幸稲荷神社(瘡護神社)の歴史(年表)・由来や境内の様子・見どころを解説!

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幸稲荷神社は東京タワーから徒歩約5分圏内に位置する神社であり、東京タワーの敷地が当神社の氏子地域である縁からタワー内に鎮座する「東京タワー大神宮」の祭事(神事)も当社、宮司(神主)担当されています。

東京タワー大神宮に立ち寄られた方であれば幸稲荷神社の紹介が書かれた案内看板を見られた方も多いと思いますが、以下ではその幸稲荷神社の歴史や境内見どころや交通アクセスなどをご紹介しています。

幸稲荷神社(瘡護神社)【旧・御府内古跡十三社】

創建年
  • 1394年(応永元年/室町時代)4月
再建年
  • 1713年(正徳3年/江戸時代中期)※現在地に移転
  • 2016年(平成29年)※社地全体整備工事
御祭神
  • 伊弉冉命(いざなみのみこと)
  • 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
  • 菅公(菅原道真公)
例祭日
  • 8月14日と15日
社格
  • 村社

※格付けの順番(諸社):府社=県社=藩社>郷社>村社>無各社

ご利益

多幸招来、商売繁昌、五穀豊穣、子孫繁栄




幸稲荷神社(瘡護神社)の歴史・由来

江戸時代に創建!

「三縁山志(1819年/文政2年編纂)」、「文政寺社書上(1829年/文政12年編纂)」、「備考続編(1829年/文政12年編纂)」の記述によれば、幸稲荷は、旧・武蔵国豊島郡岸村(岸之村/=現在の芝公園地10号地・芝公園2丁目2番/増上寺黒門前付近)の鎮守社として勧請されたとされ、当初は「岸之稲荷大明神」と称されていたようです。

かつての岸之村は、ホトトギス(カッコウ)のバードウォッチングの名所として知られおり、村が鎌倉街道に面していたことから『鎌倉街道の岸』と聞けば=『ホトトギスの名所』とまで称されるほどだったようです。

延宝6年編纂の「江戸方角安見図」には「きし門前」、元禄16年編纂の「改撰江戸大絵図」には「キシ門前」と書かれており、これは「岸之村」から「芝岸町」へ移行する際、幸稲荷神社社地付近に人家が集約され、さながら増上寺の門前町の様相がとられていたことを物語りんす。

⬆️芝公園10号地の場所(地図)

⬆️水色:「きし門前」と呼ばれた場所(地図)
緑色:「イナリ」と書かれた場所がが現在地

以降は時代を下りながら地域の氏子ならびに、崇敬者の間で諸願成就、商売繁昌、子孫繁栄などに霊験があったとかで、幸事の現世利益が得られると広まったことから、1624年(寛永元年)に”幸”の字を付して現在の社号である「幸(さいわい)稲荷神社」と改称しています。

寛永年間となる家光公の御代の時には、「府内古跡十三社」の一社に列せられますが、1713年(正徳3年)に幕府の御用地(徳川将軍家霊廟)として増上寺付近となる芝片門町、芝永井町、芝富山町、芝七軒町、芝岸町が召し上げられ、その代地として現在地が充てられたようです。

当時の寺社奉行「森川出羽守」が、7代目将軍家継公の名代としてこれらの一報を伝えに参上し、この時を境に幸稲荷神社も現在地に移転する運びとなっています。

移転後、現在の芝中学校や隣地のマンション(パークヒル芝?)を含めた一帯がの社地に充てられており、社地の一部を貸し出して、寄席や水茶屋、軍記読み、矢場や見世物などの露店が開かれ、社頭には大いに賑ったと伝えられています。⬆️現在の地図に往時の幸稲荷の土地をあてはめてみた図

明治時代に合祀される!

明治時代初頭になると神仏分離令(1870年/明治3年)が発令され、これにより、当時、芝公園内外の寺院の境内などに鎮座していた次の神社が幸稲荷へと合祀されることになりんす。

瘡護神社
  • 御祭神:豊宇迦比売神
  • 旧社地:旧芝公園18号地(増上寺境内)

⬆️瘡護(稲荷)神社の往時の社地と現在地(幸稲荷境内)

稲荷神社
  • 御祭神:大氣都比売神(商売繁盛の神)
  • 旧社地:旧芝公園21号地 (現在の東京タワー足元の金地院内)
三峯社
  • 御祭神: 大山咋神
  • 旧社地:旧芝公園21号地 (現在の東京タワー足元の金地院内)
熊野神社
  • 御祭神:國常立神・伊邪那岐神
  • 旧社地:旧芝公園4号地(増上寺境内)
茅野天満宮(茅野天神)
  • 御祭神:菅公(菅原道真公)
  • 旧社地:旧芝公園12号地(増上寺境内)

かつての茅野天神は増上寺安国殿(現在の芝東照宮)の手前、現在の銀世界(梅林)のあたりに在りました。

これは江戸名所図会にも載っています。

かつて茅野天神は、社殿や境内を備えた現在の幸稲荷ほどの敷地を有した神社であったことが分かります。

⬆️「安国殿」は現在の芝東照宮のこと。「円山いなり」は現在の丸山随身稲荷。その上に秀忠公の御霊屋(宝塔)の供養塔(五重塔)が見える。

松野天満宮(松野天神)
  • 御祭神:菅公(菅原道真公)
  • 旧社地:旧芝公園16号地(増上寺境内)

合祀以後、幸稲荷社は1874年(明治7年)に村社に昇格しています。

昭和時代!

1945年(昭和20年)になると太平洋戦争の東京大空襲により、本殿およびその周辺一帯の社地全体が灰燼に帰し、焼け野原しんのすけ状態に陥ります。

この際、宮司やその一家が代々伝承される縁起書などの古文書類を持ち出していたために焼失という最悪の事態は免れています。

1960年(昭和35年)には、焼失した社殿が新造されており、これが現在見る御社殿の姿となりんす。

1977年(昭和52年)になると東京タワー創立20周年記念に際し、伊勢の神宮より天照・豊受の2柱の伊勢大神を勧請して「タワー大神宮」が創建されますが、東京タワーが幸稲荷神社の氏子地域であった縁から、タワー大神宮の祭事はすべて当社の宮司が執り行っています。この様相は、半ば、幸稲荷社の境外社という位置付けにも例えられます。

2016年(平成28年)には、境内全体の整備工事が実施されており、境内にあった伝来する縁物を一ヶ所に集約し、白色の玉砂利が敷かれたり、社殿脇にコインパーキングが開設されするなど今日に至ります。




幸稲荷(瘡護神社)の境内見どころ

鳥居

1942(昭和17年)に奉納されたとされる鳥居。ということは太平洋戦争以前のものか。‥戦災を免れた?

扁額には大きく金文字で「幸稲荷神社(さいわいいなりじんじゃ)」と書かれている。

⬆️本殿(拝殿)前から見た鳥居のウラ側。手前のレンガは「芝給水所公園」

境内入口石柱

境内入口となる鳥居の両脇には石柱が左右で1本ずつ建てられています。左には「瘡護神社」。右側には「幸稲荷神社」と刻字されています。

左側の石柱の刻銘

オモテ面には「幸稲荷神社」の刻字とウラ面には以下の刻字が見えます。

「海軍大将 山本英輔謹書」の刻字が見えることかあら山本氏が奉納した石柱になりんす。

山本英輔氏は1876年(明治9年)5月15日にこの世に生を得て 1962年(昭和37年)7月27日に他界。存命中は、海軍航空本部の初代本部長や、横須賀鎮守府司令長官m、連合艦隊司令長官といった要職を歴任した人物です。

左側の石柱の背面(ウラ側)には次のような刻銘が見えます。

「昭和拾七年 五月吉日」「奉献 兵卒総代 中野〇〇」

ちなみに石柱のとなりの石塀にも奉納者と思われる刻銘が見える。

「財団法人 機械振興会館」「昭和41年8月吉日」

機械振興会館は幸稲荷社の隣地にある会社。

右側の石柱の刻銘

オモテ面には「幸稲荷神社」の刻字とウラ面には以下の刻字が見えます。

「昭和拾七年 五月吉日」「奉献 兵卒総代 中野〇〇」

どうやら左側の石柱と同じ人物が奉納した石柱になるようですが、この石柱の刻銘の内容から察するに、山本海軍大将にお世話になった退役軍人の方々が奉納した石柱なのでしょう。

手水舎(ちょうずや)と水盤

手水舎とは寺社の入口にあって口と手を洗い清める場所です。石造りの水盤に水が貯められており、この水を柄杓で汲み取って口と手を洗い清めます。

手水舎の水盤は石造りが多いことから、戦時中の供出を免れていることが多く、割合、古いものもありんす。

例えば幸稲荷社の手水舎の水盤を見てみると‥次のような刻銘がみえます。

「萬延二年(1861年) 二月吉日」「氏子中」

1861年当時の将軍は第13代家茂公。江戸幕府は15代慶喜公で終焉を迎えていますので、江戸時代後期になりんす。

「氏子中」‥氏子からの奉納を示すもの。

以上、150余年を経た水盤であることが分かります。

本殿

扁額(へんがく)

扁額とは、額(がく/表札)のことです。賽銭箱の前から上を見上げると2つ扁額がありんす。

向かい見て右側の扁額には「幸稲荷神社」と金文字で書かれ、左側の扁額には「蒼護神社」と金文字で書かれた扁額が見えます。

蒼護神社については下記にて説明しています。

軒唐破風

軒唐破風正面には、幸稲荷社の御神紋があしらわれた、かざり金具がまばゆいばかりに後光を放っています。

一部、破損箇所が見れられることから、年季を入りようを感じる。

⬆️右側「三つ巴紋」

⬆️左側「稲穂紋」

観音開きの扉。右扉に「三つ巴紋」、左扉には「稲穂紋」が見えます。

扉上部の千社札が神仏習合の名残りを感じさせる。

神明造

一見すると本殿に無理やり拝殿を連結させたように見えます。本殿平側の高欄が拝殿の壁になっています。

基本的な建築様式は、伊勢神宮で見られるような掘立柱の神明造ですが、本殿を介して拝殿と家屋(社務所)を連接させるため、従来の神明造を少し改良したような様式を採っているのが分かります。




鰹木

鰹木は6本、千木は内削ぎの銅造りです。俗説では鰹木が偶数だと女神、奇数だと男神を祀っていると言われますが、はてさて。

当神社にこれを当てハメると偶数!‥ということで女神?となりんすが、不思議なことに事実、当神社では女神とされる神を祀っていることから、あながち間違いではないのではないことになりんす。

幸稲荷神社のメインの御祭神
  • 伊弉冉尊/いざなみのみこと(女神)
      • 宇迦之御魂神/うかのみたまのかみ(性別不詳とされるが通説では”女神”とされている)

灯籠

「昭和参拾七年(昭和37年) 八月吉日」の文字が見える。

境内社「瘡護神社」

「瘡護」と書いて「かさもり」と読みんす。旧社号は「加佐森神社」。

上述したように明治時代初頭になると神仏分離令(1870年/明治3年)が発令され、これにより、当時、芝公園内外の寺院の境内などに鎮座していた次の神社が幸稲荷へと合祀されるに至ります。

この一環で当社も幸稲荷神社へと合祀されていますが、不思議なことに相殿形式で扁額が主祭神のものと並べられる形で飾られています。

入口鳥居の両脇に立つ社号が刻字された石柱もそうですが、御本社と並立する形式で「瘡護神社」の名前が刻まれています。

これは蒼護神社が霊験あらたかな神社として知られていたからであり、当時はなんとぉぅ!蒼護神社の方へ参拝する人の方が多かったそうです。

故に現在見られるような本殿にて相殿形式で祭祀される理由につながっています。

蒼護神社の不思議しぎしぎ摩訶不思議なご利益とは?

かつて日本で「天然痘(てんねんとう/別名「疱瘡(ほうそう)」が流行った時期がありましたが、この神社へ参拝する人が絶えなかったそうです。

理由は、当神社の名前の由来にもなっていますが、「瘡(かさ)から護る」、すなわち、当社へ参拝して真摯に祈願すれば”腫れ物や出来物はたちまちのうちに消え失せる”という霊験があったとされるからです。ウフ

奇怪かいかい怪物くん!瘡護神社に伝わる土団子・米団子奉納の風習とは?

この瘡護神社にはちょっと風変わりな風習というか参拝方法が伝えられており、なんでも病気を患ったら土団子を作ってそれを神前へ供えて手を合わし、病気が治ったら今度は米団子を練って神前へ供えるそうです。

このような風習は当神社が現在の幸稲荷社と合祀される前の増上寺境内に鎮座していた頃からあったとされ、故に霊験を求める参拝者が絶えなかったようです。

向う横丁のお稲荷さん♪

わらべ歌もしくは手毬歌に「向う横丁のお稲荷さん♪」というものがありんすが、この歌の中でも土団子、米団子のことが歌詞に組み込まれて歌われています。

向う横丁のお稲荷さん♪歌詞

向う横の お稲荷さんへ
一銭あげて
ざっと おがんで お仙の茶屋へ
腰をかけたら 渋茶を出した
渋茶よこよこ 横目で見たらば
米の団子か 土の団子か
お団子 団子
この団子を 犬にやろうか
猫にやろうか
とうとう とんびに さらわれた

なお、この歌は当神社のことを指すのかは明瞭ではありませんが、東京都台東区谷中(感応寺境内)にも大阪は高槻から勧請されたと伝わる「笠森稲荷神社」という”瘡病に効験あり”とされる古社が鎮座しており、別名で「瘡守 (かさもり) 神社」とも呼ばれています。

噂が噂を読んで大きな流行を生んだ江戸時代、ひょっとすれば当神社と笠森社の2社をひっくるめたものが、わらべ歌として歌われたのかもしれませんゼ!

本殿前方の狛犬(向かい見て左側)

子供となるミニ狛犬をエラそうに右足、右手?で踏みつけていますが、踏みつけられているのは自らの子供の狛犬です。

だから子供も親に踏まれているので腹も立ちませんので、怒った様子は無い‥とも言い切れんか。ちょぃキレる寸前のような顔面をしておる。

本殿前方の狛犬(向かい見て右側)

一方で右側の狛犬は鞠を踏んでいますが、これらの狛犬は子供踏み、玉(まり)踏みと2対合わせて「玉取り・子取り」と呼ばれることがありんす。

そもそも日本に狛犬が伝来したのは平安後期と云われ、当初は物珍しさからか、天皇の宮殿の主要な出入口にも置かれることがあったようです。

おみくじ

通常の寺社同様に幸稲荷神社にも、おみくじが置かれています。引く場合は初穂料となる100円を賽銭箱に静かにブチ込んでから引きましょう!静かにブチ込む?どうやって静かにブチ込めんねん

引いたおみくじは上述、手水舎の柱に、おみくじを掛けるロープが張られていますので、そちらにかけましょう。

「萬延二年辛酉二月初午」と刻まれた石柱

上述、手水舎もそうですが、手水舎の後方に立つ一際大きな石柱にも「萬延二年辛酉二月初午」と刻まれています。

萬延年間は1年にも満たない短い元号の期間であり、「萬延2年2月19日」には次の文久(文久元年)へと改元されていますので、ある意味レアな手水舎と石柱になりんす。

⬆️「萬延二年辛酉二月初午」の刻銘




ご神紋(家紋)

幸稲荷では「稲穂」と「三つ巴」の次の2つを社紋を使用しているようです。

このことは当神社の公式ホームページにも書き記されています。

「稲穂」

稲荷社へ行くとよく見かける社紋がこの稲の姿が記された社紋です。「稲穂紋」。

⬆️手水舎近くにあった風蝕作用により削れた稲穂紋と見られる…無残

「三つ巴」

「三つ巴」へ行くとよく見かける社紋がこの稲の姿が記された社紋です。

ちなみに上掲、写真の提灯下に「明治百年記念 昭和四十三年八月吉日」の文字が見える。

1968年(昭和43年)10月23日には日本政府主催による「明治百年記念式典」の式典が執り行われている。だとすればこの提灯は前倒しでその直前となる同年8月吉日に当神社へ奉納されたものか。‥40余年以上の月日を経たということになる。

境内社「茅野天満宮」・「松野天満宮」

境内の片隅には茅野天満宮・松野天満宮という菅公を祀る2社の神社が鎮座していますが、上述したようにかつては増上寺境内地に鎮座していた神社です。

1868年(明治元年)3月に明治政府により神仏分離令が発令されます。この法令により、寺院と神社は完全に切り分けて考えられるようになり、増上寺境内に鎮座していた神社は移動を余儀なくされます。

その一環で茅野天満宮・松野天満宮は現在の幸稲荷社境内へ移転することになりんすよ。

⬆️この小さな覆屋風のミニ社殿の中に2柱の神が祭祀されている。

小さなミニ神社ですが、菅公が祀られているので、ぜひ!菅公のご利益である合格祈願や勉学の向上を祈願してみてください。

御祠石

「みふくらいし」と読みます。漢字では「御福良石(みふくらいし)」とも書かれ、別名で「影向石(ようごうせき)」とも呼ばれるようです。

慶長年間(1596~1615年)にはすでに当社にあったとされる摩訶不思議な石コロころリンどどろんぱ!‥です。

なんでも当神社へ参拝の折、病気の人がこの石に水をかけながら、平癒を祈願すると、たちまちのうちに病魔が退散すると云われています。

また、子供の夜泣きに悩む人がこの石に水をかけながら、夜泣きしないでぇ〜‥などと祈願すると、あらま!不思議!赤子の夜泣きがなくなるそうです。

この石がこのような由来を持つ理由は、増上寺第12世観智 国師(源誉存応上人)の夢にこの石に水を掛けて祈願すれば熱病が癒えるという啓示があったそうな。

⬆️後ろのどデカイ石碑は奉納者一覧の石碑になりんす。(御祠石ではない)

社務所

⬆️幸稲荷神社の社務所の外観

社務所では御朱印の他、お守りを授与されています。

幸稲荷神社の開門時間(営業時間)

  • 9時〜17時頃まで(御朱印の受付は10時〜16時頃まで)




その他、幸稲荷神社(瘡護神社)の『あまり目がいかない境内見どころ』

削れた社紋が彫られた石コロころ‥ドコいった

⬆️左脇には古びたキツネ像も見える

東京タワーと御本殿のコントラストが映える

幸稲荷神社斜め向かいのオランダ大使館前から東京タワーを観る!

ここからの見栄えもベスト!

でもやはり一番は‥港区図書館のある芝公園4号地から見る東京タワー!

⬆️どないですかいな?

幸稲荷神社のホームページに注目!

なんと!当神社のホームページには、幸せを呼び込むとされる四つ葉のクローバーと、赤いてんとう虫がロゴマークに使用されています。

幸せに対してのコダワリが強い=それだけより多くの方のご多幸を願う度合いとも受け取れます。

幸稲荷神社(瘡護神社)の所在地・電話番号など

  • 住所:東京都港区芝公園3-5-27
  • 電話番号:03-3431-8281

幸稲荷神社のへの交通アクセス

最寄駅

日比谷線「神谷町駅」より徒歩約 5分
三田線 「御成門駅」より 徒歩約7分

幸稲荷神社の御朱印やお守り・境内見どころ・歴史について

幸稲荷神社の御朱印や境内見どころ・歴史については下記ページをご覧ください。

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