
→ 経蔵→ 慈雲閣→ 黒門→ 石碑群を観覧→ 本堂(大殿)へ参拝→ 宝物展示室(※墓所とのセット券がお得!)→ 安国殿→ 境外へ出る

赤矢印からスタート。半分まで来た所で緑色(折り返し)※タップで大きくなります

増上寺境外→ ル・パン・コティディアン 芝公園店(※お好みで休憩※)→ 旧有章院二天門→ 旧台徳院惣門→ プリンス芝公園→ 宝珠院(増上寺塔頭)→ 東京タワーなど

宝珠院の周囲には、幾多の寺社があるので寺社めぐりをしても良いし、東京タワーを攻略しても良い。
東京タワーは夜遅くまで営業しているのと、夜景がオススメなので、できれば先に付近周辺の寺院をめぐっておいて、最後に東京タワーを攻略するのがオススメである。

  • ここまでで約2時間(休憩時間のぞく)
一例(二天門からスタート)

二天門→ 惣門→ 妙定院→ 宝珠院→ 瑠璃光寺→ 心光院→ 金地院→ 幸稲荷神社→ 青松寺→ 愛宕神社 →平成末広稲荷社(芝公園)→ もみじ谷(もみじ滝&蛇塚)→ 東京タワー→ 完

  • 東京タワーを除外した、もみじ谷(もみじ滝&蛇塚)までで約3時間

二天門と惣門へ行かれる場合

重要文化財指定の二天門と惣門は、現在は増上寺の所管から離れ、隣地のプリンスホテルに建つことからプリンスホテルの所管になっています。

また、二天門と惣門の間に増上寺境内が挟まるような様相をしていることから、仮に二天門を拝観した後で惣門へ移動する場合、増上寺境内を横断することになりんすので、移動時間に最低5分はかかります。

効率良く、且つ、境内をくまなく回るためには、増上寺境内の拝観をまずは終えてから三解脱門を出て、二天門を見ます。

そして、再び三解脱門まで戻ってきて、そのまま三解脱門を通り過ぎて惣門へ行き、惣門を観覧&くぐり抜けます。

惣門をくぐり抜けた先には、プリンスホテル広場が広がっていますが、この広場を直進する形で突っ切ると、その先には増上寺塔頭の宝珠院が見えてきます。

⬆️惣門からほぼ直進する形で突っ切る

⬆️プリンス芝公園の北端の森林の中に宝珠院・弁天池へ通じる通路がある。

⬆️プリンス芝公園から弁天池へ降りる通路

宝珠院ではオリジナルの御朱印とお守りを授与されていますので、境内を参拝してから拝受し、これで一応、増上寺全体の参拝を終えることになります。

⬆️増上寺塔頭「宝珠院」

増上寺参拝の後のオススメ観光スポット

増上寺の参拝後は、手前にそびえ立つ東京タワーへ行ったり、下記でご紹介する周辺付近の寺社詣でや、ランチ&ディナーを満喫しても良いと思います。

ただ先に1つ忠告しておくと、港区は商業地ではなく、どちらかと言うと観光地になりんすので、ブラブラと買い物‥というのは少し場所が違う気もします。

ショッピングをしたければ渋谷になりますが、幸い、渋谷には明治神宮がありますので、参拝を兼ねるのも有意義かと思います。オホ

増上寺境内の拝観所要時間

公式では約30分。

境内地にあるものをすべて観て回ると約2時間はかかります。

増上寺の参拝方法・所作など

  1. まず、御本尊の前に来たら静かに合掌(がっしょう)します(両手を胸前で合わせます)。
  2. 御本尊を仰ぎ見て「南無阿弥陀仏」と十遍(10回)となえます。
  3. 10回となえ終わると手は胸前で合わせたまま上半身を約45度かたむけて御本尊に対してお辞儀をします。
  4. 10秒ほどして上体を再びもとに戻し、合掌をときます。

このように浄土宗の教義では阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊としているため、「南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)」という念仏を唱えることであらゆる苦悩から救済され、極楽浄土へ往生できるとされます。

増上寺の御本尊はどんな仏様??

増上寺は「浄土宗(じょうどしゅう)」という宗派に属することから、阿弥陀如来を御本尊とする寺院です。

阿弥陀如来とは?

阿弥陀如来の説明をすると長くなりますので、要点だけを割愛してご紹介しておきます。

阿弥陀如来は実はインドの王様だったのです。しかし、城の外の民衆の貧しい暮らしぶりを知ってしまい、人々を救済する方法を探るべく、王の身分を捨てて、「法蔵(ほうぞう)」と名乗り、修行僧になってしまいます。

法蔵はその後、世自在如来の教えを受け、長い長い修行の末、48の大願を立てるのですが、その中の有名な大願の1つに「念仏を唱える者は極楽浄土に導く」というものが有名です。

人々を救済するということは、神仏に近づくということ。こうして法蔵はついに如来へ転生します。

阿弥陀如来となった法蔵は、本願として「人々をどのようにして極楽浄土へ導いてやれるだろうか?」ということを常に考えています。

このため五劫(ごこう)という気の遠くなるような時間を経て熟考します。将棋盤に向かい合っている棋士のように熟考し、散髪に行く間もないほど熟考しますので、ド頭の毛はボウボウになり、実験爆発頭のようなボンバーヘッドになり果ててしまいます。これが現今の五劫思惟像と呼ばれる仏像になりんす。

他にも、阿弥陀如来はその人物が生前どのような行いを行なってきたのか?の度合いを見定め、その人物の行い応じて9つの定印(指の組み方)を使い分けて迎えに訪れる(来迎/らいごう)と言われます。これを「九品(くほん)」といいます。

増上寺の観光・境内見どころ

芝 増上寺 大門【港区指定文化財】

  • 造営年:1598年(慶長3年)頃
  • 再建年:1937年(昭和12年)/2016年(平成28年)
  • 門の建築様式:高麗門
  • 門の大きさ(高さ):5.25m
  • 発願者:徳川家康、東京都(昭和時代)
  • 施工業者(昭和時代):藤木工務店(株)、安藤組
  • 監修:伊坂道子
  • 港区指定文化財登録年月日:2016年(平成29年)9月27日

増上寺 大門の歴史

増上寺が江戸貝塚(現在の千代田区平河町もしくは紀尾井町)から1598年(慶長3年)に現在地に移転した際に造営された門になります。当時は現在のような鉄筋鉄骨コンクリート造ではなく、木造の門でした。

関東大震災でも被災の難からは逃れられましたが、老朽化が著しかったことから両国の回向院に移築されますが、残念なことに1945年(昭和21年)の太平洋戦争の空襲により、灰燼に帰しています。

現在見ることのできる大門は、1937年(昭和12年)に都民からの寄付金によって、かつての大門の旧容を踏襲する形で約1.5倍のスケールで造営されたものです。

しかしながら、2011年3月に発生した東日本大震災により屋根瓦が落下する事件が起こり、地元住民たちが組織する団体から危険性と安全性を求める声が上がり、修理のち、東京都から増上寺へ無償譲渡される運びとなっています。

2015年(平成27年)11月より柱と柱の間に筋交いを2カ所設置するなどの耐震補強および外観の化粧直しが施され2016年(平成28年)3月末に無事、竣工を迎えています。

浄運院

  • 所在地:〒105-0011 東京都港区芝公園2丁目3−5
  • 山号:三縁山
  • 宗派:浄土宗
  • 所属:増上寺塔頭

浄運院の歴史・由緒

浄運院の創建年代は不詳とされていますが、1598年(慶長3年)に増上寺が現在地に引っ越してきた際、増上寺の塔頭に列せられており、以来、米沢上杉家、松代真田家、陸奥国内藤家の宿坊として隆盛します。

しかしながら、不運にも1806年(文化3年)と1819(文政2年)に火災のため焼失に至り、再建されてきた歴史を有します。

花岳院

 

  • 所在地:〒105-0011 東京都港区芝公園一丁目7番15号
  • 山院号/寺号:花岳院
  • 宗派:浄土宗
  • 所属:増上寺塔頭
花岳院の歴史・由緒

花岳院は永正年間(1504年から1521年)までの間に増上寺6世・知雲上人の隠棲の住まい兼、寺院として創建されています。

かつては、君のきめ細かいタマゴ肌のように実にスベスベとした美しい庭園が広がっていたと伝えられており、その景観はかつて存在した増上寺の塔頭48院の中でも「七大庭園」とまで称されるほどだったようです。スベスベ?これは絶対意味不明

花岳院境内の見どころ「昌泉院の宝塔」

徳川家康公からの信任の篤かった牧野忠成の妹である昌泉院の宝塔(お墓)が境内にあります。

安養院

  • 所在地:〒105-0011 東京都港区芝公園二丁目3番2号
  • 山号:三縁山
  • 宗派:浄土宗
  • 所属:増上寺塔頭
安養院の歴史・由緒

1653年(承応2年/江戸時代前期)に山城国(京都)大原の向坊・恵隆(僧都)が、止住のための僧房として建てたものが安養院の起源とされ、これが創建とされています。

以来、幾度か火事に見舞われ、1806年(文化3年)以降の火事の際には都度、再建されてきた歴史を有します。

明治11年になると芝区の区役所が当院の境内に置かれています。

天陽院

  • 所在地:〒105-0011 東京都港区芝公園二丁目2番3号
  • 山院号/寺号:天陽院
  • 宗派:浄土宗
  • 所属:増上寺塔頭
天陽院の歴史・由緒

天陽院の歴史は古く、1424年(応永31年)に生誉珍公が開祖となり、武蔵国・日比谷飯倉近辺に創建したと伝えられています。

1598年(慶長3年)に増上寺が現在地へ引っ越してきた際に、当時13院だった増上寺の塔頭となり、当院も現在地へ移転しています。

常照院 見どころ

  • 所在地:〒105-0011 東京都港区芝公園一丁目8番9号
  • 山院号/寺号:常照院
  • 宗派:浄土宗
  • 所属:増上寺塔頭
常照院の歴史・由緒

⬆️常照院の裏側の景観

常照院は創建年は不詳とされていますが、武蔵野国に居処した周公上人によって芝浦(江戸)に創建されています。

1598年(慶長3年)に増上寺が現在地に引っ越してきた際、増上寺の塔頭に列せられており、以降、当院の歴代住職は増上寺の宗務担当を担うようになっています。

また、肥前鍋島家の信仰が厚く、肥前藩の定宿、もしくは宿坊としても機能していたほか、歌舞伎で著名な市川宗家(成田屋)の菩提寺としての側面も持ち合わせており、境内には七世・市川団十郎が寄進したと伝えられる手水鉢や、初代から8代目までの市川団十郎の墓所も現存しています。

歌舞伎の成田屋は現在まで子孫が継承し、当代(11代目)の市川海老蔵も先祖供養に度々、参拝に訪れているとのことです。うきゃ

常照院境内の見どころ
「常照院本堂内陣」【登録有形文化財】

  • 造営年:1769年/江戸時代中期
  • 建築様式:土蔵造平屋建(1棟)
  • 屋根の造り:瓦葺
  • 大きさ:柱間2.8m、高さ4.6m、※練塀 左右総延長41.6m附属。
  • 建築面積:25㎡
  • 登録有形文化財指定年月日:2001年(平成13年)11月20日

当院の本堂内陣は、かつて念仏堂と呼ばれた堂舎でしたが、運良く太平洋戦争の戦災を免れています。戦後、外陣を設けて拡張し、念仏堂を本堂として寺観が整備されています。

当院の本堂は四方2間半の土蔵造であり、その入口正面には重厚な観音扉が設置されています。

本堂内陣には巨大な仏壇や厨子が置かれ、その上の天井は黒漆塗を基調とした極彩色の格天井が張られており、往時の栄華を今に伝えています。

史跡「恋娘昔八丈 城木屋お駒墓所」・「白子屋お熊供養の碑」

常照院の境内には、浄瑠璃「梅雨小袖昔八丈 髪結新三」の登場人物として知られる「お駒(お熊)」の墓所&供養碑があります。

お熊(お駒)の墓石

石碑の刻銘

享保十二年丁未年二月二十五日寂   二十三才
     法号 浄誉慈月晴雲信女

常照院の情報など

源興院

  • 所在地:〒105-0011 東京都港区芝公園81丁目8-15
  • 区分:単位包括宗教法人
  • 宗派:浄土宗
  • 所属:増上寺塔頭

廣度院

  • 所在地:〒105-0011 東京都港区芝公園一丁目8番16号
  • 院号/寺号:廣度院
  • 宗派:浄土宗
  • 所属:増上寺塔頭
廣度院(広度院)の歴史・由緒

廣度院は浄土宗の寺院です。増上寺の開基である酉誉上人(増上寺開基。のちの浄土宗第8祖・酉誉聖聡)の功徳を後世に伝えるべく、増上寺第12世・観智国師(源誉存応上人)が発願し、法嗣(その弟子)・円融に命じて本尊となる不動明王(「身代り不動」とも)を祀って創建した寺院とされます。

現在でもこの不動明王を祀っており、「身代り不動尊」とも呼ばれ変わらぬ信仰がよせられています。

境内の見どころ
「廣度院表門及び練塀」【登録有形文化財】

 

  • 造営年:1801年〜1900年/江戸時代後期
  • 建築様式:木造一間一戸・薬医門
  • 屋根の造り:瓦葺
  • 大きさ:柱間2.8m、高さ4.6m、※練塀 左右総延長41.6m附属。
  • 登録有形文化財指定年月日:1998年(平成10年)12月11日

練塀とは、基礎部分に「間知石」を敷き、その上に芯柱を立てずに、練り込んだ「泥土」と「瓦」だけを交互に積み重ねて築いた土塀のことです。最後に壁上に瓦を葺いて屋根とします。

薬医門とは、敵が放った矢を、あえて受けることを想定して造られたことから「矢食い門」とも呼ばる門です。このため城郭はじめ、公家や武家屋敷などによく設けられた門です。時代が下ると急病時に医者が簡単に出入りできるように門脇に木戸を設けたことから「薬医門」と呼ばるようになります。もしくは門にもう1つ出入口があるので四六時中、門を閉じることができたことから医家の門にも採用されるようになり、やがて「薬医門」と呼ばるようになったとも。

 

常行院

 

  • 所在地:〒105-0011 東京都港区芝公園二丁目2番20号
  • 院号/寺号:常行院
  • 宗派:浄土宗
  • 所属:増上寺塔頭
常行院の歴史・由緒

常行院は浄土宗に属する寺院であり、天台僧の戒順が増上寺第23法主「遵譽貴屋(じゅんよきおく)」の招きによって創建した一院になります。

⬆️常行院納骨堂

 

これらの寺院は信徒や檀家さんのみが利用できるような道場のような施設であったり、墓地を提供している寺院も多々あります。このような寺院に部外者が入るのは、あまり好ましいものではありませんが、外観を記念撮影する程度あれば問題はないと思います。

ただ、内部を見させていただく場合は一声かけるのがよろしいかと思われます。

三門(三解脱門)【重要文化財】

  • 造営年:1611年(慶長16年/江戸時代前期)
  • 再建年:1622年(元和8年/江戸時代前期)
  • 建築様式:五間三戸 二重門、朱漆塗
    ※左右に繫塀(板葺き)附属
    ※左右に山廊(三間/約5.4m)附属
  • 屋根の造り:入母屋造、本瓦葺
  • 規模(大きさ):高さ七丈(約21m)、横幅十間(約19m)、奥行き五間(約9m)
  • 重要文化財指定年月日:1915年(大正4年)3月26日
  • 発願者:徳川幕府(徳川家康)
  • 施工者・造営指揮:中井正清(幕府大工頭)
別名「三解脱門」とも呼ばれる

この三門は別名で「三解脱門(さんげだつもん)」とも呼ばれていますが、この名称の由来は仏教における「三解脱」からきています。

「三解脱門」の意味とは?

三解脱とは、解脱に至るまでの3つの克服すべき要素、すなわち煩悩のことです。別名で三三昧(さんさんまい)とよも呼ばれます。

まずは‥

「空解脱」:すべての存在を空として捉える心や身体を得る。

次に「無相解脱」:空を得たので差別相を持たない状態を得る。

最後に「無願解脱」:一切の願求(がんぐ/=欲求)がない境地。

これら3つの三昧(三三昧)を修し、現世におけるあらゆる執着から離れた時、解脱の境地に至ることができ、如何な束縛をも受けない法身を得ることができるとされます。

三解脱門とは、これら三三昧(三解脱)を修する心を常に留め置くための警鐘の意味合いで命名された門名です。

水盤舎(元甲府宰相綱重御霊屋水屋)【港区有形文化財】

  • 造営年:1705年(宝永2年/江戸時代中期)
  • 再建年:明治時代
  • 建築様式:四脚切妻造、銅葺屋根
  • 港区有形文化財指定年月日:2001年(平成13年)2月27日

「すいばんしゃ」と読みます。いわゆる手水舎のことです。この水盤に貯められた水を柄杓で汲み上げて手口を清めます。

さて、結論から言うとこの水盤舎は、タダ者ではありません。

ちょっと↓の写真をご覧いただければ分かりると通り、キャナリ(訳:かなり)年季が入っています。

⬆️全体的に塗装の落剥が激しい。沓巻(くつまき)にもサビがまわっていることから移築された後、手が加えられていない様子がうかがえる。なぜか賽銭箱が置かれている。

この水盤舎はかつて徳川家三代将軍家光公の三男「甲府宰相綱重公(6代目将軍家宣公の親父)」の御霊屋(霊廟)にあったものです。

綱重公は1678年(延宝6年)に命を散らし、当初、小石川の伝通院(文京区小石川)に埋葬されましたが、家宣公の御代になってから増上寺本堂(大殿)裏手に改葬されています。

綱重公の御霊屋は1945年の東京大空襲の折、他の御霊屋とともに灰燼に帰し、現在に至っては徳川将軍家霊廟の敷地内に他の将軍さんの御霊と共に奉斎されています。

一方、この水盤舎は、明治期に解体修理された後、東京大空襲の難を奇跡的に免れ、現在地に移築されています。

徳川家霊廟に用いられた江戸期の髄を凝らした建築様式を伝える数少ない遺構の1つです。

⬆️かなり年季の入った様子がうかがえるが残念ながら刻銘は見当たらない。水盤下にコケが見える。

⬆️裏からみたところ。なお、現在はコロナ感染予防対策により使用不可。


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経蔵【東京都指定文化財】

  • 造営年:1705年(宝永2年/江戸時代中期)
  • 再建年:明治時代
  • 建築様式:宝形造、銅葺屋根、四方・銅板裳階附属、土蔵造、白壁仕上げ、一重
  • 敷地面積:139.66㎡(42.24坪)、軒下高さ21尺(6.36m)
  • 港区有形文化財指定年月日:1921年(大正10年)4月
経蔵の歴史・由緒

増上寺は初代将軍・家康公の信仰篤く、1598年(慶長3年)に現在地に引っ越してきた後の1605年(慶長10年)頃から、幕府主導により、境内の大造営が執り行われており、浄土宗の教義に基づいた伽藍配置のもと本堂はじめ、三門、経蔵、表門、方丈、学寮など次々と堂舎群が造営されていきます。

この経蔵は1681(天和元年)12月に改築された折、境内のいずこかへ移築されており、1802年(享和2年)6月に現在地に移築されています。

経蔵内部はどうなっている??

経蔵内部には、中央にどデカイ柱を1本屋根まで通し、この柱に八角形をした経巻棚が設置されています。この8面それぞれの面に経巻が収納し、木造輪蔵として回転できる仕様になっています。

画像引用先:増上寺パンフレットより

経巻の内容は、徳川家康が寄進したとされる南宋版、元版、高麗版の三大蔵経(重要文化財)であり、世界でも増上寺だけで見られるものです。

このような経蔵はそれなりの規模を有する寺院であれば境内に建てられていますが、一般には天海版の一切経が多いように見受けられます。

また、輪蔵は回転することから1回転させることで収納されている経巻を読んだだけの功徳が得られると云われます。

大蔵経・南宋版【重要文化財】
  • 内容:南宋時代の経巻。千二百五十九箇、六千五百三十一巻
  • 重要文化財指定年月日:1899年(明治32年)8月1日
  • 現在は収蔵庫に移管・収蔵(経蔵の後方)
大蔵経・元版【重要文化財】
  • 内容:元時代の経巻。千二百五十九箇、六千五百三十一巻
  • 重要文化財指定年月日:1899年(明治32年)8月1日
  • 現在は収蔵庫に移管・収蔵(経蔵の後方)
大蔵経・高麗版【重要文化財】
  • 内容:高麗時代の経巻。千二百五十九箇、六千五百三十一巻
  • 重要文化財指定年月日:1899年(明治32年)8月1日
  • 現在は収蔵庫に移管・収蔵(経蔵の後方)

画像引用先:増上寺パンフレットより

経蔵は特別公開される日がある!

この経蔵は平時は閉扉されているため内部拝観は叶いませんが、10月下旬頃〜11月初旬頃まで開催されている「東京文化財ウィーク」にて特別公開されることがありんす。

公開日程については増上寺の公式HPをご確認ください。

西向観世音

この西向観音は鎌倉時代、現在の東京タワーの脚元もしくは三康図書館のあたりにあったとされる「観音山」に、北条時頼公が辻堂(つじどう/路傍のお堂)を建てて西へ向けて安置したのが創祀とされます。

辻堂の内部には石造りの聖観音像を祀り、前を通る鎌倉街道の鎮守として、街道へ向けて安置したそうです。ウフ

また、この辻堂の手前には「地蔵山」という小高い丘陵が広がり、(現在の正則中学校のあたり)この地蔵山に東に向けて祀られていた四菩薩像と併せて街道を見下ろし挟む込むように鎮座していたと伝えられています。

⬆️位置関係図。今となってはドコが鎌倉街道だったのか‥。

すなわち、1598年(慶長3年)に増上寺が現在地に引っ越してくる前から当地に存在した御堂になりんす。

西向観音が現在地に移築されたのが、1975年(昭和50年)のこと。この年、増上寺では浄土宗開宗800年記念においての境内整備事業が執り行われており、この一環で安国殿の前に聖観音像を遷座し、1980年(昭和55年)1月に観音堂が無事、落慶を迎えています。

四菩薩像の行方

上記、聖観音は西向観音として現在地(増上寺安国殿の前)に移築されていますが、では、四菩薩像の方はどうなったのか?

‥については、なんとぉぅ!徳川将軍家霊廟前の拝観受付の脇に四つの菩薩像がヒッソリと佇んでいますが、実はこれが上記、四菩薩像になるとのことです。

  • 四菩薩:文殊、虚空蔵、地蔵、普賢

誰がいつ現在地まで運んできたのかは不詳とされています。

古来、子育て安産のご利益があるとされる!

上記、ニッシー(西向観音)の御本尊である「石造り聖観世音菩薩」は古来、子育て安産のほか、開運のご利益があるとされ、現在に至っても子供の成長や健康、そして開運を願う人々で賑わいをみせます。

特に江戸三十三観音霊場21番札所の指定を受けていることからも巡拝者が絶えず、かつては境内地に2本の榎の大木が立っていたことから「縁結び榎」と呼ばれ、特に熱ぅ〜ぃ良縁を求める若年層の参拝者が多かったと云われております。

西向観音についての詳細は下記ページをご覧ください。

鐘楼堂【江戸三大名鐘】

  • 造営年:1633年(寛永10年/江戸時代初期)
  • 再建年:戦後(1945年/昭和期以降)
  • 大梵鐘の鋳造年:1673(延宝元年)
  • 大梵鐘の大きさ:高さ約3m、重さ約15トン

この鐘楼は1633年(寛永10年/江戸時代初期)に造営されていますが、太平洋戦争の空襲により被災し、現在見ることのできる鐘楼の姿は1945年以降に再建されたものです。

梵鐘の鋳造は大掛かり

この鐘楼堂の大梵鐘は高さ3m、重さ約15トンもあることから7回もの鋳造を経て、やっとこさ完成した梵鐘になりんす。

苦労して完成した甲斐あって東日本では最大級の梵鐘であり、江戸三大名鐘の1つにも数えられています。 

江戸三大名鐘 一覧
  1. 寛永寺(上野)※1787年鋳造/高さ約1.7m、直径約1.1m
  2. 浅草寺(浅草)※高さ約2.1m、直径約1.1m/通称「時の鐘」
  3. 増上寺

「江戸三大名鐘」と呼ばれる理由は以下のような江戸時代に詠まれた川柳に端を発するものと思われます。

『今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か』
『江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘』
『西国の果てまで響く芝の鐘』

‥などと謳われ、庶民に親しまれたようです。

現役で刻告げの鐘音を鳴り響かせる!

この大梵鐘は現在も1日2回、朝と夕に時を告げる鐘が撞かれています。また、大晦日には除夜の鐘も撞かれています。

現在、鐘は撞ける?

この鐘は残念ながら現在、一般参詣者は平時は撞くことができません。大晦日(12月31日)の午前0時にのみ事前申し込みの上、撞くことができます。あしからず。オホ

グラント松【港区保護樹木】

  • 樹齢:約140年
  • 保護樹木指定年月日:1975年(昭和50年)7月8日(指定第307号)
  • 指定樹木名:ヒマラヤスギ

三門をくぐってすぐに大きな松が視界にイヤでも視界に入ってきますが、この松はちょっとした由緒を持つ松で名前を「グラント松」と呼称します。

「グラント」の名前の由来は「アメリカ第18代大統領グラント将軍」の名前に因むものです。

1879年(明治12年)7月に国賓としてこの日本を訪れた際、増上寺へも参拝に訪れ、その際、記念にこの松の木を手植えされたとのことです。

なぜ松ではなくスギなのに名前が「グラント松」なのか?

この松の木の横には看板が立てられており、内容を読み進めていくと「Himalayan Cedar」の英語文字が見えますが、この当時の人々は英語に不慣れなこともあり、「Cedar」を「杉(スギ)」と誤認してしまったようです。

じつはこのヒマラヤスギ、明治初頭にイギリスから日本へもたらされたのが、初めてだそうで、歴史的にはまだまだ浅い樹種となります。

だとすればこのグラント松が国内初?!

熊野神社【熊野三所大権現宮】

  • 創建年:1624年(元和10年)
  • 発願者:増上寺第13世 正誉廓山上人
御祭神「熊野権現」
  • 家都美御子大神(けつみこのおおかみ)※熊野本宮大社
  • 大己貴命(おおなむちのみこと)※熊野那智大社
  • 伊奘冉尊(いざなぎのみこと)※熊野速玉神社
例祭「熊野神社みこし講」

毎年3月3日→(近年においては「4月第3日曜日」へ変更)

「熊野」の読み方

熊野と書けば通常であれば「くまの」と読んでしまいそうになりんすが、このあたりの地域一帯では熊野と書いて「ゆや」とも読みます。

実は大阪の堺市にも熊野町という町名がありんすが、かつて「ゆや」と呼ばれていたようです。理由は付近に湯屋(銭湯)が軒を連ねていたからなのだそうですが、ことこの増上寺の熊野神社の場所には霊廟が建っていたので、これとは無関係のようです。(もしくはそれ以前か)

熊野神社の歴史・由緒

この熊野神社は増上寺境内の南端にヒッソリと佇んでいることから、あまり人目につくことはなく、日曜日でも参拝者がまばらですが、古来、増上寺の裏鬼門(南西)に鎮座し、増上寺の鎮守として篤い崇敬が寄せられています。

増上寺に伝わる1819年(文政2年)に成立した三縁山志(さんえんざんし)によれば、「大きさ不詳なれど東照宮に次ぐものなり」との記述があることから、その規模の大きさが理解できると共に熊野信仰の隆盛の度合いがはかれます。

この熊野神社は1624年(元和10年)に増上寺第13世 正誉廓山上人が熊野権現を勧請し、増上寺の鎮守として東北の鬼門に奉斎したと伝えられています。

以来、これまで焼失が複数回ありつつも、明暦年間(1655年から1658年まで)より焼失がなく、往時の様相をそのまま留めていると伝えられています。

平成16年、大本山増上寺みこし講の発足30周年記念を祝して境内の改修工事が執り行われて、境内の景観が一新されています。

熊野神社の境内見どころ

手水舎

熊野大権現の神使とされる八咫烏(やたがらす)が彫り込まれた手水鉢が置かれています。この八咫烏のマークはこの増上寺熊野神社を総括する大本山増上寺みこし講の代紋となるものです。

ヤタガラスにまつわる伝記として有名なのが、神武が東征の折、和歌山県熊野に上陸した後、深い密林地帯にはばまれ道に迷ってしまうのですが、天照大御神が道案内役としてヤタガラスを遣わし、神武を救済します。

その後神武が東征を完遂させたというのは有名な話です。ウフ

みこし講 創設40周年記念の石碑

熊野神社本殿

建築様式:神明造、銅葺屋根、女千木、鰹木6本

本殿は平成16年4月に改修工事が実施されており、景観が一新されています。

め組の慰霊碑

  • 建立年:1716年(享保元年/江戸時代中期)

「め組」と言えば大岡越前の名前が挙がるほど有名ですが、そもそも「め組」とは何なのかご存知ですか?

め組とは町の火消し、現代風に訳せば自衛消防団のことです。

江戸の町は八百八町とまで呼ばれた通り、商家や民家が軒を連ね日増しに増えていくと云われたほどの栄華を極めます。

しかし諸刃の剣の考え方で一旦、どこかで火事が起これば類焼を免れるのは極めて困難な状況でした。この当時の家屋はすべて木造。余程、迅速かつ手慣れていないと火消しは容易ではなかったのです。

この当時の火消しは幕府主導による武士たちの「武家火消し」が主流でしたが、8代目将軍・吉宗公の御代のときに当代の南町奉行・大岡越前の提案により、町内の自衛組織による町内火消しが組織されます。

⬆️噂の大岡越前。LINEスタンプで見た気が‥。ちょぃ大阪のグリコ看板の人に似ている

火消しは機動力や判断力、それにパワーが必要とされることから、当時、これらの条件を持ち合わせた鳶職のコノヤローどもが町火消しのメンバーに選出されます。

大岡越前はそれだけはなく、火消しをより効率且つ効果的にするために町火消しを地域で区切り、「いろは組」という組分けを行った上で、それぞれの組に地域を担当させます。

隅田川から西側方面を「いろは組47組(後に「ん組」が加わる)」、深川地域を、いろは組16組に組み分けするのです。

もうお分かりかと思いますが、「め組」とは、この芝地域を担当した、いろは組のことであり、町火消しの際、殉職しため組のメンバーを供養するために1716年(享保元年/江戸時代中期)建てられたのが、この石碑です。

⬆️「自享保元年引績」の文字が見える

筆塚「心と創造」

北海道最大の学習塾である練成会グループが平成16年2月に、学習で使う筆を増上寺へ奉納した際に建てられた石碑になるようです。

千躰子育地蔵尊

千躰子育地蔵と書いて「せんたいこそだてじぞう」と読みます。

  • 大法要:例年4月の第3日曜日(千駄子育地蔵尊大法要)
  • 盆踊り:7月最終週の金曜日・土曜日
千躰子育地蔵尊の歴史と建立理由

上述、西向観音に由来して、子供の無事な成長と健康を祈願して1975年(昭和50年)から崇敬者により、順次奉納されているお地蔵さんになりんす。

現在では「千躰」の名前の通り、千体近くのお地蔵さんが連なるように奉納されている様子がうかがえます。ウフ

奉納は主に増上寺ひまわり講の方々中心となって、子や孫の無事の成長を祈念して、増上寺へ建てたお地蔵さんになるようです。

それぞれのお地蔵さんには、まるで自らの子供に着せるかのようにド頭には寒さや雨風をしのぐ赤いニット帽、体躯にも寒さ直射日光、雨風を保護するためのやヨダレ掛けが奉納され、さらに子供がキャっキャっキャっ‥と喜ぶ 悪魔? 、風車の弥七が、おっと風車!!が、お地蔵様に奉納されています。風車の弥七。…黄門?

⬆️正面からは見えないが地蔵像の裏側には奉納者の名前が書かれている

注意

地蔵菩薩には触れないでください。

阿波丸事件殉難者之碑

この石碑は阿波丸遺族会(阿波丸事件犠牲者 遺族一同)により、昭和52年4月1日に建立された石碑になりんす。

阿波丸事件(あわまるじけん)とは、貨客船阿波丸が太平洋戦争中の1945年(昭和20年)4月1日にシンガポールから日本へ向けて航行中、突如、アメリカ海軍の潜水艦クイーンフィッシュの魚雷準備用意!発射っ!‥により撃沈された事件です。

これにより、2000余名の乗船者はほぼ死亡、阿波丸はこの当時、日米間協定により安全航行が保障されていたにも関わらず、勃発した事件であることから、日米間の友好に私恨を残す結果につながっています。

未だ解決されない悲惨な事件の1つであり、二度とこのような悲劇を繰り返してはならないという強い思いが込めらた石碑になります。

⬆️石碑の裏側には献花も見える。遺族の方々よりの奉納か。

碑文の内容

阿波丸は第二次世界大戦も終りに近い昭和20年4月1日夜半台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈された。
同船は連合國側の要請に應じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に對する救恤品の輸送に當っていた。
國際法でその安全が保障されていたにもかかわらず、この悪魔のような所業により遭難者の数は2千有餘名、世界史上最大の海難事故となった。

加害者に對する責任の追求や賠償交渉も進まないうち、同年8月わが国は無條件降伏し、軍政下の日本政府はなぜか事件の眞相を究明せず、米国に対する賠償請求権を國会の決議として放棄した。
いまや平和の時代となり、経済は復興したが戦争の悲惨と虚しさは私たちの胸を去らず、帰らぬ人のことを思ひ続け悲しみを懐いて三十餘年、事件の謎は今なほ解けず、船體(体)の引揚げ遺骨の拾集も実(實)行に移されないままである。
三十三回忌に當り、悲憂を文に記し世に訴へるとともに、法要の心とするものである。

昭和52年4月1日 阿波丸事件犠牲者 遺族一同

安国殿

この安国殿は太平洋戦争の東京空襲で被災した大殿(本堂)を仮堂として使用されていたものです。1974年(昭和49年)に新造された大殿完成の折、境内北側の現在地に移築し、安国殿としたものです。

安国殿の名前の由来

安国殿の安国とは「安らかな国づくり」と書いて安国と称します。これは家康公が成し遂げた天下安寧の世を永らく悠久なものとすべく、その祈願を形にして表したものがこの安国殿となります。

現在の安国殿は、2011年(平成23年)法然上人八百年御忌を記念して新造された安国殿になりんす。

安国殿奉安・御本尊「阿弥陀如来立像(黒本尊)」【秘仏】

恵心僧都(えしんそうず)源信 造立と伝わる安国殿御本尊の阿弥陀如来立像、通称、黒本尊は当寺の秘仏であり、年三回のみ特別に一般公開されんす。

本像は造立当初、金箔が全身に施されたの像容を誇っていましたが、長年にわたり、仏前に祀られていたことから香煙に薫じられ、また、人々の罪業をその身体に引き受けたので徐々に黒ずんで行ったと伝えられています。事実、現今に至っては半分以上が黒褐色のご尊容をしています。

家康公の念持仏

この阿弥陀如来立像は、かの家康公の念持仏であったとされ、家康公は参陣の折、陣中にまで持ち込んで奉斎していたほど熱心に信仰していたと伝えられています。

そしてそのご加護により幾たびにも及ぶ災難を退け、戦勝を得たということから、「勝運」「厄除け」「諸願成就」のご利益をもつ仏として江戸時代より、ひときわ篤い信仰がよせられています。

阿弥陀如来立像(黒本尊)の特別一般公開の日程

この阿弥陀如来立像(黒本尊)は、平時は秘仏として、お厨子の中に安置されていることから、参拝者の目に触れることはなく、代わりに御前立の尊像が厨子の前に置かれ、参拝者はこの尊像へ拝する様式が採られています。

本像は下記の年3回のみ御開帳され、同時進行にて正五九祈願会が盛大に厳修されています。

  • 特別一般公開の日程:1月15日、5月15日、9月15日(正五九)
  • 法要開始時間:14時より 祈願法要 御親修
  • 場所:安国殿

詳細は増上寺公式HPをご確認ください。ウフ


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増上寺の本堂「大殿(だいでん)」

  • 竣工年:1974年(昭和49年)11月
  • 再建年(リニューアル):2009年5月
  • 建築様式(構造):鉄骨鉄筋コンクリート造
  • 規模:地下2階/地上3階 建て
  • 延床面積:10,328m2
  • 施工:清水建設(株)※リニューアル時は社寺建築研究所

大殿は増上寺ひいては浄土宗大本山の念仏の根本道場と位置付けられる建物であり、1974年(昭和49年)に、あらゆる儀式・法要が行えるような近未来的な設計と意匠を用いて建立されました。

この大殿は首都圏では最大級の大きさを誇る堂舎であり、それに由来して「大殿」と命名されています。

大殿の内部構成
  • 地下階:増上寺宝物展示室
  • 1階:檀信徒控え室
  • 2階:本堂
  • 3階:道場

大殿の御本尊「阿弥陀如来坐像」【都指定文化財】

  • 造立年:不詳/推定:室町時代
  • 造立様式:寄木造、金箔押、漆泊
  • 作者:不明

この阿弥陀如来坐像は増上寺の御本尊であり、かつては華頂宮門跡・尊超法親王の念持仏でしたが、1909年(明治42年)、旧大殿が焼失後の再建の後、当時の総本山・知恩院門跡・山下現有猊下(げいか)から寄贈されたものです。

宝物展示室

  

  • 竣工年:2015年(平成27年)

この宝物展示室は家康公の没後400年記念を祝し、2015年(平成27年)より開設された増上寺に伝わる宝物を展示する大殿の地下1階に設けられた施設です。

宝物展示室の目玉となる展示品となるのが、誰がなんと言っても2代目将軍秀忠公(法名・台徳院)の霊廟を10分の1スケールで忠実に再現した「旧・台徳院霊廟の模型」です。

画像引用先:増上寺パンフレット

この台徳院霊廟の模型はイギリスの英国ロイヤルコレクションの所蔵品として、英国文化財保存財団の倉庫の木箱の中に収納されていたものであり、発見当初、台徳院の模型だとは認知されていませんでした。

その後の調査により太平洋戦争の東京大空襲にて被災した旧・台徳院霊廟を忠実に再現した模型ということが明らかになり、大騒ぎになります。

模型が造られた理由

このような模型が造られた理由は、1910年(明治43年)にロンドン西部ジェパーズ・ブッシュ、ホワイトシティで5月14日〜10月29日までの約半年間の日程で開催された日英博覧会に出陳するためです。

この当時の日本は産業革命の最中にあり、日英博覧会は近代国家としての日本を世界にアピールするための絶好の機会でした。

制作にあたっては当時の東京市が国家の威信をかけて、当時のあらゆる分野の最高峰の専門家を招聘し、そうそうたる面々が参集して制作にあたっています。

制作は1909年(明治42年)7月に東京市の辞令と徳川氏の許可を経て8月に開始され、わずか4ヶ月という期間で完成。翌年1月5日にはパーツ分けの上、箱詰めされ、横浜港から天洋丸に搭載されて英国へ出航しています。

そして、日英博覧会の会期終了後、忽然とこの模型は姿を消し、1995年(平成7年)に上記、英国文化財団の倉庫で発見されるに至ります。つまり、1995年(平成7年)まで誰も模型の存在に気づかずに英国文化財団の倉庫にてずっと保管されていたことになりんす。

現在、この模型は英国の所有物となっていることから長期レンタルという形式で、2014年(平成26年)より増上寺・宝物展示室にて展示されています。

なお、宝物展示室という名前こそ付されていますが、地下にある関係で展示スペースは想像したよりも広くはありんせんが、ザックリと言えば旧・台徳院霊廟の模型の展示のために造られた展示室と言っても過言ではありません。

その他の宝物展示室の有名な展示品

五百羅漢図:1854年(嘉永7年)〜1863年(文久3年)/作者:狩野一信

宝物展示室の入館料金・入館可能時間・休館日

入館料金

一般700円(税込)

割引

徳川将軍家墓所拝観とのセット券:1,000円(200円お得!)
※徳川将軍家霊廟の拝観料金は500円(※高校生以下無料)

入館可能時間
  • 平日/10:00~15:00(最終入場14:45)
  • 土日祝日/10:00~16:00(最終入場15:45)
休館日

火曜日 ※火曜日が祝日の場合は開館

宝物展示室の入場受付では御朱印がもらえる!

宝物展示室の受付では3種類の御朱印の授与をしています。ただし、書き手の方が常駐しているワケではありませんので、すでに書かれた書き置きの御朱印の授与となり、御朱印帳へ記帳はしていただけません。

宝物展示室の出入口

宝物展示室は大殿の地下になります。↓境内地図参照

地下のため、宝物館のような建物があるワケではなく視界に入りません。尚且つ、かろうじて広告看板が出入口付近に出ているだけなので、はじめて増上寺へ訪れた方であれば通り過ぎてしまうことでしょう。

⬆️受付カウンター。(内部は写真撮影禁止なのでご注意を!)

宝物館入口の台の上の額縁

宝物館出入口には、参拝者の感想などを書き留めるためのノートが台の上に置かれていますが、他に額が立てかけられており、その中に少し気になる言葉が書かれていたのでシェアしておくことにします。

仏教とは 仏様に願いを聞き入れてもらうのではなく 仏様の願いを聞く事です。

はたして小生のような救いようの無いドスケベ、且つ、煩悩にまみれた愚か者でも仏の声を聞くことができるのでしょうか。

本堂(大殿)の裏側から延びる散歩コース

普通に参拝しただけでは分かりにくいのですが、本堂(大殿)は正面から裏側に回り込めるように縁側(壁沿い)に通路が設置されており、本殿の裏側へ回ると奥へ入っていく道が見えます。

⬆️本堂(大殿)の周囲の壁沿いに後方へ回り込むことができる

⬆️本堂(大殿)の縁側の道。結構広い。うきゃ

⬆️奥へ行ける

この道は鬱蒼とした茂みが生い茂り、その先の景色が見づらくなっていますが、奥へ進んだ先には次のような建造物などがありんす。

⬆️奥の茂みの中へ入っていける。

本堂(大殿)の奥にある建物など
  • 茶室「貞恭庵(ていきょうあん)」
  • 圓光大師堂
  • 納骨堂

茶室「貞恭庵(ていきょうあん)」

  • 造営年:不明(江戸時代)
  • 再建(移築および改築):1980年(昭和55年)
  • 規模:平屋一重、2間四畳半

現在の真新しい増上寺の境内から想像もつきませんが、貞恭庵とは茶室のことです。確かにこの一角だけひと昔前の時代にタイムスリップしたかのように思えます。

貞恭庵の「貞恭」とは、14代将軍家茂公の正室「皇女 和宮」の法号(死後の名前)である「静寛院宮贈一品内親王」が由来となっています。

つまりのところ、この茶室は皇女 和宮さま ゆかりの茶室であり、なんでも増上寺参拝の際は、この茶室に立ち寄ったそうです。

ちなみに「貞恭」という言葉には「節操がある」「恭順である」などの意味合いがあり、日本女性の美徳を表した言葉にもなっています。

まさに和宮さまが、そのような人物だったのではないでしょうか。もしくはそうなれるように自身に磨きをかけ続けたとも受け取れます。

玄関先が庭園!

⬆️入口が庭園のようになっている。延段(敷石の配置の仕方)に織部好みの数寄が感じられる。

貞恭庵の月例会

この貞恭庵では毎月、月例会が開催されています。

  • 開催時間:10時〜16時
  • 会費:1000円(抹茶&和菓子つき)

椅子も用意されているとのことなので、肢体が弱い方でも参加できます。

茶雅馬茶道教室

月例会とは別に定日に大日本茶道学会が主催する「茶雅馬茶道教室」も開催されています。

参加される場合は開催日時などを増上寺へ確認してみてください。

⬆️茶室の前には聖観音立像と思われる石像が建っている

圓光大師堂(旧景光殿)

  • 造営年:2009年(平成21年)8月
  • 建築様式:妻入、入母屋造、軒唐破風附属、木造平屋建
  • 御本尊:法然聖人

※参拝方法:平時は堂外より参拝可能

この圓光大師堂は、増上寺第87世法主 成田有恒(台下)の発願により、2009年(平成21年)8月に竣工。

2006年(平成18年)11月25日に知恩院より賜った法然上人御廟の御砂を、内陣奥に安置される厨子の中の経筒型の五輪塔の中に納めて奉安しており、これが一応の御本尊という形になるようです。

なんでも増上寺第87世法主 成田有恒氏は、この御廟の御砂を法然上人の「御身柄(おみがら)」と命名され、御本尊に据えたとのことです。

境内入口には下記の区指定の文化財ともなる表門が建ち、これが大きな見どころとなっています。

※注釈※浄土宗では、高位の人の呼称を敬称とするために「台下(だいか)」を付しています。

⬆️圓光大師堂の正面かまち扉と「圓光大師堂」と書かれた金文字の扁額が見える。

 

⬆️隣の建物は寺務所につながっている。渡り廊下を通して圓光大師堂ともつながっているので圓光大師堂と寺務所はつながっていることになる。

圓光大師堂(円光大師堂)・表門【港区指定文化財】

  • 造営年:不明(推定:江戸時代)
  • 再建年:1978年(昭和53年)
  • 建築様式:1間1戸の四脚門、平唐門(ひらからもん)
  • 屋根の造り:桟瓦葺

この表門はかつての景光殿(旧広書院)の表門になりんすが、建てられていた場所は不詳とされています。また、造営された年代も不詳とされていますが、虹梁の形が清揚院霊廟から移築されたと伝わる境内入口の水盤舎の頭貫に類似していることから、江戸時代の建築と推察されています。

江戸期に隆盛の途にあった、増上寺の門ということで江戸期の建築様式を伝える貴重な門として、2005年(平成17年)10月25日に港区指定文化財に登録されています。

両開きの桟唐戸に、天井は表側には鏡天井が張られ、裏側に格天井が張られています。向かい見て上部の欄間の右側には雲と月、左側には海と日の出がモチーフになった透かし彫りの彫刻が施されています。

徳川家光公の次男である甲府宰相 綱重が1705年(宝永2年)に東京都文京区小石川に位置する伝通院から増上寺に改葬されており、この時に清揚院霊廟(清揚院は綱重の法名)が造営されていますが、この清揚院霊廟の門であった可能性も考えられています。

⬆️門を向かい見て右側の扉には月と雲の透かし彫りが見える。

⬆️左側には太陽と波の透かし彫りが見える。

納骨堂(舎利殿)

  • 建立年:1933年(昭和8年)
  • 再建年:1980年(昭和55)
  • 御本尊:地蔵尊像(高村光雲作)

この納骨堂は太平洋戦争の東京大空襲を逃れた数少ない旧・増上寺の遺構の1つです。

「納骨」の名前の通り、骨が収められていますが、有縁無縁の本骨、分骨が収められています。

⬆️納骨堂に接近!

徳川将軍家墓所

芝増上寺の目玉となる見どころの1つがこの徳川将軍家墓所です。

東京都内には他に上野の寛永寺が徳川将軍家の菩提寺となっており、歴代将軍の墓所がありんすが、増上寺はそのうちの1つです。

この墓所には現在、以下の歴代将軍およびその正室のお骨が奉安され、その上に合計8基の宝塔が築かれています。

  1. 崇源院(2代目秀忠夫人)宝塔(石造)
  2. 文昭院(6代目家宣)宝塔(銅造)
  3. 有章院(7代目家継)宝塔(石造)
  4. 月光院(家継母)宝塔(石造)
  5. 惇信院(9代目家重)宝塔(石造)
  6. 慎徳院(12代目家慶)宝塔(石造)
  7. 昭徳院(14代目家茂)宝塔(石造)
  8. 静寛院宮(家茂夫人)宝塔(銅造)

現在では歴代将軍の御霊が眠ることから、都内屈指のパワースポットとも囁かれています。

徳川将軍家墓所「鋳抜門(旧文昭院霊廟奥院中門)」

この鋳抜門(いぬきもん)は、かつて文昭院殿霊廟の宝塔前に建てられていた中門になりんす。

日光東照宮にもこれと構図が同じような鋳抜門がありんすが、東照宮の方は左右の扉に花柄の装飾が1つと密教法具の輪宝(りんぽう)が4つずつ据えられています。

この他にも、「蜃(しん)」という龍のような伝説上の生き物の銅像が門の左右両脇に据えられています。

増上寺の鋳抜門は徳川家の家紋となる三つ葉葵紋が5つ配されており、門の両脇には昇り竜と下り龍の鋳抜が見えます。

四菩薩像

  • 造立年:1258年(正嘉2年)
  • 作者:不明

あまり目立ちませんが、拝観受付の脇には4躯の石像が置かれています。

正面右から‥

  • 普賢菩薩(辰年守り本尊)
  • 地蔵菩薩(子育地蔵)
  • 虚空蔵菩薩(丑寅守り本尊)
  • 文殊菩薩(卯年守り本尊)
四菩薩像の歴史・由緒

実はこの石像四菩薩像と呼ばれ、ちょっとした由緒をもつ石像になりんす。

この四菩薩像は、もともと現在地の北西、ちょうど東京タワーの足元となる地蔵山という小高い丘陵地帯に安置されたいた菩薩さまたちです。

かつては安国殿の前で奉安される西向観音の西向きに対して、東向きに祀られていたそうです。

黒門(旧方丈門)【有形文化財】【東京都港区指定文化財】

  • 造営年:不明(推定:江戸時代初期)
  • 再建年:1980年(昭和55年)、2017年(平成29年)
  • 門の建築様式:一間一戸/四脚門/切妻造
  • 屋根の造り:本瓦葺
  • 門の大きさ(高さ):8m
  • 発願者:不明
  • 港区指定文化財登録年月日:1980(昭和55年)11月15日

増上寺 黒門の歴史

もと増上寺方丈の表門になりんす。この門が黒門と呼ばれる理由は、門容をご覧いただければ分かりますが、肌色を基調としながら黒焦げたような痕が見えます。

これは焦げたのではなく、この門がもともと黒色をしていた名残になりんす。

この門はかつて増上寺方丈の表門でしたが、1980年(昭和55年)の「善導大師1300年遠忌」の機として、三解脱門を正面に見て左脇となる現位置に移築されています。

黒漆は高価=財力=権力を持っていた人が建てた門

この黒門はかつては黒色をしていましたが、材料として黒漆が使用されていました。黒漆は当時ではかなりの高価な一品でしたので、たかだか門に黒漆を用いるのは財力のある証拠であり、この当時、このような芸当ができたのは徳川家や徳川家に近い有力大名のようなお家柄だけでした。

したがって黒漆を材料にしていることで門の所有者や、この門がどういう経緯で建立されたのかの意図が汲み取れます。

現在までの調査では、安土桃山時代の建築様式が色濃く見られることなどを加味して江戸初期の建築だと推測されています。⬆️無数の千社札(シール)が見える


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慈雲閣(開山堂)

  • 造営年:不明(推定:江戸時代初期)
  • 再建年:1989年(平成元年)
  • 門の建築様式:切妻造本瓦葺/一間一戸
  • 発願者:増上寺(再建時)

※参拝方法:平時は堂外より参拝可能

慈雲閣(開山堂)の歴史

慈雲閣(開山堂)は増上寺にもともと建っていたものですが戦災で焼失し、1989年(平成元年)に増上寺開山・酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人の550年遠忌記念事業の一環で再建という形で竣工しています。

慈雲閣(開山堂)の内部

2階中央には開山の聖聰上人像と、その両脇にはその師・聖冏(しょうげい)上人像、増上寺中興の祖「聰観智国師像」が安置されています。

慈雲閣(開山堂)の役割

慈雲閣(開山堂)は、平成の建築とだけあって、葬儀はじめ、年中行事など、幅広い諸事に対応できる設備が完備されています。

光摂殿

  • 造営年:不明(推定:江戸時代初期)
  • 再建年:2000年(平成12年)
  • 建築様式:入母屋造
  • 屋根の造り:本瓦葺
  • 発願者:増上寺(再建時)

※参拝方法:平時は外観を見学するのみ。

光摂殿の歴史

この光摂殿は2000年(平成12年)に『心を洗い、生きる力を育てる』をモットーに据え、講堂および道場として竣工しています。

光摂殿の内部

1階に講堂、3階に大広間があります。

大広間には格天井が張られており、それぞれの格縁の内側には信者により奉納された極彩色の天井絵「草花図」が極楽浄土の様相を表しています。

これらの絵は「四季の草花」というテーマのもと、1997年(平成9年)より奉納されはじめ、故・小倉遊亀画伯、故・上村松篁画伯をはじめとした総勢120名の日本画家による作品群であり、東京都庭園美術館名誉館長の鈴木進氏が監修しています。

光摂殿大広間天井絵の特別一般公開

画像引用先:増上寺パンフレット

この光摂殿大広間の天井絵は毎年秋に開催される「みなと区民まつり」に併せて特別一般公開されています。

2019年公開日程の例

2019年10月12日(土)/13日(日)10:00~16:00まで
※2019年度は台風の影響により、12日の天井絵特別公開は中止されており、13日のみ公開されています。

増上寺会館(寺務所)

  • 造営年:1961年(昭和36年)
  • 再建年:1999年(平成11年)
  • 建築様式:入母屋造
  • 屋根の造り:本瓦葺
  • 発願者:増上寺

増上寺会館(寺務所)の歴史

1961年(昭和36年)に竣工した増上寺会館は老朽化が激しく、「法然上人八百年御忌」の前準備となる境内整備事業の一環として1999年(平成11年)に造営されています。

増上寺会館(寺務所)の構造

東棟・中棟・西棟の3棟からなる建物です。

増上寺会館(寺務所)の役割り

寺務所機能のほか、大食堂や和洋2種の各個室は参拝や法事、研修や修養会で来られる多くの方々に利用されています。

増上寺会館(寺務所)のの内部

中塔1階の入ったところはロビーになっており、正面に自販機があってジュースがガブ飲みできます。オススメはほどよく甘めのペットボトルの紅茶150円/本。夏い暑の喉を潤すにはサイコ〜。軽く2本は瞬飲みできる。グボグボ…ゴボっ。ガハっ。グペっ。ウガガガ..意味不明

⬆️東棟

土木建築殉職者慰霊塔

  • 建立年:昭和12年3月21日
  • 発願者:日本土木建築請負業連合会

上記、三解脱門および黒門をくぐり抜けた脇には、篆書体で「土木建築殉職者慰霊塔」と刻まれた6mくらいの高さの石碑がありんす。

この石碑は日本土木建築請負業連合会が、建設業務に携わって不幸に見舞われた方々の御霊を合祀して末長く供養するために建立された慰霊塔です。

土木建築殉職者慰霊塔の内部に封じられた意外なもの

表面からは見えませんが、この土木建築殉職者慰霊塔の内部には次のようなものが、安置されています。

  • 阿弥陀如来坐像
  • タイムカプセル

タイムカプセルは朱色の小箱に封入されており、中身はタぁ〜イムぅ キゃプセぅぅ〜ぅ(Capsule〜)を設置した当団体の前身となる「土木建築請負業聯合会」の会長だけが知り得る事実であるそうです。

なんでもこのトぅぁ〜イムぅ キぇぁぅプセぅぅ〜ぅは、『収納した日(1940年)から100年後の2040年に開封すべし』と書かれているようです。うきゃ

画像引用先:http://www.zenken-net.or.jp/

石造・聖観音菩薩立像

三解脱門をくぐってスグ左脇には、像高6mほどの聖観音菩薩立像が立っています。

株式会社ホテルニュージャパンが奉納した石像になるようです。

本像正面台座下の刻銘には次のような文字が見えます。

ホテルニュージャパン罹災者の御霊
とこしえに安からんことをお祈りして

本像の台座裏側の刻銘には次のような文字が見えます。

昭和62年2月8日
株式会社ホテルニュージャパン
取締役者社長 横井英樹 建之

以上の刻銘の内容から察するにこの像は、1982年(昭和57年)2月8日未明にホテルニュージャパン(東京都千代田区永田町2丁目)で発生した火災により、不幸に見舞われた方々の供養塔になるようです。

この火災は死者33名、負傷者34名を出す歴史上稀に見る大惨事となっています。この供養塔(聖観音像)からは、このような悲劇を二度と繰り返してはならないという強い思いも感じられます。

仏足石

上記、聖観音立像の右脇には「仏足石」が置かれています。

仏足石の後方に立つ看板にはこう書かれています。

仏足石は仏の足うらの形(千幅輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊(お釈迦様)を象徴的にあらわし、人々はこれらを仏として礼拝した。

この仏足石は、当山第70世 福田行誠上人の代、山内宝松院涛康成上人の発願により明治14年5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている。

魚供養之碑

この石碑は1948年(昭和23年)に築地市場(現在の東京都中央卸売市場 豊洲市場)にて創業した千代田水産株式会社が奉納した魚類の供養塔になりんす。

自社がこれまで過ごしてこれたのは、ひとえに魚類のおかげであるというお魚くんたちへの感謝の意を込めると共に供養を捧げた石碑になりんす。

石碑脇に立っている看板には次のように書かれています。

魚がしに会社を起こし、水産物を商って37年ひたすら業界の発展と社会への貢献を志し、困難を克服して現在に至った足跡を顧みるとき、感慨ひとしお無量なるものがある。

今日あるのは、水産物とりわけ魚類のおかげであることに思いをいたし、深い感謝をこめて、ここに魚供養碑は建立するものである。

願わくは、生業を同じくする人々よ、しばし歩みをここにとどめ、彼らのために感謝の祈りを捧げられんことを。

昭和60年3月8日 千代田水産株式会社

ブッシュ高野槙

米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57年4月24日に来日の折、増上寺に参拝し、記念にこの樹を手植えされています。

現在はそれが育ち、現在ほどの大きさにまで育ったことになります。

詠唱発祥の地の石碑

上記、ブッシュ高野槙の付近には、ちょっと小洒落たツルピカリンの大理石調の石に阿弥陀如来が内刳り式に彫り込まれた石碑があります。

石をツルピカリンにして、さらに円形に形を整え、装飾を施すなど、キャナリ(訳:かなり)手の込んだ造りであることが分かります。

この石碑は増上寺・吉水講(よしみずこう)が発足して20周年を記念して奉納した石碑になるようです。

詠唱とは、早い話が御詠歌のことであり、御詠歌とは和歌や七五調などの韻文に独特の旋律をのせて唱えるお経のような歌です。

巡礼中に唱えることから巡礼歌とも言われます。

浄土宗では「吉水流詠唱(吉水講)」呼び、旋律と鈴、鉦を用いて歌います。

聖鋏観音縁起

この観音さまは聖観音をもじって「聖鋏観音」と称し、国際美容協会会長・山野愛子(山野美容学校校長)氏が昭和56年8月3日の「ハサミの日」に奉納した石碑になりんす。

美容師はハサミを一生手持つ職業であり、ハサミによって生かされてきたという感謝の念を込めて、この石碑を建立・奉納したようです。

看板に書かれている内容

この聖鋏観音像は、昭和56年8月3日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって、大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。
願主の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことへの深い感謝と、ハサミの中にみる己れを滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって聖鋏観音像造立を発願。併せて美容はもとより、ハサミにかかわりのあるすべての人々の心の依り処となり、お守りとなるよう願われて奉造された。
聖鋏観音像は、彫刻界の長老北村西望氏の制作である。
毎年8月3日を「ハサミの日」と定め、この世におけるつとめを果たし終えたハサミをあつめてこの塚に納め、ハサミ供養法要が厳修される。

ハサミは観音菩薩の 御手そのものである。 徹誉大僧正(第83代 大野法道法主)

増上寺境外の見どころ

旧台徳院霊廟惣門【重要文化財】

  • 造営年:1632年(寛永9年)〜1634年(寛永11年)/江戸時代初期
  • 発願者:徳川幕府(徳川家光/3代目将軍)

台徳院とは、江戸幕府2代目将軍 秀忠公の死後に贈られた名前(諡号/しごう)のことです。

正式には「台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士(たいとくいんでんこうれんじゃとくよにゅうさいだいこじ)」。

台徳院霊廟惣門の歴史・由緒

旧台徳院霊廟惣門は1632年(寛永9年)7月21日〜1634年(寛永11年)5月23日の間には完成したものと考えられています。

1945年(昭和20年)5月25日のに太平洋戦争の東京大空襲により霊廟内の建造物は灰燼に帰し、かろうじてこの惣門と、勅額門、丁字門、御成門の4つの門は戦火を免れています。

惣門安置「仁王像」
  • 造立年:不詳(推定:1701年〜1750年/江戸時代中期)
  • 像高:(阿形)243.5㎝/(吽形)247.0㎝
  • 様式:寄木造り
  • 材料:表面、砥粉地 (とのこじ)塗り

⬆️阿形の仁王像(門を正面に見て右側)

⬆️吽形の仁王像(門を正面に見て左側)

水路跡

水路跡とは、台徳院霊廟の惣門の前に存在した水路のことです。

解説が書かれた看板には次のようなことが書かれています。

案内板の内容

ここに並べられた石垣石は、増上寺山内丸山に造営された台徳院 二代将軍徳川秀忠公霊廟の惣門前に構築された水路に用いられていたものです。
台徳院霊廟は寛永9年(1633)、台徳院の死後まもなく造営が始められ、およそ一年後に竣工したことが記録にあります。
水路は砂地の上に組み上げられた石垣を壁としており、これらの石垣石はその建材の一部です。
石垣は平成14年(2002)に行われた発掘調査によって、この石列の真下、地下およそ8mの位置で発見されました。石垣は、最も良好な箇所で4段検出されました。

石材として、相模から伊豆にかけての地域で切り出された安山岩が用いられていますが、形や大きさはまちまちです。
最下段の石垣には宝永の火山灰の付着が確認され、刻印や墨書を認めるものもあります。かつて、旧御成道-現在の日比谷通り-から御霊屋への通路は惣門手前でこの水路を渡りました。
往時、水路には清らかな水が流れ、発掘調査では惣門手前に架けられていた橋台の一部も検出されました。

この案内板の内容によれば、かつて惣門の前には橋が架橋されていたことになりんす。

⬆️江戸図屏図と呼ばれる家光公の御代の台徳院霊廟を描いた絵図。惣門の前に水路があるのが分かる。

惣門跡

上述、台徳院霊廟の惣門は造営当初は現在の場所よりも、約10mほど奥に建てられていたと伝えられています。

上記、水路跡のすぐ奥に現在でも惣門が建てられていた場所が分かるように石畳でスペースが造られています。

勅額門跡

かつて惣門の後方には勅額門が建っていました。

上述したように台徳院霊廟は、昭和20年の東京大空襲にて灰燼に帰しましたが、勅額門・惣門・丁子門・御成門は戦災を免れており、このうち勅額門・丁子門・御成門の3棟は現在、埼玉県所沢市に位置する狭山山不動寺の境内に移築されています。

現在、勅額門は1930年(昭和5年)5月23日に国の重要文化財指定を受けています。

台徳院霊廟 勅額門【重要文化財】

画像引用先:https://bunka.nii.ac.jp/
  • 造営年:1632年(寛永9年/江戸時代前期)
  • 建築様式:四脚門、切妻造
  • 屋根の造り:銅瓦葺
  • 重要文化財指定年月日:1930年(昭和5年)5月23日
  • 所有者:西武レクリエーション株式会社(西部グループ)
勅額門の歴史・由来

「勅額門(ちょくがくもん)」と呼ばれる理由は、門正面上部に後水尾天皇の勅額(扁額)を掲げいることから「勅額門」と呼ばれています。

昭和38年に、惣門を除いた上記、3棟が所沢市上山口のユネスコ村に移築されています。ユネスコ村の一部が狭山山不動寺になっていることから狭山山不動寺に移築されているとなっていますが、3棟の門の所有者は西部グループになりんす。

狭山山不動寺の場所(地図)

所在地:埼玉県所沢市上山口2213番地

  • 惣門からの所要時間:電車で1時間30分..遠っ!

有章院霊廟 二天門(旧・増上寺)【重要文化財】

  • 造営年:1717年(享保2年/江戸時代中期)
  • 重要文化財指定年月日:1930年(昭和5年)5月23日
  • 施工者・造営指揮:片山三七郎平満國(幕府作事方大工頭)
  • 所有者:株式会社プリンスホテル(西武グループ)

有章院とは、江戸幕府7代目将軍 家継公の死後に贈られた名前(諡号/しごう)のことであり、この門は有章院霊廟へのもっとも外側の出入口に建っていた門です。

門の両脇の間口には下記、二天像が安置されています。

二天像

この二天門に安置されている二天は西方を守護する広目天と北方を守護する多聞天が安置されています。

向かい見て左側が多聞天。右側が広目天です。

⬆️多聞天

⬆️広目天

この二天門の前に立てられている看板によれば、焼失した文昭院霊廟の二天門には持国天と増長天が安置されていたようです。

つまり、文昭院の二天門と有章院の二天門で四天王を祀り、東西南北の方角を守護していたことになりんす。

かつて増上寺北側には、この有章院や上述、惇信院を含めた歴代将軍の遺骸を納めた宝塔が建てられており、このエリアを「北御霊屋」と称し、その出入口には二天門が2つあったのです。

二天門の詳細については下記ページをご参照ください。

御成門

  • 造営年:1598年頃(江戸時代初期)
  • 再建年:1892年(明治25年)※移築
  • 門の建築様式(造り):高麗門
  • 所在地:港区芝公園3-3
  • 所有者:東京プリンスホテル(西武グループ)

この御成門の名前の由来は、江戸城から増上へ参拝した場合、もっとも最寄りの門になることから、主に将軍さまが御成(参拝)になる際に使用された門として「御成門(おなりもん)」と命名されています。

しかしながら、かつては現在の御成門交差点に建っていたとされ、これは増上寺からすれば裏門になりんす。

1892年(明治25年)に旧・東京市の区改正計画の一環により、内幸町から増上寺三門(三解脱門)を経て芝公園へ至る道路(現・日比谷通り)が敷設されたため、当地に移転される運びとなっています。

なお、太平洋戦争の東京大空襲により、増上寺境内は灰燼に帰していますが、奇跡的に増上寺の顔をも呼べる三解脱門はじめ、旧庫裡門、二天門、御成門のほか、旧台徳院霊廟の勅額門、丁字門(現在は埼玉県所沢市・狭山山不動寺境内)が現存するのみです。

⬆️御成門の裏側。周囲に鉄柵が張られており進入禁止。

看板の内容

増上寺(徳川家菩提寺)の裏門としてつくられたが、将軍が参詣する際にもっぱら用いられたので「御成門(おなりもん)」と呼ばれるようになった。
初め「御成門」は現在の御成門交差点にあったが、明治25年(1892)の東京市区改正計画で、内幸町から増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際に、この市に移築された。
その後、増上寺三門や旧庫裡門・徳川家墓地の惣門・ニ天門とともに、関東大震災や太平洋戦争の戦火から難をのがれて今日に及んでいる。
昭和48年3月  東京都港区教育委員会

通常参拝するだけでは分からない!『増上寺境内の隠れた見どころ』

この増上寺境内は、浄土宗の思想や教義に基づいて造営されており、このため建物の配置も次のような教義に基づいて定められています。

 大門から三門(三解脱門)までは煩悩の解脱を意味する108間!

まず、大門から三門(三解脱門)までの距離は108間ありんす。

これは三解脱門をくぐることによって人間が持つとされる108の煩悩から解脱する(解き放たれる)という意味で108間あります。

 三門から大殿までは阿弥陀如来の48願を意味!

三門から大殿までの距離は阿弥陀如来がもつとされる48願を表した48間ありんす。

 参道から大殿前に至る階段は阿弥陀如来の本願18願を意味!

三解脱門から大殿前まで続く参道の動線上にある階段は阿弥陀仏の本願18願を表する18段になっています。

 大殿に登る階段は25菩薩を意味する25段!

大殿出入口手前の階段は25菩薩を意味する25段ありんす。


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増上寺境内・その付近でランチを楽しむ!

お休み処 芝縁(しえん)

増上寺境内にある唯一の和食を提供している食堂です。詳しい場所は三解脱門をくぐった先、熊野神社の手前にあります。

日替わり定食、おばんさい定食など、季節の旬な野菜を使った料理が楽しめます。

オススメはなんとぉぅ!1日15食ランチタイム限定の「おばんさい定食」と「冷やしぜんざい」です。

メニュー

ゆば(うどんorそば)1100円
にしん(うどんorそば)1100円
なめこおろし(うどんorそば)1000円

ころころだんご400円
ころころだんごセット(煎茶つき)950円
わらびもち500円
わらびもちセット(煎茶つき)1050円
ぜんざい(もち)700円
ぜんざいセット(煎茶つき)1250円

芝縁の営業時間・定休日など

  • 営業時間:10:00~16:00
  • 定休日:不定休(基本、火曜日と雨天は休み)
  • お問い合わせ先:03-5473-7087
    ※不定休ですので電話でご確認の上お越しください。
注意

芝縁は現在、コロナ渦の影響により、休業しています。営業開始の目処はたっていないとのことです。

場所(地図)

更科布屋(更科そば)

創業200年を誇る都内屈指の蕎麦の名店です。1791年(寛政3年)に蕎麦打ち名人として知られた信州の反物商・布屋萬吉が領主である保科兵部少輔の助言で蕎麦屋に転向し東日本橋の薬研堀に「信州更科そば処」を開店。その分店がこの芝大門前店になりんす。

創業以来の布屋萬吉の精神を受けつぎ、当代は6代目の布屋萬吉になりんす。

⬆️店内の様子。中国・隋で拾ってきたかのうな年代物のツボが置かれている。

当店のオススメはモチのロン!「せいろ(冷たいざる蕎麦)800円」と「冷やしたぬき880円」

⬆️冷やしたぬき  ⬆️冷たいざる蕎麦

たぬき蕎麦は関西と関東では異なり、関東では天かすを乗せた蕎麦orうどんを「たぬき」と言います。

関西での「たぬき」は油揚げが乗った蕎麦でありんす。

更科布屋の冷やしたぬきは冷やし中華のように、きゅうりや錦糸卵が乗せられており、これをグジャグジャっと混ぜ混ぜして、アンガっ!、パクっ!、と来て‥、モゴモゴモゴ‥、ゴっクん、プっハ〜‥‥とします。”お前語”やな

⬆️グジャした後の姿。グジャ将軍 …意味不明

芝大門「更科布屋」の営業時間・定休日など

所在地:東京都港区芝大門1-15-8
営業時間:平日 11:00~21:00(L.O20:40) /土曜 11:00~20:00(L.O19:40)  /日曜・祝日 11:00~19:00(L.O18:40)
電話:03-3436-3647
定休日:年中無休(年末年始の特別休業あり)

場所(地図)

Le Pain Quotidien(ル・パン・コティディアン)芝公園店

⬆️店内席とテラス席と選べる。

⬆️店内の様子

ベルギー発・オーガニック食材中心のベーカリーレストラン「ル・パン・コティディアン」。日本旗艦店となる東京ミッドタウン店です。

当店の人気オススメのメニューとなるのが、誰がなんと言っても「タルティーノ」です。

⬆️スピルリナベジタブルタルティーヌ1290円

ル・パン・コティディアン芝公園店の営業時間・定休日など

所在地:東京都港区芝大門1-15-8
営業時間:7:30~22:00 (21:00 L.O.)
※現在はコロナ渦のため『全日7:30~20:00(19:00 L.O)」
定休日:年中無休(年末年始の特別休業あり)
座席数:102席(店内 80席、屋外テラス32席)
電話:03-6430-4157

場所(地図)

とうふ屋「うかい」

芝公園から東京タワーへ行く途中に通る東京タワーのすぐ脚元にある豆腐の会席料理のお店です。

厳選された高級品種の大豆のみを使用した豆腐料理しており、約2000坪もの敷地にある庭園の四季の彩りに包まれながらの食事が楽しめます。

とうふ屋うかいは、1964年に八王子で創業した豆腐を使用した日本料理店では老舗になります。豆腐作りには水が命とも言われますが、なんでも八王子・大和田には太古よりの名水があるとのこと。

店内には他にもアールヌーヴォー調の意匠を採り入れたとラウンジ「吉祥庵」があります。食後の余韻に浸ることができます。

お帰りの際には、豆腐を題材したお土産も用意されています。

とうふ屋「うかい」の営業時間・定休日など

所在地:東京都港区芝公園4-4-13
営業時間:平日11:45~15:00(L.O.) 17:00~19:30/土日祝11:00~19:30(L.O.)
定休日:月3回月曜日、年末年始
座席数:102席(店内 80席、屋外テラス32席)
電話:03-3436-1028

場所(地図)

増上寺の季節の見どころ

日本芸能「薪能」

薪能は「たきぎのう」と読みます。

毎年9月下旬〜10月上旬に頃増上寺境内で開催される恒例行事であり、増上寺の大きな見どころになりんす。

かつて東京タワーの脚元あたりには能楽堂という堂舎が存在し、増上寺の薪能はこの能楽堂で開催されていました。

昭和49年に増上寺 大殿が復興されたのを機とし、境内に特別設営された舞台に場所を移して薪能が開催されることになります。

この薪能が舞われる舞台は三門(三解脱門)をくぐり抜けた先、ちょうどグラント将軍が手植えしたとされる松の前あたりです。

能が開始される直前には、舞台の少し後方にある江戸三大名鐘の1つである大梵鐘(高さ3メートル余り、重さ15t)が撞かれま。これが開演の合図となりんす。

スケジュール

16:30 入場開始
17:30 法要
18:00 演目開始

入場券

S席:8,000円
A席:6,000円
B席:4,000円

自由席:2,000円

注意

2020年の薪能はコロナ渦の影響により中止になっています。
詳細は増上寺公式HPにてご確認ください。ウフ

関連記事: 増上寺公式HPお知らせ

正月初詣

年末年始の増上寺は年内でもっと多くの儀式が営まれます。大晦日より正月三が日(正月3日まで)は屋台が出店します。

※以下、一部画像引用先:増上寺公式HPより

浄焚会

とんど焼きのことです。参拝者より奉納された古札や位牌の御焚き上げが行われます。

日時:12月31日、23時より
場所:境内浄焚場前にて
受付:随時受付

除夜の鐘つき

鐘付きは、「ゆく年くる年(NHK)」が始まる時間と同時となる元日の午前0時より開始されます。

増上寺当代法主が最初にお撞きになり、1番鐘より順番に善男善女が4人1組となり、108つの鐘を鳴らして心身清浄をお祈り致します。

鐘つき券

12月1日午前9時より会館2階寺務所にて鐘つき券の頒布が開始されます。
鐘つき券は冥加料2,000円(記念品付)が必要になりんす。

新年初詣・修正会(しゅしょうえ)

除夜の鐘つきでお外(境内)の様子が少し賑やかなになる中、午前0時より本堂では「修正会」が勤修されます。

※本堂へのお参りは大晦日より元日の午後5時まで。

正月初祈願

新年を迎え、皆様の願事の成就の為、正月初祈願をお勤め致します。安国殿には徳川家康公念持仏「黒本尊阿弥陀如来」が安置されており、「勝運」の御利益を仰ぎます。

スケジュール

◆12/31【受付】23:30~【開始】0:30【最終】2:30
◆1/1~1/3  9:30~16:00迄、随時受付
◆1/4~1/7  10:00~16:00迄、1時間おき
◆1/8~1/14 10:00~15:00迄、1時間おき

関連記事: 新年初詣のご案内

節分(節分追儺式/せつぶんついなしき)

例年、2月3日の節分の日は全国の寺社で節分に関する行事が斎行されますが、増上寺においても境内の大殿前で特別に設営される舞台にて豆まき(節分追儺式)が行われます。

この節分行事は例年、多くの方が参拝に訪れる人気の行事になります。

スケジュール

11時30分:練行列登場(慈雲閣〜三門〜安国殿)
11時50分:御祈願(安国殿 勝運黒本尊御寶前)
12時20分:豆まき(大殿前特設舞台にて)

増上寺のライトアップ「100万人のキャンドルナイト

増上寺の通常ライトアップ

増上寺では夜、特別なライトアップイベントがあるわけではありませんが、日暮れになると下記、惣門をはじめとした境内のライトアップされます。

⬆️三解脱門の夜の様子

⬆️惣門の夜の様子。仄かにライトアップされている。

いかがですか?

東京タワーとライトアップされた惣門も増上寺のコントラストも大きな見どころの1つといえます。⬆️黒門のライトアップ

100万人のキャンドルナイト

「でんきを消して、スローな夜を。」を合言葉に2003年に「大地を守る会」とFMラジオ局「J-WAVE」が主宰し、「100万人のキャンドルナイト」をスタートしています。

仄かにゆらめきながら闇夜を照らすキャンドルナイトは昼間に見る増上寺とは異なり、幻想的かつシュールな空間を創出します。

開始時間の8時前になれば観客席から、どこからともなく熱気のこもった清々しいカウントダウンを聞くことができるのが、このイベントの恒例行事となっています。

開催日程と開始時間(終了時間)

夏至と冬至の夜8時から10時

滞在時間(所要時間)

約2時間

【補足】徳川家ゆかりの寺!増上寺の歴史

現在の増上寺は芝公園の中心部に位置し、創建当初から当地に存在する寺院と言う認識を持たられる方もいますが、実のところ創建は809年(大同4年)〜884年(元慶8年)の平安時代とされ、真言宗の開祖である大師・空海の弟子「宗叡」が創建したとされています。

当初は光明寺と呼ばれ、江戸貝塚(現在の千代田区平河町もしくは紀尾井町)に建っていたと伝えられています。

この後、1393年(明徳4年/室町時代)に浄土宗第八祖・酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の御代に真言宗から→浄土宗へと改宗し、この時に「増上寺」という名前に改称されています。

ところで・・増上寺の「増上」とは?

善導大師(中国浄土宗)の「観経疏定善義」によれば「増上縁」に由来して命名されたようです。

増上縁とは阿弥陀仏の本願(ほんがん/本来の願い。本望。)のはたらきを表した言葉であり、すなわち大願業力を示します。

これは、1212年頃に成立した「往生大要抄(浄土宗における教義の要点を集約した書)」の中に集録される、「阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせずといふ事なしといひおきて」の一文からも察することができます。

家康公が増上寺を徳川将軍家の菩提寺とした理由や経緯とは?

増上寺は時の権力者である徳川家康公との縁により、隆盛を極めることになりんすが、なぜ家康公は増上寺を徳川家の菩提寺と定めたのでしょう?

1590年(天正18年/安土桃山時代)のこと、時の権力者・太閤秀吉により三河から→江戸に移封を命じられた徳川家康は江戸への途上、たまたま増上寺の前を通りかかったそうです。

ここで「何かの縁」と捉え、諸願成就を兼ねて増上寺へ参拝に訪れたところ、当時の住職である源誉存応上人と対話する機会があり、この後に当寺院を菩提寺にすることに決したと伝えられています。

その後、家康公は江戸城を築城しますが、この時になぜか増上寺も日比谷へ移転しています。次いで江戸城の拡張工事が開始されると1598年(慶長3年)に家康公より移転が命じられ、現在地に移転しています。

以来、家康公の子孫となる代々の将軍たちは増上寺(もしくは寛永寺)に自らの御霊屋(おたまや/お墓)を建てることとなり、現今、増上寺境内にて徳川家の三つ葉葵紋が随所に見られる理由は、このような背景があったからです。ウフ

ただ、増上寺の歴史に関しての確たる資料が現存しておらず、江戸時代に家康公の命令で他所から現在地に移築されてきたということ以外、不明瞭なようです。

江戸時代は「関東十八檀林」の筆頭!

江戸時代には全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が設置され、その中でも増上寺は「関東十八檀林」の筆頭・主座を務めています。

檀林(だんりん)とは、僧侶養成のための修行や学問を修するための学問所を指しますが、往時の増上寺には約3000人もの僧が日夜修行に邁進し、当時の寺領は寺院としては破格の1万余石を誇り、「寺格百万石」と謳われたほどだったといいます。

増上寺周辺付近のその他の観光と見どころ

宝珠院

宝珠院(ほうしゅいん)は増上寺の塔頭寺院(子院)です。1685年(貞亨2年)に増上寺第30世・霊玄上人が開山となり創建されます。

御本尊に開運出世のご利益を持つとされる「開運出世弁才天」を据えることから、弁才天に因んだ「弁天池」が手前に広がり、少しホッとできる都民の憩いの場を提供しています。

場所は増上寺境内とは少し言い難いものがあり、東京タワー近くにあります。

  • 所在地:港区芝公園4-8-55
  • 御朱印授与の有無:有り

東京タワー

いわずと知れた東京ひいては日本が世界に誇るシンボルタワーです。

高さは奇怪な数字の並びとなる333m。竣工当初は当時、世界一の高さを誇ったエッフェル塔を抜き、世界一の高さを誇りました。

タワー内の2つの展望台と足元部分にあるお土産屋や飲食店が軒を連ねる商業施設フットタウンが有名です。

心光院

心光院は、増上寺の開山として知られる「酉譽聖聴上人」が開基、増上寺第56代の惠照律院光阿上人が開山した浄土宗の寺院です。

当寺院の創建は古く、1393年(明徳4年)に増上寺が江戸貝塚で創建した当初から、増上寺境内にあったとされ、増上寺が現在地(芝)へ移転した際、随行する形で移転しています。

この時の移転で現在の東京プリンスホテルの場所に移築されたようですが、当地に「淳信院(9代 徳川家重公)」の霊廟が造営されることになると、再び、当地に移転し、現在に至ります。

境内は小規模ですが、江戸庶民の間で有名な「お竹大日如来」が境内に鎮座しており、「お竹大日如来」の由緒に感銘を受けた桂昌院(5代将軍綱吉公の生母)が袋と箱を寄進しています。

  • 御朱印授与の有無:無し(かつては書き手の方がいたので授与されいたようです)

瑠璃光寺

1614年(慶長19年)に国宝の五重塔で有名な瑠璃光寺(山口県)の塔頭として、長州藩士・堅田就政(かただ なりまさ)が父様である「堅田元慶(かただ もとよし)」の菩提を弔うために発願し、付近に位置する後述の青松寺第9世法主「一峰麟曹」和尚が創建した寺院です。

以来、参勤交代において江戸居処した長州藩士の菩提寺として機能しています。

なお、当寺は基本的に一般参拝客に本堂を開放していないため、閉扉された本堂の前でお祈りをする形になりんす。(扉越しに御本尊の尊容を拝することはできます)

  • 御朱印授与の有無:有り

幸稲荷神社

東京タワーの内部には、なんと!タワー大神宮という伊勢の神を勧請したミニ神社がありんすが、この神社の祭事を担当しているのが、当社の宮司(神主)です。

また、タワー大神宮で授与しているお守りも当神社でご祈願されたお守りになりんす。

境内地は小規模ながら、室町時代に創祀された都内屈指の古社であり、かつては東京タワーの付近を通っていた鎌倉街道の鎮守として鎮座した歴史を有します。

  • 御朱印授与の有無:有り

金地院

金地院(こんちいん)は德川家康公が江戸城造営後、北の丸に「聖観世音菩薩像」を本尊、以心崇伝(金地院崇伝)を開山に据えて創建された臨済宗南禅寺派の寺院です。

金地院崇伝は通称・「以心崇伝(いしんすうでん)」のネーミングで有名であり、3代の将軍のブレーンとして仕えた南光坊天海大僧正と併せて「黒衣の宰相」の異名がありんす。

この金地院は東京のシンボル「東京タワー」のすぐ足下に位置しながら、境内の約半分は墓地や霊廟があり、都会の喧騒とはかけ離れた静寂さがあります。

境内には特に見どころと呼べるものはありませんが、江戸三十三観音霊場の28番札所の指定を受けることから江戸三十三観音霊場の御朱印を授与されています。

  • 御朱印授与の有無:有り

芝公園

他所から来た方であれば理解しがたいものがありんすが、芝公園は港区立と都立とで分かれています。

芝公園はかつて増上寺の境内地であったため、増上寺境内を中心としてその周囲に散りばめられるようにして配置されることから、少し変わった形態の公園といえます。

プリンス芝公園

プリンスホテルの所有地に広がる芝生の広場ですが、一般開放されているため「プリンス芝公園」と呼ばれ親しまれています。

付近には結婚式場を備えたプリンスパークタワーがそびえ立つことから、ブライダル写真の撮影場所として利用されたりもします。

もみじ谷(もみじ滝/蛇塚)

東京タワーの足下には、都立芝公園19号地にあたる「もみじ谷」という場所があり、この中には「もみじ滝」と「蛇塚」と呼ばれる、ちょっとした隠れたスポットがありんす。

「もみじ谷」の名前が付く通り、この谷の一帯にはモミジが植栽されており、さらに高さ10mの岩場が築かれ、その上から落下する人工の滝がありんすが、この滝を「もみじ滝」と呼称します。

⬆️もみじ滝

このもみじ滝には脇道があり、それを東京タワー通りの方へ向けてあがって行くと「蛇塚」という蛇が奉斎された塚が見えます。

この蛇塚は某TV番組で紹介され、都内屈指のパワースポットとして一躍有名になったようですが、なんでも毎夜々々、蛇が夢枕に現れた女性が仕事運と金運に恵まれ、蛇を当地に祀ったのが始まりのようです。

以来、当地は蛇神信仰(龍神信仰)の場として知られるようになっています。

⬆️蛇塚

芝東照宮

芝東照宮は後述する丸山古墳と円山稲荷の付近に位置する森林の中に鎮座する神社です。かつては江戸幕府の創始者である徳川家康公の御霊を祀った増上寺に属する安国院と呼ばれる殿舎でしたが、明治6年に増上寺から独立し、芝東照宮と名乗ります。

しかしながら、独立とはいえ、”東照宮”と付くことから日光東照宮を総本宮とする東照宮シリーズの神社の1つになります。

  • 御朱印授与の有無:有り

芝丸山古墳

現在では「芝丸山古墳」と呼ばれ親しまれていますが、江戸時代には秀忠公の御霊屋および増上寺自体が江戸城の裏鬼門封じの鎮守と言われ、この芝丸山古墳がある場所は太古からのパワーが蓄積された都内屈指のパワースポットとも囁かれています。

都内最大規模を誇る古墳であり、古墳の山頂は標高16mもあることから周囲の景色を軽く一望できます。

この古墳の見どころの1つに古墳の全景の中央部分に鎮座する「円山随身稲荷神社」があります。なんでも増上寺の裏鬼門の方角を守護するために鎮座したという由緒ある神社です。

芝公園や前述、芝東照宮へお越しの際は、ぜひ、気軽に立ち寄ってみてくださいな。

妙定院

1763年(宝暦13年)に9代目将軍「家茂公」が発願し、増上寺第46世の妙誉定月(じょうげつ)大僧正が開山となり創建された増上寺の塔頭寺院になりんす。

境内の半分は墓地であるため、境内とは呼べる場所は皆無に等しいながらも、国の登録有名文化財の指定を受ける熊野堂と浄土蔵、それに家茂公奉納の石灯籠が隠れた見どころとなりんす。

  • 御朱印授与の有無:有り

芝大神宮

現在の佇まいは小規模ですが、かつては天皇の勅使が参向する准勅祭社の1社であり、東京十社にも列せられるほどの社格をそなえた都内屈指の古社です。

創建は平安時代と古く、伊勢神宮の内外宮の両神を勧請・奉斎し、源頼朝卿や徳川将軍家からの信仰も篤く、現今に至ります。

当宮で授与している縁起物「千木筥(ちぎばこ)」は隠れた東京土産として有名です。なんでも千木が”千着”に通じることから「女性の服が増える」に紐づき、現今に至っては女性に多幸をもたらすとされ、お熱ぅ〜ぃHOTな良縁むすびのご利益があるとされています。

  • 御朱印授与の有無:有り

青松寺

 

青松寺は曹洞宗に属する寺院であり、江戸時代においては府内の曹洞宗を取りまとめる江戸三箇寺(えどさんかじ)を担うほどの寺院でした。

かつては麹町貝塚に所在していた経緯から、「江戸貝塚の青松寺」と言えば泣く子も黙るほど学問の寺として有名であり、現今の駒澤大学の前身としても有名のようですが、業界に影響を及ぼすほどの多くの著名人を輩出し続けることから、現在でも学問寺としてのスタイルを保ち続けています。

境内は小規模ながら2つの門が建ち、よく観光媒体には境内入口となる楼門造り・四天王像安置の山門と、その奥に控える中門の位置付けとなる「中雀門 (ちゅうじゃくもん)」が特徴的です。

  • 御朱印授与の有無:なし

愛宕神社

⬆️泣く子も黙る有名な「出世の石段」

不思議しぎしぎ摩訶不思議なことに、ちょうど愛宕山と呼ばれる一帯のみ標高25.7mの小高い丘陵地帯になっており、この山頂に愛宕神社が鎮座しています。

当神社は徳川家康公が持念仏の1つである勝軍地蔵菩薩(しょうぐんじぞうぼさつ)を勧請して、1603年(慶長8年)創建された経緯から、古来、勝負運爆UPのパワースポットとしての崇敬の念を集積しています。

また、境内に行くまでに昇ることになる「出世の石段」も有名です。この石階段が”出世の石段”と呼ばれる理由は、かつてこの山の頂には枝ぶりのよい梅の木が生えており、その梅をとって参れと、たまたま付近を通った家光公が近習の家臣に告げたそうです。

しかし、坂が急こう配になっていたため、軽々と首を縦に振れずに困惑した表情を浮かべる家臣一同でしたが、その時、家光公に随従していた四国丸亀藩の家臣・曲垣平九郎がどこからともなく馬をあやって坂を駆け昇り、見事、梅をとって家光公へ献上したのです。

家光公は馬術もさることながら、馬術を磨き続けた平九郎に敬意を表し、「天下一の馬術名人」と告げ、大喜びしたそうです。

この一件は一夜にしてに全国をかけめぐり、後に俗称で「出世の石段」と呼ばることになりんした。

増上寺の開門時間(営業時間)・定休日・電話など

・名称:三緑山 増上寺(ぞうじょうじ)
・所在地:〒105-0011東京都港区芝公園4-7-35
・問い合わせ先:電話番号03-3432-1431
・公式HP:浄土宗大本山増上寺

開門時間(営業時間)
  • 境内参拝時間/6:00〜17:30
  • 御朱印・お守り授与受付時間:9:00~17:00(安国殿)
  • 宝物展示室:10:00~17:00(最終入場 16:45)
  • 徳川将軍家墓所10:00~16:00(最終入場 15:45)
定休日
  • 基本:年中無休
  • 宝物展示室/徳川将軍家墓所は火曜休館(火曜日祝日の場合拝観可)
境内拝観料金
  • 参拝のみは無料
  • 増上寺宝物展示室は入場料:700円(税込)
    ※徳川将軍家墓所拝観とのセット券は1,000円
境内設備一覧
  • 駐車場:なし(隣地プリンセスホテルにコインパーキングあり)
  • トイレ完備
  • 自動販売機あり(宗務所)
  • 飲食施設(上記参照)
  • 喫煙所あり
  • 外国語パンフレットあり(英語のみ)

増上寺までの交通アクセス(最寄りインター・最寄り駅)

車でのアクセス

首都高速 芝公園ランプより約5分

電車でのアクセス

・都営地下鉄三田線・御成門駅から徒歩約3分
・都営地下鉄三田線・芝公園駅から徒歩約3分
・都営地下鉄浅草線・大江戸線 大門駅から徒歩約5分
・都営地下鉄大江戸線・赤羽橋駅から徒歩約8分
・JR山手線・東京モノレール・浜松町駅から徒歩約13分
・東京メトロ日比谷線・神谷町駅から徒歩約10分
・JR線・東京モノレール・浜松町駅から徒歩約12分

【補足】羽田空港からのアクセス

・東京モノレールに乗車して浜松町駅で下車、徒歩約15分

バスでのアクセス

・富士エクスプレス 港区役所駅下車、徒歩約2分
・都バス 東京タワー駅下車、徒歩約4分

増上寺は浄土宗の総本山ですか?

浄土宗の総本山は、京都府京都市にある知恩院になりんす。総本山とはその宗派を総括している寺院であり、その宗派の中でもっとも寺格の高い寺院を指します。

増上寺の寺格は総本山ではなく「大本山」です。

総本山と大本山の違いを一言で簡単に言うと、総本山がもっとも高い格であれば、大本山は次に高い格を意味します。

まとめると増上寺は知恩院の次にエラ〜ぃお寺ということになりんすね。モフっ

ちなみに浄土宗には全国に「七大本山」と呼ばれる寺院がありますが、増上寺はその内の1つです。1875年(明治8年)に浄土宗大本山に列せられています。

浄土宗 七大本山・一覧
  1. 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
  2. 百萬遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)
  3. 清浄華院(しょうじょうけいん)
  4. 善導寺(ぜんどうじ)
  5. 光明寺(こうみょうじ)
  6. 善光寺大本願(ぜんこうじだいほんがん)

増上寺に喫煙スペースはありますか?

増上寺に喫煙スペースは‥あります!場所は本堂の階段下になります。

増上寺のバリアフリーについて「車椅子で参拝することはできますか?」

増上寺境内はバリアフリー化が進んでいますので、車椅子での参拝が可能です。ただし、一部、車椅子では行けないエリアもあります。

浄土宗はお寺の寺観に教義を反映させるために一見すると、本堂までの道のりを見れば本堂内にもバリアフリー化が進んでいないように見えますが、本堂までの道のりの脇から本堂まで行けるようになっており、本堂内部にもエレベーターが設置されています。

また、足腰の弱い方でも車椅子の貸出しを行っています。

ペット連れで境内へ入れますか?

増上寺境内はリード(ヒモ)を付けての散歩をさせるようなペット連れは入場できませんが、ケージ入れたり抱っこしての入場は構わいませんとのことです。

また、御朱印やお守りを拝受するために建物内へ入室するのも問題ないとのことです。

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